Then Mucalinda, the serpent king, at the end of those' seven days, having known that the sky^ was clear and without a cloud, having imwoimd his coils from the Lord's body, having given up his own form and assumed a youth's form, stood in front of the Lord honouring the Lord with joined palms.
3. And at the end of those seven days, when the Naga king Mukalinda saw the open, cloudless sky, he loosened his windings from the body of the Blessed One, made his own appearance disappear, created the appearance of a youth, and stationed himself in front of the Blessed One, raising his clasped hands, and paying reverence to the Blessed One. (Vinaya Texts, Part I (SBE 13) - Mahavagga - First Khandaka) http://www.sacred-texts.com/bud/sbe13/sbe1312.htm
>>420で引用した英訳 Then Mucalinda, the serpent king, at the end of those'seven days, having known that the sky^ was clear and without a cloud, having imwoimd his coils from the Lord's body, having given up his own form and assumed a youth's form, stood in front of the Lord honouring the Lord with joined palms. (Full text of "The Book of the discipline : (Vinaya-pitaka)") http://archive.org/stream/bookofdiscipline14hornuoft/bookofdiscipline14hornuoft_djvu.txt
上の英文 made his own appearance disappear, created the appearance of a youth, and stationed himself in front of the Blessed One, raising his clasped hands, and paying reverence to the Blessed One.
下の英文 having given up his own form and assumed a youth's form, stood in front of the Lord honouring the Lord with joined palms.
霊感商法、霊視商法をするカルト宗教・阿含宗の宗教詐欺を世に知らしめるためのスレッドです。
■阿含宗関連サイト■
考察資料の総合案内「agama考察室」
http://agama.zouri.jp/
議論スレ:「阿含宗と桐山氏について」(したらば)
http://jbbs.shitaraba.net/internet/3419/
過去のザビビ復活!ザBBS(過去のザビビよるデータをFC2に譲渡)
http://thebbs.fc2.com/ (阿含スレは”桐山氏と阿含宗について”)
テーマ別の阿含宗批判「agama galage」
http://agon.konjiki.jp/
過去ログ倉庫:「阿含宗という宗教」
http://souko.digi2.jp/
過去ログ倉庫:ザビビ「阿含宗と桐山氏について」
http://agama.ehoh.net/kakoindexthebbs.html
阿含経の分析や研究に 「agama 研究室」(アーガマ 研究室)
http://agon.genin.jp/
退会について考えたり相談できるサイト 「agon secession club」 略称ASC
http://agama.jounin.jp/
昔 桐山の側近でその後 瞑想サークルなんかしてたヨコヤマという人物を。
↓
主食部門:レシピ大賞のご紹介
http://www.nutri.co.jp/enge-news/archive/detail/0000688.html
今回は、主食部門・レシピ大賞を受賞されました、中村病院様(東京都)をご紹介いたします。
↓
仁寿会中村病院広報紙より 「嚥下食レシピ大賞受賞」
http://jinjukai.or.jp/docs/koho/images/17.pdf
栄養科で作成した嚥下食(歯がない方や飲み込みの悪い方の為の、軟らかいお食事)の
お好み焼きが、㈱ニュートリー主催『第三回 嚥下食レシピ大賞』の主食部門で見事大賞を
受賞しました!!
Ψ(`∀´)Ψケケケ
>Ψ(`∀´)Ψケケケ
で、その後の段取りはどうするね?
九十歳位でしょうか?まあ長寿の部類ですね。>>
現在96歳、猊下の運命学も間延びして当てにならないというお話し。
それからですなぁ、人にはどんな因縁が在るか?の各種因縁なんですがね。
アレは33に分れるそうでありますね、あれの典拠は探しても無いのです。
何故ないかというと理由は言えないほどの広大霊感的な秘密なんですよね。
「何故できないか」を考えること自体できない。 だから家畜と呼ばれても仕方ない。
もと家畜より
当たり前だろ、だって桐山の作り話だからな(笑)
深山懐石 http://www.okunikko.co.jp/meal/
>閑話休題 随分以前の法話で猊下曰く、<<わたくしの寿命ですか?そうねぇ
> 九十歳位でしょうか?まあ長寿の部類ですね。>>
> 現在96歳、猊下の運命学も間延びして当てにならないというお話し。
私が覚えている古い法話は、「90歳まで生きたら後は癌になって死んでもいいでしょう」
というものです。
しかしこの話はおかしい。いくつになっても癌は癌であり、苦痛もあるし
とにかく癌で死んだら、あるいは癌になったら癌の因縁は切れていないことになります。
この話が自分の話とオーバーラップさせた文脈で語られたものではなかったかもしれないが、
桐山さんは自分が90過ぎまで生きることを想像としても想定しておらず、
想像力貧困なゆえに問題を問題として受け止める能力がなかったのです。
他人のそれを見て、90過ぎまで老醜を晒して生きることをよく思ってすらいなかった。
自分がまだ若いからです。
しかし90過ぎまで生きても人間の喜怒哀楽は変わらないのです。苦しみは共通です。
90過ぎたら因縁切らなくてもよいのか?
洞察力の欠如であり、因縁解脱という作り話に対する設定の甘さの証明です。
> それからですなぁ人にはどんな因縁が在るか?の各種因縁なんですがね。
>アレは33に分れるそうでありますね、あれの典拠は探しても無いのです。
>何故ないかというと理由は言えないほどの広大霊感的な秘密なんですよね。
33ではなく23か22です。どこから33なんて勝手な数字を持ってきたのか?
観世音菩薩が33身を以て顕現される話と混同してないか?
ちゃんと著書を数えなさい。桐山さんの真似してうろ覚えの記憶に頼るのはやめなさい。
密教占星術1の「人はどんな因縁を持つか」では数字が付番されており、
23の怨集の因縁まで悪い因縁が列挙されている。
その後良い因縁が7つ挙げられているが、星の名前の違いに注目。
悪い因縁の星は阿鼻惹星とかあるが、良い星の方は天徳貴星とか、全然命名の体系が違うでしょ?
阿鼻惹星とかは宿曜占星術の二十七宿のサンスクリット読みに漢音の音訳の当て字をしただけ。
これが脳障害の因縁であるはずがない。
天徳貴星とかは四柱推命の吉星でしょう。
だからもうバラバラのメチャクチャです。
また面白いことに密教占星術1では23個ある悪因縁の星だが、龍神が翔ぶでは
怨集の因縁がなくなり22に減っている。これはさらに後の修行者座右宝鑑においても
最後の怨集の因縁のない22個の悪因縁を継承してしまっています。
怨集の因縁が軽視されてよいはずがない。あったら深刻な人生の不幸だ。
またその怨集の因縁にも密教占星術1にはサンスクリットの漢音読みの当て字星が
分類されているのだから。
たぶん自分の著書を引用していくうちに忘れたのだろうが、いいかげんなものです。
またこの22から23因縁には結核に相当するものがない。
結核は今でも死者だって世界的には多いのに。桐山因縁は死に至る病気だけを
病気の因縁とはしていないのに。
つまり人生の苦の諸相を形成するのには分類が足りないし甘いのです。
これらは全て因縁の星など桐山さんのお粗末な頭脳が創作した作り話であることを
物語っています。
を学ぶ資格はないの。そういうバカは大乗仏教
してたらいいのです。
因縁解脱を説く仏教は、阿含経だけですから。
煩悩を無くすことは、大乗仏教も阿含仏教も
同じだよ、だがそれだけが目的なら阿含宗を立てる必要はないのです。
煩悩を無くしながら、因縁を切る教えが阿含経
にあったから、桐山師は阿含宗を立てたのです。この意義を分からない人は、阿含宗に入って
も無駄だね。
金と時間を失って、バカ見るだけです。
深山ユビキタバカ先生が見本です。
「涅槃とは縁起の法から解脱すること」
と、釈尊が説いている。
つまり、○○の因縁を解脱しながら、
最終的には縁起の世界から解脱してしまうこと、それが因縁解脱という釈尊の教えだね。
桐山師はそれを阿含経に発見したのです。
なかなか難しい教えだから、
御利益取引信仰を熱心にしたような深山ユビキタ先生には分からないのも無理はないのです。
へ~。それで桐山の因縁が切れていないのは何故なんだ?
> 現在96歳、猊下の運命学も間延びして当てにならないというお話し。
これは興味深い。
宝生さんは、桐山さんの運命学は当たらない、と言うのですね?
宝生さんはてっきり桐山ゲイカの霊能力、予知能力、運命学を
深く深く信じているのかと思ったら、桐山運命学はダメポだという。
>>460 :神も仏も名無しさん:2015/09/19(土) 16:58:36.97 ID:2k8YPtIn
>桐山師の名誉教授とか何とかはお飾りで殆ど無意味に近いと小生も思う。
>>72 :神も仏も名無しさん:2014/04/17(木) 00:47:16.44 ID:X5IsulDf
>なのである。ソンディ理論は付け足し。
>>618 :自己責任です:2009/08/10(月) 12:59:17 ID:H1PtLE9D
> 先祖供養とは、これは修行<みたいなもの>でありまして其のものではない。
> 仏舎利の見解だが フェチズム(玩物)だろうと思っています。
>>297 :自己責任です :2009/08/16(日) 03:44:20 ID:sCgNx11j
> 守護神霊に関しては君の様な何処の誰だか知らない人物に答えられません。
宝生さんの説では、桐山さんの名誉教授はお飾り、ソンディ理論は付けたし、
先祖供養は修行そのものではなく、真正仏舎利はフェチで、
桐山ゲイカの守護霊など価値がなく、桐山運命学は間延び。
これだけ桐山アゴン宗を罵りながら、宝生さんは信者だという。
>>216 :いうに言えない:2009/07/05(日) 02:34:22 ID:JMgtUUd5
>私は、アゴン宗の会員です
これまでの擁護側で一番桐山さんを罵っているのは宝生さんですね。
一来補さんなんか、何一つ桐山アゴン宗を否定しない狂信者ですから、
両者は正反対です。
ことが出来るであろう。
ユビキタ愚先生も少しは読んで、時代について
行くことですな、己の愚かさを自覚することです。
わたくしが最近読んだ中には、
コーリヤ族の女、スッパバァーサーの面白い話があった。この女は酷い難産で苦しんでいた。
そこで、夫を釈尊の元に遣わし、事情を釈尊
に話したわけだね。
釈尊は、「女よ、安楽の者に成れ、無病の者
と成れ、無病の子を生みなさい」と、その女の
夫に告げたわけよね。
さて、夫が我が家に帰って見たら、女は元気に
無病の子を無事に産んでいた。
夫は釈尊の偉大な神通力を賛嘆するわけよね。
深山ユビキタ愚先生などが否定したがる話し
だね。
だが、この神通を一切否定したら、宗教に有り難みはないだろう。
盲信狂信するから、おかしくなるわけだ。
> 九十歳位でしょうか?まあ長寿の部類ですね。>>
私が聞いた桐山さんの寿命は120歳です。
これは当時、生物が病気も何もしなければ本来持つ寿命の話をしている時、
因縁を完全に切って病気もしないから、120歳という意味です。
桐山さんは95歳ですから、ご自身が宣言した年まで25年生きなければならない。
また、アゴン宗徒の平均寿命は百歳だとも言っていた。
それなのに桐山夫人は76歳で死んだ。
>>531 :神も仏も名無しさん:2015/08/16(日) 15:40:02.83 ID:zUl+tk8T
>ご婦人のたちさんは癌で死亡しておりません。
>>447 神も仏も名無しさん 2015/06/04(木) 17:26:26.58 ID:dvq37lNp
>奥さんが肝臓癌に成って完治したことは事実、然し死因は別な病であった。
宝生さんによればガンではないそうだが、桐山さんはガンだと機関誌に書いている。
宝生さんの透視も取材もずいぶんといい加減でデタラメですね。
日本では100歳を超える人が間もなく五万人になろうとしている。
女性の余命を含めた寿命は89歳とも言われるから、
もはや90歳を長寿とは言えないほどになっています。
また、桐山さんが何歳であれ、同じ年齢の年寄よりも脳も身体も元気なら
素晴らしいが、実際は普通にヨレヨレ状態です。
テレビでは百歳で農家をして生きている人が紹介されていました。
桐山さんのどこが超人なのだ?
> アレは33に分れるそうでありますね、あれの典拠は探しても無いのです。
> 何故ないかというと理由は言えないほどの広大霊感的な秘密なんですよね。
典拠はあるが、宝生さんが知らないだけです。
秘密でもなんでもありません。
桐山因縁は占いの運命の星をあてはめただけです。
用いたのは四柱推命や紫微斗数です。
これらの運命学に悪因縁を当てはめた事自体は彼のオリジナルだが、
占いで因縁を当てるというのは桐山さんのオリジナルではない。
立正佼成会の庭野さんからのモノマネです。
彼は九星や手相で因縁透視をした。
これを見た桐山さんは四柱推命に当てはめることを思いついた。
四柱推命には例えば咸池など色情を表す星があるから、
これを色情の因縁とすれば良いだけです。
庭野さんは占いから因縁を透視していることを公表していたが、
桐山さんはズルイから、霊能力で透視しているかのように隠した。
これを伝家の宝刀と称して、おそらく直系にしか伝えないつもりでしょう。
桐山さんは因縁透視と称して三十年ほど前にコンピューターを使った診断をした。
これの元は紫微斗数で、運命の部分は「紫微斗数全書」からそのままです。
この本は和訳されて出版されています。
桐山さんがこれに霊障が出るようにして、人々を脅かした。
霊障は運命で決まっている??
桐山さんの工夫というか、デタラメは、紫微斗数は生まれ時間がわからないと
本来なら占えないはずなのに、適当に12時頃にして出していた。
おそらくこれが原因で、やがてプログラムのミスが見つかり、廃止になった。
こんなふうに宝生さんの「取材」と違い、桐山さんの因縁霊視の
元ネタや元本はばれているのです。
> 現在96歳、猊下の運命学も間延びして当てにならないというお話し。
桐山さんは悪因縁を完全に切ったのが真正仏舎利拝受以降としているから、
1986年以降です。
だが、1987年には薬事法違反で罰金刑です。
アゴン宗でいえば立派な刑獄の因縁です。
全部悪因縁を切ったはずの1989年5月には、E川さんを宿泊先の
ホテルに呼んで、夜11時に自分の所に来るように誘い、
その後、十五年にわたり、自らの手でお手当を渡していた。
そのために裁判沙汰にまでなった。
普通これを愛人といい、アゴン宗では色情の因縁と言います。
桐山さんは自分に色情の因縁があると述べたことは一度もありません。
では、どこから色情の因縁が生じたのだ?
1996年には脳梗塞で倒れた。
アゴン宗ではこれを脳障害の因縁といいます。
だが、桐山さんは自分には脳障害の因縁がないと書いている。
「これは、私に脳の因縁、つまり脳溢血の素因がなく、胃癌の素因があるためである。」
(大白身、4号、昭和44年、44頁)
では、どこから脳障害の因縁が生じたのだ?
こういう桐山さん本人を見れば、桐山さんに悪因縁を透視する力など
ないこと、因縁切りなど嘘なのはあまりに明瞭です。
こういう現実を見ても、まだ桐山さんの因縁霊視や因縁切りを信じている宝生さんや
一来補さんみたいな連中を見ると心底驚く。
>>566 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 14:52:33.30 ID:ebzVnTa/
>火を拝んでいると思う者は、その犬猫と
>同じレベルの見解だなぁ。
>>29 :一来補:2015/09/23(水) 22:05:31.10 ID:RnGNoJ/f
>釈尊はものぐさだったから、実際の火は焚かずに瞑想で火を焚いたのです。
>>624 :一来補:2015/07/21(火) 13:23:15.64 ID:joD1u3SA
>つまり、釈尊も金次第なのです。
>>342 :一来補:2015/07/07(火) 13:01:20.04 ID:5snGusSX
>釈尊はブラブラ遊行しただけで、そういう理念は見えないな。
>>531 :一来補:2015/06/11(木) 12:47:22.49 ID:kRbBWz5M
>釈尊は、ぶらぶらお散歩していても、衣食住に不自由することはない。それが世俗的利益です。
>>427 :一来補:2015/04/13(月) 22:42:08.30 ID:aeLjf4uF
>アンババリーは、国一番の美人娼婦だか
>らさ、釈尊もそれに負けただけの話しだよ。
>二人でよろしくやっていただけのこと。
>>366 :一来補:2015/03/10(火) 13:12:01.73 ID:7vGdvmxz
>倫理道徳仏教などは、日本では、小学校
>レベルだっての。
>>422 :神も仏も名無しさん:2012/12/30(日) 13:39:27.74 ID:y1zrBwjY
>業報を避けられない仏法だとしたら、仏法に何の価値があるんだろねw。
>そういうデクノボウに礼拝する人の気が知れんね。
>>246 :神も仏も名無しさん:2012/11/19(月) 15:15:21.78 ID:tpLXi/lO
>そんなんじゃあ、仏教などつまらん。だいたい、災難や苦を逃れられないの
>だとしたら、仏道を歩む意味がないだろが、アホらしい。
>ただの暇つぶしよりも劣るねw、しかも金かけてさ。
>>252 :逆流:2013/10/21(月) 01:36:59.03 ID:cMAgso6A
>家系を絶やすという釈尊への非難は、正しいですね。
>出家者でなければ涅槃を得られないというのは、欠陥宗教というべきですね。
>小部 自説経には、
>「涅槃とは縁起の法から解脱すること」
>と、釈尊が説いている。
>>15 :神も仏も名無しさん:2016/02/20(土) 10:58:47.66 ID:zqNlXX5r
>自説経を検索すれば、今ではかなりの量を読む
見て見ぬふりをするのは悪い事だと思うから、義務で警告する。
一来補さんはどうして懲りずに上記のような如来への誹謗を繰り返すのだ?
釈尊は「縁の滅」は説いたが、「縁起の滅」やましてや「縁起からの解脱」
など説いていません。
縁起(因縁)は物事の道理を説いているのだから、解脱するものではなく、
知性で理解するものです。
あなたは「涅槃とは縁起の法から解脱すること」に相当する経典の文章を
引用できたことはない。
あなたのしていることは捏造であり、作り話であり、如来の教法を
歪めているのだから、如来への誹謗中傷です。
>>19などもう十分に如来への誹謗中傷をしたのに、まだ足りずに繰り返す。
行為においてバラモンである、という言葉を知っていますよね?
あなたのしていることは行為において人間ではないのです。
人間と動物の違いの一つは、道理を理解できるかできないか、です。
私は自説経を引用して何度も「縁起からの解脱」などないことを示した。
だが、あなたはこれらの反論を完全に無視して、何年も
ずっと同じことを繰り返す。
あなたのしていることは犬ががむしゃらに吠え続けるのと同じで、動物の行為です。
こちらの主張と証明に反論するのなら、人間とも言える。
だが、反論を完全無視して自分の主張を吠え続けるのは人間ではありません。
一来補さんのしていることは、行為において人間ではない。
如来を誹謗中傷するという悪業と、これらの行為によって、
一来補さんも宝生さんもこのままでは動物に転落します。
>「涅槃とは縁起の法から解脱すること」
一来補さん以外の宝生さんやペテン大作さんという擁護派でも、
あなたほどには桐山アゴン宗を信じていないことに気が付いてるか?
宝生さんは、桐山さんの名誉教授はお飾り、ソンディ理論は付けたし、
先祖供養は修行そのものではなく、真正仏舎利はフェチで、
桐山ゲイカの守護霊など価値がなく、桐山運命学は間延びだと罵っている。
彼は自分教が大事なのであって、アゴン宗などどうでもよい。
ペテン大作さんは、漏尽解脱が仏教の解脱であることを認めた。
つまり、桐山さんの因縁解脱を否定したのです。
今回は龍神の話か出たが、結局、屁理屈を並べるだけで何の説得力もない。
彼は勝利を宣言するだろうが、何の根拠も示せなかった。
アゴン宗の議論をすれば負けるとわかっているから、しないのです。
彼は深山が憎いから擁護しているだけで、アゴン宗なんてどうでもよい。
一来補さんだけが、桐山アゴン宗を全面的に支持している。
嘘を支持するとは、あなたもまた嘘をついているのと同じで、悪業です。
あなたが一番アゴン宗の足を引っ張っている。
書いてる内容がまるで認知症の老人よろしく同じ事を何度も何度も
くり返すばかりか、罵声を浴びせて、品性が猛烈に卑しい。
世間の皆さまにいかにアゴン宗が低劣で品性下劣かを
あなたが一生懸命に宣伝してくれている。
一来補さんは十数年にわたり桐山さんの顔に泥の厚塗りをしている。
こういう理不尽なことを、ここだけでなく、あなたは人生で繰り返してきた。
人間としてしてはならない行為を繰り返したら、人間には戻れませんよ。
>>15の妊婦の話もすでに前にユビキタスさんから反論されているのに
記憶さえもしていないのでしょう。
神通の話ではなく、盲亀浮木あたりの経典を読んで、そんなに先のことでも
ない自分の死後をもう少し考えてみなさい。
>人にはどんな因縁が在るか?の各種因縁なんですがね。
>アレは33に分れるそうでありますね、あれの典拠は探しても無いのです。
>何故ないかというと理由は言えないほどの広大霊感的な秘密なんですよね。
そうそう、その脳障害の因縁が阿鼻惹星だという桐山分類の星名は、27宿のサンスクリットの
音訳当て字と指摘しましたが、これに対して「元信者」と名乗る人が、「数字が合わない」
と反論してきたことがありましたね。
アレは本当に頭の悪い反論だった。
数字がピッタリ合う必要がない。
23の桐山悪因縁分類になんか昔からそのように秘伝書にでもあるかのように
27宿の星名のいくつかを当てはめ、余った星名も出るだけの話です。
要は27>23であればよいのですから。
テキトーに命名するだけなんで、27宿名は余っていいんです。
27宿名からとったとバレてはならない話ですからね。
どうせ27宿名のサンスクリット読みの音訳漢字の星名なんて誰も知らないはすまだと
森田龍セン氏の「密教占星法」という古い本から拝借した。
しかしその森田本が復刻されて、アゴン宗信者の目にも止まって、インチキがバレたのです。
だから数字が一致しないなんてマヌケな指摘をしている元信者さんてのは本当に
マヌケだったわけですね。
>因縁解脱を説く仏教は、阿含経だけですから。
はい、これがアゴン宗的に大間違い。
桐山さんは因縁解脱をアゴン宗を立てる前の観音慈恵会から提唱しています。
最初は観音経と出会って桐山さんは観音経のある法華経を信仰した。
それから密教に転じた。
それからアゴン経を読んでアゴン宗を立てた。
この間終始一貫して因縁解脱を説き続けて全くブレていません。
「幸福への原理」がまだ密教の前の法華経時代の著書です。
この本に説かれているのは因縁解脱です。
全くアゴン宗の経緯を知らないのですね。
その通り、「因縁解脱」一筋ですよね。
変わったのは指摘のように法華信仰(法華経)→ 密教→ 阿含経 です。
『阿含密教いま』本の帯でのキャッチコピーが
「般若心経から法華経に入り、密教、アビダルマを経て、仏教の原点「アーガマ(阿含)」に到達した著者が、
新しい「教相判釈」によって阿含宗を立てるにいたった求道の経過を語る。」ですから。
桐山さんがやったことは、これら全ての教義で因縁解脱を出していることです。
まず「因縁解脱」ありきなんですよね。
般若心経も法華経も密教も阿含経も「因縁解脱」を包み込む天ぷら衣でしかないw
その「因縁解脱」はどの仏教も説かないものなので大笑いなんですww
・・・・求聞持法成就者としてのわ
たくしの脳は、推定六歳から七歳程度のものなのである。幼稚園児から小学校一年生くらいのとこ
ろであろう。わたくしはいま五十代半ばであるから、九十歳くらいになって、求聞持脳二十歳くら
いになるのではないかと思われる。その頃がわたくしの知能活動の最盛期になるであろうと思う。
・・・・
現在96歳、ゲイカの求聞持脳の知能活動は、どうのよな状態でしょうか?
頭が悪いのはおめえだよこの社会の屑ユビキタス!
まだ27宿の音訳当て字と思い込んでいるなんて腹が痛いね。
>>17
深山もてめえも無知で知らんくせに書くなよ。
桐山の密教占星術は、四柱推命や紫微斗数ではない。
勝手な妄想で書いてめでたい奴らだ。
しかし、この二人毎日ここに書き込んで桐山が悪人でもこいつらも頭狂っているよ。
担いだ知人曰く、参道でしっかり指示をされるそうです。
そりゃ運動神経や足腰は弱くなっているそうですが。
当日は加持作法も予定より多く行ったとのこと。
見た目よりもお元気ですよ。
感謝の言葉を添えるのが常なのに、今回はそれが有りませんね。
という事は、口下手番長263は深山さんですね。誰も立てないので業を煮やしたらしい。
可愛いところもあるんですね。別に深山さんの投稿は飽きてませんから
お好きなようにしてもいいですよ。読まないから飽きないだけですけど(笑)
>「感謝の言葉を添えるのが常なのに」
と、ここまで深山さんを意識しているのに、
>「読まないから飽きないだけですけど(笑)」
ですか。
悔しさ憎しみが丸出しの書き込みですが、本当に憎むべき相手は
阿含宗であり、桐山さんですよ。
立てたのはおれだよ。深山さんじゃないよ。
口下手番長というのは俺だけでなく、代々有志の人が立てるペンネームなんだよ。
議論がもっと続いてほしいので立てたんだよ。
お礼なんか、些細なことだ。妙な勘繰りはやめてよね。
またあなたか。深山さんユビキタスさん憎しで頭がカッカカッカしているのはあなたの方ですよ。
ではあなたが、「桐山の密教占星術」の正しい解釈を書いてください。
桐山と呼び捨てにしているくせに密教占星術を信じているのですか?
信じてないんでしょう?信者をやめたのでしょう?
あなたの立ち位置がさっぱり分からない。
>168 :深山 ◆Y0jS4ug6fQ :2011/12/14(水) 12:33:21.44 ID:kma4+0ZF
>この「粘着オレ(165)」さんの目的は、もちろん、カルト批判ではない。
はあ? 何が「もちろん」なのでしょうか。根拠が添えられてません。ww ID検索すれば、オレがカルト批判しているのが分かるし、
その点に関してはオマイらじゃ勝てないだろ?
カルト要素言ってみな? その批判を採点してあげよう。www
>この人の動機は、ストレス解消の鬱憤晴らしです。
>「良い正当な理由をつけて嫌がらせをして、ウップンを晴らしている」 だから、この人の動機の説明は支離滅裂です。
はいはい言い掛かり出ましたよ 元カルト信者の言い掛かり出ましたよ。w
支離滅裂なら、どこがどう支離滅裂なのか、言ってみろ。
阿含宗の恥部が他スレに撒かれている~それは、信者か第三者によるものだ~って
阿含宗低能批判者は言いますが、これこそ支離滅裂だろうが。
非常に苦労してデッチアゲしたようだが、ぜんぜん筋は通ってないwww
なんで、阿含宗の恥部を、阿含宗の信者が撒くんですかあ???
ここで、阿含宗の信者が阿含宗の恥部を撒いてますかあ???
あるいは、他スレで、信者が教祖の恥部を撒いてますかあ?むしろ隠して誤魔化すだろ。
というわけでハイ論破。 是非整合性のある反論、お待ちしています。
ま、絶対無理だけどな。何年経っても低能は低能だからな。 ハイこれ真理ね。www
>他のスレにコピペするなら信者側のほうがはるかに動機がある。
はいその根拠は???
>最初は批判側がしていても、このスレに対する妨害をみたら、やめている。
はい、ではその辞めてる根拠は?
>だが、未だに続いているとすれば、信者がしている可能性が高い。
はいその根拠は?
根拠を書かず断定の「連続」だな。w
でも、それを何度咎められても、アナタは「絶対に受け入れない」でしょうねえ。
その理屈を受け入れてしまったら、自らの「正当性」が崩れてしまうからです。www
>まだ27宿の音訳当て字と思い込んでいるなんて
漢字変換が面倒くせぇからカタカナでかんべんな。
人はどんな因縁をもつか
1家運衰退の因縁(キリチキャ星)
2中途挫折の因縁(ロケイニ星)
3運気不定浮沈の因縁(アラダラ星)
-中略ー
23怨集の因縁(ボツロラ星)
密教占星術Ⅰ
27宿の音訳当て字でないなら何なんだ?教えてよね(^-')/
>またあなたか。深山さんユビキタスさん憎しで頭がカッカカッカしているのはあなたの方ですよ。
そりゃそうだろwww現役信者が、この砂場の教授・阿含宗低能批判者に敵うわけないだろww
しかし気持ち悪いよなあ~10年前の書き込みですが~と言ったって、この後も連日死ぬまで書き込み
続けるんだろ?だから、30年くらい毎日書き込むわけだろ?
その理由は既に何度も述べたが、いや~恥ずかしくないのかね。指も、
>南南東向いて恵方巻を食うと因縁解脱が成就します。
>嘘です(笑)
これもキンモ~www よくやるなあwホームで羽を伸ばすカルト中毒者w
ホームに帰ってこないと生きていけないんだろうなあw何十年もカルトに貢ぎ続けてたハイパー低能だからなw
ほう!まだいたのか元信者w
よほど深山さんが気になってしょうがないらしいなw
阿含宗はやめたが阿含宗のオカルトは信じている元信者ってのはアホだろw
ユビキタス氏をどうこういえるほどのオツムじゃないだろが
もうすぐオムツをつかうはめになる年代だろうなアンタwww
ぜんぜん歯がたたなかったけどなw
そりゃそうだろwww
だってカルト信者だろ? 阿含宗低能批判者が負けるわけが無いだろ。
世間じゃ勝てないから、この砂場に出勤してくるのが、
彼ら阿含宗低能批判者なのだから。w
>>36
違うよ。
>>27
まじめに答えていただいて、ありがとうございます。
昔、信者だったけど、今は、批判派側なので、少し困惑しております。
また、疑問な点が出てくれば、質問なり、推測なり、批判をしようと思っております。
貴方の書き込みで阿含宗批判を読んだ記憶がありません。
深山氏ユビ氏への罵声ばかりです。
それでいて批判派側とか言われても・・・少し困惑してしまいます。
>>33に、まじめに答えていただけますか?
深山老林里性感美女 http://club.china.com/data/thread/25011632/257/14/49/4_1.html
阿含経に発見したのです。
だから阿含宗を立てたのです。
大乗経に因縁解脱が説いていたら、阿含宗を
立てる必要はないのです。
大乗仏教と阿含仏教では涅槃の定義が違う。
煩悩を無くす点では大乗も阿含も同じだが、
阿含経の涅槃は、輪廻、業、悪道、などが
滅すると説いている。つまり因縁解脱だね。
大乗仏教の涅槃にはそれらが欠けている。
すべてのものは因縁によって生起する。
煩悩も業も苦も因縁によって生起する。
それらの因縁から解脱するの涅槃だと
>深山さんは新スレ最初のレスの最後に、スレ立てありがとうございますと
>感謝の言葉を添えるのが常なのに、今回はそれが有りませんね。
いつもそうなのだが、あなたの文章からは体臭のように憎しみの悪臭が漂う。
それもアゴン宗批判への憎しみではなく、深山個人への憎しみです。
すでに>>1さんが名乗り出てきていますから、あなたの推測が間違って
いることは、いくら視野の狭いあなたでもわかりましたよね?
過去に、他の人がスレを立てても、私が批判を書くことに夢中になって、
お礼を忘れるなんて珍しくもない。
時々、あなたはこうやって、深山の裏を読んだと思い込んで、
憎しみで目をテラテラさせながら飛び出して、
そのままスッテンコロリンと自分からコケて恥をかく。
普通の人なら、しまったと反省して、次回から気を付ける。
ところが、あなたは、毎度こうやって視野の狭い推測でドジを踏んでも、
得たのは反省ではなく、深山への憎悪でしょうね。
せっかく指摘してくれたから、>>1さんに改めてお礼を申し上げます。
>お好きなようにしてもいいですよ。読まないから飽きないだけですけど(笑)
これは良いことを聞いた。
あなたは私の書き込みは読んでいないのだ。
てっきり、私の文章を探し出して、どこに因縁を付けてやろうかと、
憎しみから眼光紙背に徹す勢いで読んでいるのかと思っていました。
だから、今回も私がお礼を書き忘れたのをいち早く気が付いた。
普通の人は書いてあることを読むが、あなたは書いていないことを読んだ。
今回も、スレが立ち上がるのを待っていたのはあなたでしょう?
ただ、読まないと書いたのだから、ぜひ読まないでほしい。
飽きてもらえると、もっとうれしい。
自分の視野の狭さを反省するのではなく、私への憎しみをさらに増大させる。
無駄で無意味な事は百も承知で書くが、その憎悪はあなた自身に返っていきます。
これは他の信者さんたちも他人事だと思わないことです。
釈尊は悪因縁で輪廻すると説いたのではなく、煩悩があるから
輪廻すると説いたのです。
信者さんたちは仏教徒を自称しながら、釈尊の説く輪廻の世界や
因果応報をほとんど信じていないことに驚かされる。
信じていたら、自分の欲望や憎悪を抑えようと努力するはずだが、
28さんのように瞑想で憎悪を増大させ、信者さんたちのように
焚火で欲望を増大させ、どちらも煩悩を増やす努力をしている。
世間の阿含経を知らない人たちが輪廻の世界をお伽噺として無視するのは
仕方ないとしても、信者さんたちは信じているのでしょう?
輪廻転生瞑想法なんて意味不明のオカルトを信じるのではなく、
釈尊の説いた輪廻の世界をまず理解してはどうでしょう。
(『仏陀の真実の教えを説く[上]』343頁)
これは仙尼経の、信者さんたちにとっては有名な一文です。
昔、桐山さんは「陰とともに」を「異陰」と捏造して、さも釈尊が異陰と
いう霊魂を説いたかのように見せかけた(「輪廻する葦」(p.156))。
だが、ここで、阿含経の仙尼経には異陰などないという批判を受けて、
上記のように「陰とともに」と正確に書くようになった。
信者さんたちは『間脳思考』(128~129頁)などで桐山さんが異陰と
書いていたことを良く読み比べてほしい。
桐山さんは経典捏造という大悪業に口を拭って知らぬ顔です。
しかし、今日の指摘はその事ではありません。
「・・慢を断ち切ることができず、今の生が終わ
り、五陰が離散しても完全には消滅せず、陰と与(とも)に相続して生じるのです。」
(『仏陀の真実の教えを説く[上]』345頁)
釈尊は、慢という煩悩を断ち切らないと輪廻が止まず、生まれ変わるぞと述べています。
悪因縁があるから生まれ変わると述べているのではなく、
慢という煩悩があるから生まれ変わると述べているのです。
桐山さんは、
「因縁は余りの慢から生じます。」(『仏陀の真実の教えを説く[上]』347頁)
などとドサクサに紛れて桐山因縁を混ぜ込んでいるが、
元々の阿含経には悪因縁なんて出てきません。
釈尊は煩悩(慢)があるから輪廻が止まらないと述べているだけです。
釈尊は煩悩を切ることが輪廻を止める方法、つまり解脱だと述べている。
桐山さんのゴマカシにもっと信者さんたちは注意を向けるべきだが、
しかし、今日の指摘はその事ではありません。
り、五陰が離散しても完全には消滅せず、陰と与(とも)に相続して生じるのです。」
(『仏陀の真実の教えを説く[上]』345頁)
釈尊は死んだ後、慢という煩悩を断じないと別な「陰」となって生じると述べています。
陰とは五陰のことで、桐山さんは次のように説明しています。
「人間は五陰(五蘊〉が仮合〈仮和合〉してこの世に存在していますから、死を迎えると現在の
自分を構成している五陰は散り散りになります。」
(『仏陀の真実の教えを説く[上]』346頁)
人間は肉体や精神など五つの要素(色・受・想・行・識)から成り立つという
のが釈尊の教えで、桐山さんの説明も大筋で間違っていません。
信者さんたちに驚いてほしいのは、人間を構成するはずの五陰の
どこにも霊魂がないことです。
桐山さんは、人間には魂魄という霊魂があると説いているが(『輪廻転生瞑想法Ⅰ』117頁)、
釈尊は、人間を構成するものの中に霊魂があるなんて説いていないのです。
人間には魂魄という霊魂がある、など桐山さんの真っ赤な嘘です。
しかし、今日の指摘はその事ではありません。
(『仏陀の真実の教えを説く[上]』343頁)
この一文で信者さんたちに良く見てほしいのは、
「陰(=五陰)」とは人間だけを指すとは限らないことです。
五陰は人間だけでなく、動物などもすべて五陰です。
五陰の要素である色・受・想・行・識の内容は人間だけでなく、
ほぼどのような動物にも当てはまります。
五陰とは人間の構成要素だけではなく動物の構成要素です。
そういう目で釈尊の言葉をもう一度読んでみてください。
慢という煩悩を断ち切らないと、死んで今の五陰を捨てても、
次の五陰を生じる、とあるだけで、人間に生まれるとはどこにもない。
今は人間だから、「此陰」は人間を指すが、「陰と與に相続し生ず」の
「陰」は人間だとは限らないのです。
ここの意味は、慢という煩悩を断ち切らないと、「次の生物に生まれ変わる」
というくらいの意味であって、人間に生まれ変わるとはどこにもありません。
釈尊は、煩悩があると輪廻すると述べているだけで、
人間に生まれ変わるとは述べていないのです。
(『仏陀の真実の教えを説く[上]』343頁)
釈尊は、慢という煩悩を断じないと人間に生まれ変わる、とは説いていない。
別な生き物に生まれ変わる、と説いているだけです。
別な生き物が人間だとは保証していない。
前半の「此陰」は生きている人間を指すから、その後の「陰」も同じ人間を
指すのだろうと、つい決めつけて読んでしまう。
だが、陰の中身を考えてみれば人間だとはどこにもありません。
釈尊が上記で述べていることは、慢という煩悩を断じていないから、
今の「生き物」であること捨てても、次の「生き物」に生まれ変わり、
苦の世界の輪廻は止まらない、という意味です。
私たちの前世や来世が人間であるとは釈尊は述べていないのです。
これを理解した上で次の経典を読めば、意味が良く理解できます。
人以外の世界に再生する生ける者は多い。」
(『原始仏典Ⅱ相応部経典2』春秋社、551-552ページ)
人間に生まれ変わる人はわずかだと述べている。
信者さんたちに限らず、多くの人の持つ一つの自惚れは、
人間が他の動物とは別な特殊な存在なのだと信じ込んでいることです。
キリスト教では神は自分に似せて人間を造り、牛や豚は食用に造ったなんて、
荒唐無稽で馬鹿げたことを説いている。
こういう狂信の影響もあり、人間だけが特殊なのだと無批判に信じている人が多い。
だが、釈尊の説いた五道輪廻(六道輪廻)を思いだしてください。
我々はああいう世界を輪廻していると説いているのです。
信者さんたちは桐山さんの阿含経解説でも三悪道に堕ちるという文言を
目にしているはずです。
三悪道とは地獄、餓鬼、畜生で、この内、畜生は生きた動物を含んでいる。
つまり、仏教では人間と動物の間はほとんど垣根がない。
だが、信者さんたちは、自分が動物に生まれ変わるなんて考えてもいませんよね?
だから、輪廻転生瞑想法でも人間に生まれることを大前提にして、美男美女、
お金持ち、才能豊か、好運なんて、瞑想と称して空想していましたよね?
だが、釈尊はそもそも人間に生まれ変わること自体が難しいと説いているのです。
桐山オカルトと違い、輪廻転生には空想も瞑想もまったく無意味です。
輪廻の素は煩悩であり、輪廻先で自分が為した行為の報いを必ず受ける、
というのが釈尊の説いたことです。
人以外の世界に再生する生ける者は多い。」
(『原始仏典Ⅱ相応部経典2』春秋社、551-552ページ)
信者さんたちは自分では、如来の所で功徳を積むという大変な善業を
なしていると信じている。
本当ですか?
本物の仏舎利でないといけないと桐山さんが書いているが、
アゴン宗の仏舎利は証明書付の偽物です。
応供の如来がいるというが、仏教には応供や如来はいても
応供の如来なんて存在しません。
釈尊が禁止している護摩を焚き、釈尊が否定している死者成仏をお金を取って売り、
蛇型のムチャリンダをドラゴン型で現形したと無知を宣伝している。
釈尊の漏尽解脱を小解脱と罵り、仏教には存在しない因縁解脱が解脱だ
などと嘘を世間に伝えている。
これのどこが如来の所で功徳をうえたことになるのだろう?
まったく逆で、誰も為しえなかった悪業です。
世間の人たちはこれほど如来への悪業はしていない。
他の新興宗教も阿含経など旗に使っていない。
アゴン宗の信者こそが日本仏教史上初めて、本物の釈尊の教法を使って、
偽仏教にすぎない外道を宣伝するという大悪業を為している。
如来への誹謗中傷という桁違いの悪業をしている。
悪業を為した者の輪廻先がどこか知っていますよね?
三悪道です。
次の経典を見てください。
いうことは困難であるとわたくしは申し上げます。」
(『原始仏典 7巻』春秋社、322-323頁)
一度悪業を為して三悪道に堕ちてしまうと、人間に戻ることは難しいというのです。
こういう釈尊の文言を軽くみてはいけない。
信者さんたちは、如来供養だと信じて、如来中傷の手伝いをしている。
気が付く前は無知から来たことだから仕方ないとも言えるが、
ここでそれを指摘されても無視して、悪業を続けるなら、罪は重い。
もちろん、アゴン宗の手伝いをしても、生きている間は何も報いなど来ない。
だから、ここで擁護している一来補さん、宝生さん、ペテン大作さんは
のんびりと、威張り、無視して、憎んでいられる。
>>42の一来補さんなど十数年前から因縁切りなど嘘だと教えられても、
それでもまだこうやって因縁解脱が正しいなどと、積極的に、自分の意志で
釈尊の教法を歪めている。
如来誹謗の手伝いだけでなく、誹謗そのものをしたという悪業の報いは、
彼の輪廻先まで追いかけてきます。
他の信者さんたちは釈尊の言葉から推測して、一来補さんはどこに行くと思いますか。
彼は自分ではアナゴン(不還)だと思っているが、釈尊の言葉から
推測するなら、三悪道に堕ちて人間に戻れない「逆不還」です。
釈尊の言葉にあるように、人間であっても、次に人間として生まれることは稀なのです。
ましてや、如来への誹謗中傷という最大級の悪業を為したら、
美男美女どころか、人間に生まれることさえもできない。
そしていったん堕ちたら、人間に戻ることさえも難しい。
過去世も来世も見えないから、次も人間だろうと美男美女になりたいなんて
のんびりしたことを言っていられるが、信者さんたちは
一般人よりもはるかに危険な道の上を歩いていることを自覚したほうが良い。
それが説いていることを発見して阿含宗を
立てたわけです。
阿含経のみに因縁解脱法が説いていることを
発見したわけです。
阿含経の涅槃とは、縁起の世界=諸行無常、
から解脱することです。だから涅槃寂静なのです。涅槃とは縁起の世界から解脱することなのです。これは自説経に詳しく説かれているし、仏教辞典にも書かれています。
大乗仏教になって空が説かれ、涅槃も空とされて縁起の世界から解脱することが曖昧になってしまうわけです。諸行無常も空ならば涅槃も空
だとね。煩悩を無くした境界が涅槃だと、それだけの抽象的な定義が大乗仏教の涅槃になってしまったわけです。因縁解脱がどこかに消えてしまうのです、
>一度悪業を為して三悪道に堕ちてしまうと、人間に戻ることは難しいというのです。
>だから、ここで擁護している一来補さん、宝生さん、ペテン大作さんは
>のんびりと、威張り、無視して、憎んでいられる。
経典を偽解釈して、釈尊の説かれたことを間違って衆生に伝える。
これほど、罪深いことはありません。
深山さん、あなたこそ三悪道に堕ちるのです。
それとも、私はそんなことはしていないと言い張りますか?
おそらく言い張るでしょうねぇ。
哀れなお方だ。
>桐山師は因縁解脱を求めて最終的にそれを
>阿含経に発見したのです。
>だから阿含宗を立てたのです。
>大乗経に因縁解脱が説いていたら、阿含宗を
>立てる必要はないのです。
この表現ならばまだ少し私が>>23にあなたに付けた反レスの
>この間終始一貫して因縁解脱を説き続けて全くブレていません。
に近いものにもなります。ブレがないという表現を敢えて使った私ですが、
普通このような表現をする時、批判的には使わないことが多い。誉め称える時に使うことが多い。
これは私が擁護側信者の時に抱いていた信念です。
桐山さんは密教から阿含経に転じたり、本尊を準胝観音から仏舎利に変えたりと
節操がないという世間からの(このスレからのではない)批判に対して、私は
世間の人は上辺だけを見てその内実を知らないのだ、桐山ゲイカは観音慈恵会を立てた
最初から因縁解脱を求め提唱し、アゴン宗となった現在も変わらず因縁解脱を旗印にし、
一貫としておりブレがない、このように世間に対して反論をするのが私であり、
その姿勢は教団的に正しいことに自信があった。
それを当スレにても示したことがあった。ユビキタスと名乗る直前のウミタコか
準胝時代だったと思う。ブレという表現を使わなかっただけで。
これには当時名無しだった深山さんからレスがついた。
なるほど首尾一貫として因縁解脱を説き続けて変わらないことはその通りだが、
そもそも仏教では因縁解脱など説いておらず、その無知のまま変わらずアゴンまで来た
のが桐山さんであると。後に私もこれを受け入れ悟るわけです。
その視点はさておき、因縁解脱を求め求めてアゴンに到達してアゴン宗を立てたのは
教団的にその通りなんだが、あなたの理解に対して教団的に間違っているところがある。
それは以下の点です。
>大乗仏教と阿含仏教では涅槃の定義が違う。
>煩悩を無くす点では大乗も阿含も同じだが、
>阿含経の涅槃は、輪廻、業、悪道、などが
>滅すると説いている。つまり因縁解脱だね。
>大乗仏教の涅槃にはそれらが欠けている。
これが縁起の法です。
だから煩悩も当然、因縁によって生起するのです。それを説明したのが業感縁起です。
煩悩→業→苦→煩悩→、
人生は十二縁起として説かれた。
阿含経には、その縁起から解脱することが涅槃
だと説かれています。
つまり、因縁解脱です。
深山ユビキタス先生には、このことが理解出来ないわけです。アホだから。
取引御利益信仰をさんざんした、と公言したアホだから仕方ないことです。
先生の呼称には色々な意味があって、
敬称の場合もあれば、小馬鹿にする意味の場合もあるね。
わけの分からないほら話を延々としている、
分からず屋という意味の先生もあるのです。
深山ユビキタス先生の場合は何かな。
因縁解脱か。それが涅槃か。
以上は否定されるべきである。
十二縁起は否定されるべきである。
人生は、そんなものではない。のじゃ。
バカの理解を否定することは困難であるかも。
>大乗仏教と阿含仏教では涅槃の定義が違う。
>煩悩を無くす点では大乗も阿含も同じだが、
>阿含経の涅槃は、輪廻、業、悪道、などが
>滅すると説いている。つまり因縁解脱だね。
>大乗仏教の涅槃にはそれらが欠けている。
桐山さんはこんな「思想表現的」な理由で因縁解脱法を見つけたのではない。
成仏法の型なら密教にあった。しかし成仏力がなかった。
成仏力を得る方法はアゴン経に示されている七科三十七道品を修行するしかないと発見した。
つまりすこぶる技術論の世界なんです。
あなたが足りないお粗末な頭脳で机上の空論よろしく思想前提の表現記述の違いから
発見したのではない。
密教の精髄を極め尽くした桐山さんの目から見ると、アゴン経は成仏法の宝庫であり、
密教にも本来ある成仏法の根拠の成仏力の源がアゴン経にあるとした。
だから密教を極め尽くしてもいないあなたごときが、思想表現の記述を読んだだけで、
発見できるはずがないのです。
まあ最終結論から言うと阿含経にも大乗仏教にも密教にも因縁解脱なんて戯けた話は
説かれていないのだが。
しかし桐山因縁解脱なんて単なる現世利益信仰に過ぎないとわかれば、
寧ろ大乗仏教や密教の活動現実こそが現世利益も説き、一方阿含経にはそれが皆無な
ことがわかり、あなたの主張とは逆ですらある。
しかしもう一つの視点から言わせてもらうと、あなたの言うように因縁解脱が
アゴン経にしか説かれておらず、因縁解脱法がアゴン経にしかないのならば、
桐山さんはどうしてアゴン宗を立てる前、アゴン経を読む前の昭和40年代の観音慈恵会
時代にガンの因縁を洗い出しを含めて切ったのか?
古い千座行はアゴン経を読まない時代に編成されたものです。
ならばこれで因縁が切れるはずがないのに、どうして因縁が切れたのか?
これは一来補さんを通り越して、桐山さんに提示する矛盾の指摘です。
>すべてのものは因縁によって生起する。
>煩悩も業も苦も因縁によって生起する。
>それらの因縁から解脱するの涅槃だと
因縁により生起するだけでなく因縁により滅することも説いていますよ。
縁起という言葉は因縁生起の略なんだが、実はもっと略されているものがあり
それが縁によりて滅するというものです。
これは桐山本にも経典の記述が出て来る。
これあるによりてこれあり
これ生ずるによりてこれ生ず。
これなきによりてこれなく
これなきによりてこれ滅す
これに人生の最大テーマの苦をあてはめたのが四諦の構図です。
煩悩あるがゆえに苦が生じ、逆に煩悩をなくすことによって苦も滅する。
これが縁起の法則であり、釈尊はこれ(縁起)を真理として悟ったから
解脱も可能としたのです。解脱とは煩悩をなくすことであり苦からも超己できる。
これは桐山さんも認めており、縁起あったればこそ解脱できるのであり縁起とは真理です。
繰り返すが縁起とは縁起縁滅の略です。
縁滅とは縁起を滅するのでなく、原因を滅するからその縁で苦も滅するのであり
その原因とは煩悩であるとしている。縁起の法則そのものではない。
縁起の法則、真理を滅してしまったら苦も滅することはできない理屈になります。
法則があるから生じたり滅したりするのに。
・・と昔から何度も繰り返して書いていることを今回もまた説明しても
一来補さんは受け入れずに、理解もせずに、また同じことを書いてくるだろうから
読者はよく覚えておいてください。
この人の逝く途はとても辛いです。
辛いと幸いと字形は似てますが間違わない様にしてください。
彼に参考図書を一つ上げましょう、前世療法 文庫三冊あります。
著者は精神分析医で、患者の様子、治療成績などを基に著作しております。
一読、アーメンの国でよくここまで書けたものだな、偉大な功績である。
とほめるばかりでは無い、彼の患者は裕福な階層が殆どらしいので
治療院には貧乏人は無縁かもしれないのです。
深山センセイが研究されるべきことかも?と研究材料を上げましょう。
日本の仏教各宗派の肝心な処、つまり前立て本尊の荘厳様式、僧侶の行い、
などその宗派が大事にする要素に真言密教の部分が発注されています。
小生が驚いてしまった一事では、或る宗派の本尊にお御霊入れをする
法要に立ち会った経験が有ります。
坊さんがお経をあげて、各種の九字を切り、最後に胎蔵界大日如来の梵字を
切りて法要を終えました。
法要後にお尋ねしました。(俺も若かったものだよ)
何故 大日如来の梵字を躊躇わずに書いて居るのか?
答え 師匠から習った儘で在るからいいのだ。
結論、日蓮宗は簡便な雑密を隠れてやってるわけ
真言の悪口を言うべきに在らずだろう。
ついでに言うと日蓮のある一派は未調査だからお任せ致しますわ。
正何チャラとか言うんだよね。
>時代にガンの因縁を洗い出しを含めて切ったのか?
>古い千座行はアゴン経を読まない時代に編成されたものです。
>ならばこれで因縁が切れるはずがないのに、どうして因縁が切れたのか?
一来補さんは上記私の>>57について答えてみなさい。
それによると見えて来るものがある。
輪廻の滅たる涅槃もまた釈尊は説く。
それを因縁解脱などという表現をするのなら戯けた表現とは言え、解脱内容としては
決して間違ってもいないと言える。
しかしガンの因縁切りなどは説明できない。
ガンの因縁切りと輪廻滅涅槃とは関係がない。
くっつけることなど不可能です。
桐山さんの示す因縁解脱なんて話がいかに仏教に根拠を持たない
空虚な話であることか。
ましてや桐山さんはアゴン経を読む前にガンの因縁を切ってしまった。
逆にアゴン宗を立ててからガンの因縁が切れずに桐山さんも見捨てた例もあるのに。
この矛盾をどう説明するか?
>アゴン宗の信者こそが日本仏教史上初めて、本物の釈尊の教法を使って、
>偽仏教にすぎない外道を宣伝するという大悪業を為している。
そういう理屈は、阿含経だけが釈尊の教え(真の仏教)であるという、
現代の仏教学会の定説があってこそ成立つわけです。
確かに、阿含経が釈尊仏教の核である事実は今後永久に変わらないでしょう。
しかし、では、大乗仏教がすべて釈尊の教えではないと言い切れるのか。
そこには、いくつか疑問点があります。
それが以前、当スレ261の>>479で提示したコレです。
↓
>2、「原始仏教聖典」だけが仏説ではない
http://toyoda.tv/daijohibutsusetsu.matome.htm
あの時は別の話題が進行していたから特に強調しませんでしたが、
ここには実に大変なことが書かれてあります。
根本分裂の時に、大衆部においても大結集が行われ、
大乗経典はこの系統から発達したものであると考えられる点がある、とか
記憶のみで伝承された釈尊の説法は、一回かぎりの結集ですべて収集されたのではなく、
数百年に渡って収集作業が行われたと考えられる、とか、
まあ、要約すれば、大乗仏教の中に釈尊の教法が紛れ込んでいても何ら不思議ではないということです。
釈尊の説法について考えてみれば、このように疑問に思われることが一杯あるわけですよね。
今後、学会の調査が進んでこういった疑問が明らかになる日が来るかも知れません。
>アゴン宗の信者こそが日本仏教史上初めて、本物の釈尊の教法を使って、
>偽仏教にすぎない外道を宣伝するという大悪業を為している。
さて、そこで、こういった問題点が阿含宗にとってどういう意味を持つか?
釈尊直説を掲げて立宗したことについては、立宗当時は阿含経こそが釈尊直説であることは、
学会の定説だったのだから、将来、万が一、それが覆される事態が来たとしても、
それは致し方ないことだった、で済む話ですね。
しかし、阿含宗の場合は、大乗を積極的に取り入れて、これぞ完全仏教だと宣言しているわけだから、
教義的には何ら問題はありません。
もちろん、お護摩が釈尊直説だと言っているわけではありませんが。
ただし、学会の調査の進展によっては、そういう事態が来ないとは言い切れません。
つまり阿含宗にとっては、将来どういう事態が起ころうとも問題は無いのです。
そこが完全仏教の強みなんですね。
では、批判側についてはどうでしょうか?
今まで、これは釈尊の説法ではないと言い続けてきたことの中に、
実は釈尊の教えが紛れ込んでいたなんてことになったら、それは大変なことになる。
彼らが間違いだと強く信じていたことの中に真実があったのですから。
彼等の行く末はどうなるかは、釈尊に尋ねてみるしかありません。
どっちに転んでも大丈夫な阿含宗と、片方に転んでしまったら極楽行きの批判側。
みずから危険な道に踏み込んでしまった彼らが哀れでなりません。
阿含経だけが釈尊の教え、真仏教である、か。
だれの教えであるか、は重要性がない。
その内容が問題である。
桐山阿含宗は、その内容がインチキである。
>人生は十二縁起として説かれた。
>阿含経には、その縁起から解脱することが涅槃
>だと説かれています。
>つまり、因縁解脱です。
貴方はこのスレで何度反論されても無視して頑迷固陋ですね。
それは一来補説(あなたの歪曲)であり桐山さんはその様に説いていません。
桐山さんの説く「因縁解脱」とは悪因縁を切ってこの世を自在に生きることです。
悪因縁とは悪い運命の星であり業報の種のような存在で人生で芽を吹く悪い因子なのです。
例えば、ガンの因縁・横変死の因縁・刑獄の因縁・家運衰退の因縁・中途挫折の因縁 などが
悪因縁であり、「悪因縁」=「悪い運命の星」を切り自在に生きることを説いているのです。
このような教えはどの仏教(大乗・アビダルマ・初期仏教)でも説かない教えです。
強いてあげるならば大乗唯識の種子が似ているが内容は悪因縁説とは大きく異なっている。
いやいやいや、どっちに転んでも桐山が因縁切れていないという事実は変わら
ないのだから全然大丈夫じゃないだろw
>経典を偽解釈して、釈尊の説かれたことを間違って衆生に伝える。
>これほど、罪深いことはありません。
いや、もっと罪深いことは、人の不安や弱みにつけこんで、あるいは
欲望を煽り、釈尊を利用して金儲けすることです。
金儲けは宗教詐欺罪である。
その宗教詐欺罪は、騙された人が悪いことになっている。
だが、それで有罪となった事例もある。
「……大柴燈護摩のテレビ放映が、大分、反響を呼んだようですね。
あのテレビで、アナウンサーのかたが、“このお護摩の火を拝見して、一生懸命に
お祈りしなさい。きっと希望がかなえられます。お願いごとがかないます”という
意味のことを申された。これは、実は、大柴燈護摩修法の当日、取材に来ておられた
プロデューサーのかたから、わたくしは聞かれたのです。プロデューサーのかたが、
わたくしに、こう言った。
“非常に結構なお護摩なので、放映のときに、この火にむかって、一生けんめい
お祈りしなさい、お願いごとを念じなさい。きっとかないますよ、とアナウンサーに
言わせようと思いますが、いかがでしょうか?”
TBSテレビの「3時にあいましょう」で放映されていたアゴン宗立宗直前の観音慈恵会時代の
星まつりの護摩の炎の中に火龍などが現形した写真を公開して反響を呼んだ話です。
火龍現形というショッキングな出来事があって、そこから初めて教団がテレビ局に
話を持ち込んだとか、噂を耳にしたテレビ局、テレビ番組制作会社が取材に来たと
いう話ではないことが、この引用からもはっきりわかります。
既に1978年2月5日当日の星まつり会場にプロデューサーは取材に来ており、
しかもその時点で後日テレビで放映することは約束されていたこととわかる。
観音慈恵会から一時離れていた当時の私はそのテレビ放送をたまたま途中から目にして
火龍の静止写真だけでなく、録画された護摩修法会場の映像と音声を確認している。
あるいはこの録画は、例えば「映像ヤマト」のような教団と契約した映画作成会社が
教団内のみで放映する目的で撮影されていたものをテレビ局側に持ち込んだ線も
想定していたのですが、そうではなく、これは取材に来たプロデューサーは
公共のテレビ電波で放映することが決まっていたことがわかる。
少なくとも実際に放映するかボツにされるかは、その時点で確定されていなくても
テレビ放送を前提の上、取材に来ていたとわかる。
火龍現形の奇蹟を目にする前から制作会社と教団の間で打ち合わせもされている
ことが証明されました。
修行読本1が1978年の発行なんだから、これは翌年の1979年の放映の話ではない。
その結果出来上がった火龍などの霊写真がインチキとかヤラセとか言う気はない。
インチキや細工ではなくああいう写真が撮れただけの話であり、それは1975年から
やっている野外での大柴燈護摩なんだから炎がどのようにも形を変えて造形してくれても
不思議ではなく、後はそれに神仏などをあてはめればよいだけの作業ですから。
これを霊写真として提示して尚且つ迫力ある大きな炎の映像も添えれば
これであなたの知らない不思議な世界がコンセプトのお茶の間の番組の1コーナーの
ネタにも出来、テレビ局は視聴率を高める一助にできるメリットがあり、
宣伝したい教団側のニーズとも一致する。最初から商談はあったのです。
>さて、そこで、こういった問題点が阿含宗にとってどういう意味を持つか?
>釈尊直説を掲げて立宗したことについては、立宗当時は阿含経こそが釈尊直説であることは、
>学会の定説だったのだから、将来、万が一、それが覆される事態が来たとしても、
>それは致し方ないことだった、で済む話ですね。
>しかし、阿含宗の場合は、大乗を積極的に取り入れて、これぞ完全仏教だと宣言しているわけだから、
>教義的には何ら問題はありません。
>もちろん、お護摩が釈尊直説だと言っているわけではありませんが。
>ただし、学会の調査の進展によっては、そういう事態が来ないとは言い切れません。
>つまり阿含宗にとっては、将来どういう事態が起ころうとも問題は無いのです。
ペテン大作さんは一般論的に釈尊の真説は阿含経文献だけではない可能性を示唆する
論文を題材に出しているが、一般論だけで拡大しても意味がなく、やはり個々の例で
話を進めねば意味がありません。
あなたは単純に釈尊真説か否かだけの指標で、捉えているが、桐山さんですら
そんな話をしていない。桐山さんはこう言った。シナ仏教だから悪いのではない。
なんだったらアフリカの仏教でもかまわないのだ。「成仏法があるならば!」
その成仏法はアゴン経にしか記載されていないからアゴン宗を立てるのだとしたのが
桐山さんです。桐山さんとても大乗仏教を全部否定していない。その証拠が般若心経
や法華経の普門品である観音経も取り入れており外すことなく、それは信者公認です。
批判側元信者も公認していたのです。だから批判側でアゴン宗が般若心経を読むことを
批判材料にした人はいない。
だから批判点はそんな大雑把な一般論で導かれる話ではなく、護摩とかの個別のネタ
に対してです。護摩については釈尊ははっきり否定して批判をしている経典は単一ではない。
しかし阿含文献だけに釈尊真説があるのではないとしても、その別の文献に
護摩を肯定していたとしたら矛盾になるが、その矛盾は学界はどう説明するのか?
だから大雑把な対立分類なんて意味がなく現時点で反論にすらなり得ないのです。
もっと具体的なネタを考証してきてください。
>>484 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR :2016/02/14(日) 18:09:19.53 ID:zqRuoROl
>ならばそれだけ大きな護摩壇ならば火はどのようにでも形を変え、時には龍にも
>仏にも、生首にも見えなくもない写真が撮れても不思議でもないことは経験的に知っている。
>生首が現れたって不思議ではないロールシャッハの世界なんだから。
おそらくあなた自身はテレビで放送された写真を見ていないと思う。
炎の形が、落武者らしき首に見えたという話なら、それは自然現象で片付けられる話だろう。
私だってそんなものを霊写真だと騒ぐほど子供ではない。
星まつり会場で撮影された写真にあった、あの落武者らしき首は、炎ではなかったのです。
白い顔に真っ黒な髪を垂らした人間の生首だったのですよ。
それが護摩壇の淵にフワーと浮いていたわけです。
また、会場の周りに現れたいくつもの光の玉も、炎ではありません。
こういった写真を、ここで読者に見せられないのが残念でならないw
多分、写真はテレビ局の所有するものだろうから教団が発表することもないし、
あれからだいぶ時も経っているからテレビ局にも残ってはいないだろう。
私は、あの番組で初めて教団と教祖を知ったのです。
そこで思ったことは、あれらの不思議現象は、きっと密教の持つ力だと思った。
密教の成せる技であると、その当時強く思いました。
そして、今でもそう思っています。
だから、あなた方の様な教祖べったりとは、最初からスタンスが違うのです。
それにしても、観音慈恵会の時代から信者だったとは、あなたはドエライ宗教オタクです。
そのオタクがまた偉そうに人のことをオカルト好きとはよく言いますね。
>護摩については釈尊ははっきり否定して批判をしている経典は単一ではない。
その否定した理由が、批判側が説明していることとは違うのではないのかね?
私自身は、これはバラモンとの決別を内外に示す意味だったと思っている。
>貴方の書き込みで阿含宗批判を読んだ記憶がありません。
>深山氏ユビ氏への罵声ばかりです。
>それでいて批判派側とか言われても・・・少し困惑してしまいます。
あなたは、なにか誤解している。私は、>>26 ではありません。
平成26年の“レプティリアン考”
平成27年の“ヴィマーナ考”
は、すべて私です。
今年は、1月2日に、映画“2001年宇宙の旅”を紹介したくらいです。
前スレ、前々スレでは、全くカキコなし。
いろいろカキコしたいけど、ちょっとアブナイ内容ばかりなので、躊躇している状態なのです。
それは有るでしょう、私も数枚所持しています。
何故その現場に現われるのでしょうか?答えは簡明なりです。
サイトウ護摩の供養を受けてその苦しい境涯から助け出されたいからです。
猊下の古い法話で在りました。
前年にテレビ放映されてその年は多くの一般の参拝者が満人と言える数で
押し寄せた。桐山師は驚いたことが有ったと会員に告げています。
恐ろしい数の不成仏霊も一緒に参拝していると。
今までの柴燈護摩供養は会員が主体で参拝客もその通り、故に供養が出来ている
のでこの様な異様ともいえる驚いた場景では無かった。
救われないお御霊をどうにかする、是は何とかしなければと思います。
という様な趣旨と記憶します。
柴燈護摩供養の様式は日本古来の火葬の方法とほぼ同じです。
四方に青竹の結界を張り真ん中に火檀をしつらえます。
行者が峰を渡る修行の打ち止めに自らの死と再生の儀式を行ったのが
柴燈護摩供養でした。
は仏教辞典に書かれている。
阿含仏教の涅槃とは縁起の世界からの解脱であるが、大乗仏教の涅槃とは空であり、縁起の世界との区別がなくなったのです。
だから大乗仏教の涅槃とは、煩悩解脱しか言えなくなったのです。
煩悩解脱など、そこら中に数多の人がいる。
わたくしの周辺にもたくさんいる。
金も地位もあり、これといった欲もなく、
安穏に日々を送っている親戚の老人方。
このような人たちは大乗仏教でいう解脱した
人たちだね。涅槃を得ている。
全く馬鹿な話しだね。
阿含仏教でいう涅槃とはそういう単純なものではない。
阿含仏教の涅槃とは、解脱知見を得ている必要がある。煩悩や輪廻が尽きたということを知る知恵だね。知識ではない。
わかりやすくいうと、六神通力を備えることが解脱の条件ですな。それが阿含仏教の解脱の条件の一つです。五分法身の一つだからね。
煩悩解脱だけでよいとする大乗仏教の涅槃とはまるきり違うわけだね。
だが、アホ深山ユビキタス先生にはこのことが分からないわけだよね。
無理もないのです、御利益取引信仰をさんざんしたようなレベルの低い信者ですからねえ。
話しにならないのです。
>星まつり会場で撮影された写真にあった、あの落武者らしき首は、炎ではなかったのです。
>白い顔に真っ黒な髪を垂らした人間の生首だったのですよ。
>それが護摩壇の淵にフワーと浮いていたわけです。
>また、会場の周りに現れたいくつもの光の玉も、炎ではありません。
はい、ちょうど10年前の2006年の2月にもクリン含さんが、これと同じ内容を書いたことも
確認しています。この光やらナマクビみたいな形の物の正体については基本的に
「わかりません」。あれは霊なんかじゃないと言う根拠すら持ちませんからいいません。
霊の否定すらしません。
ただその写真は王麗華さんが撮ったものですか。教団が示している霊写真ではない。
教団の示す霊写真などは所詮火と煙のロールシャッハですから。
もちろん王麗華さんが造ったものとも思いません。
私などは供養を受けに現れた落武者という想像はよいが、そんなナマクビのまんま
あの会場に現れてええんかいな?と要らん心配しますが。
>それにしても、観音慈恵会の時代から信者だったとは、あなたはドエライ宗教オタクです。
そうでしょうか?私はあなたと大して変わらぬ不思議好き人間の1人だと思いますよ。
観音慈恵会という名称は実は阿含宗を立宗して以降もしばらくは阿含宗観音慈恵会と
名乗っていましたが、私の言う観音慈恵会とは阿含宗立宗以前のそれを指します。
その時桐山さんは既に有名人です。1971年に変身の原理を著して、1972年には
密教・超能力の秘密を著して一躍密教界のスターでありマスコミの寵児的ですらある。
こういう人に惹かれるのは、私もあなたと同じだと思います。
だから単にあなたがアゴン宗以前の桐山超能力密教を知らなかっただけに過ぎない。
知っていればあなたもまた、もっと早く入信したかもわかりません。
それを他人だけ宗教オタクだなんて軽蔑的発言はやめなさいな。
それに私は超能力でなく因縁解脱の必要性を切実にも感じたから入行したのです。
変身の原理が出版される前の観音慈恵会信者ならば、私もへえ~、珍しいなと
思いますが、そういう人がどうして入信したかその経緯は、人さまざまだろうから
オタクなんてことは言いません。
大変失礼致しました。>>26さんと勘違いしていました。
どうかお許しをm(_ _)m
>その否定した理由が、批判側が説明していることとは違うのではないのかね?
>私自身は、これはバラモンとの決別を内外に示す意味だったと思っている。
いや、だから単一ではないと書いたのです。
我々がよく出すのは、「バラモンよ。木片を焼いたからと言って浄らかさが得られると考えるな」
ですが、それ以外のいくつもの長部経典でもあらゆる種類の護摩を名指しで否定しており、
大いなる戒として禁止しています。
ですから護摩を奨励する経典なんて、うんと後世の密教であり、密教経典もまた
釈尊の真説だったなんて話にはならないでしょうし、矛盾が生じるから学者は釈尊護摩肯定説なんて今後も認めません。
>阿含仏教の涅槃とは縁起の世界からの解脱であるが、大乗仏教の涅槃とは空であり、縁起の世界との区別がなくなったのです。
>だから大乗仏教の涅槃とは、煩悩解脱しか言えなくなったのです。
あなたの認識は全く逆であり、阿含仏教は煩悩解脱しかなかったが、
大乗仏教はなんでもかんでも空にしてしまい、自性空とやらで自性清浄にしてしまい
煩悩解脱の修行なんか必要ないかのようにしてしまったのです。
煩悩即菩提とか生死即涅槃とかワケのわからん屁理屈です。
その阿含仏教にも大乗仏教にもどちらにも桐山因縁解脱などありません。
あなたはここでおどろかねばならない。仏陀は、運のわるい修行者のために、
運をよくする修行法を説いているのである。
どんな修行法か?
『三福業道』
と名づける修行法である。
アーガマの長部経典、『衆集経』第五に示されている。
これをうけて『倶舎論』では「業品第七章」に、『三の福業事』として体系づけている。
それを見てみよう。
『三の福業事あり。一には施類福業事、二には戒類福業事、三には修類福業事なり』
とあり、どうして“福業事”というのか、という問いに、
『福を生ずる三つの業道だからである』
と答えている。
三福業道とはなにか?
“人間改造の原理と方法”にこうある。
『あなたはここでおどろかねばならない。仏陀は、運のわるい修行者のために、
運をよくする修行法を説いているのである。
どんな修行法か?
『三福業道』と名づける修行法である。
アーガマの長部経典、『衆集経』第五に示されている。
これをうけて『倶舎論』では「業品第七章」に、『三の福業道』として体系づけている。
それを見てみよう。
『三の福業道あり。一には施類福業道、二には戒類福業道、三には修類福業道なり』
とあり、どうして“福業道”というのか、という問いに、
『福を生ずる三つの業道だからである』
と答えている。
>>71 炎の中では無くて幽霊が火炎の近辺で映像に記録された。
>それは有るでしょう、私も数枚所持しています。
炎が人を形づくるのではなく、炎の傍に人の形をしたものが現れたのですから、
これでは批判側お得意の“風による自然現象”では説明できません。
さてそうなると、次に彼等はどういう反応をするのか。
まあ私の予想では、“それが何で法力の証明なのか”なんてあたりですか。
導師の法力なのか、密教が持つ摩訶不思議な力か、或いはその両方か。
さあ、どれでしょうね?
はっきりしていることは、
“阿含の柴燈護摩で、第三者の手により、科学的に説明できない不思議な写真が撮られた”
という事実です。
>>78 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR :2016/02/21(日) 22:06:54.51 ID:AhROkbKp
>「バラモンよ。木片を焼いたからと言って浄らかさが得られると考えるな」
この言葉は微妙ですね。
これが、
「バラモンよ。木片を焼いたら不浄さが増えるぞ」
という言葉だったら、文句無しだけれどね。
修行読本1は自著である人間改造の原理と方法からの引用であるが、正確に引用していない。
人間改造の方では倶舎論の引用は悉く福業事であるが、修行読本になると
悉く福業道に改竄されてしまっている。
自著だから許される話ではない。倶舎論と引用先を示しているのだから
勝手に語句を変えてはならない。
桐山さんは三福業道としたいから事を悉く道にしてしまった。
最初から倶舎論にはそう書いてあったかのように、捏造してしまった。
事も道も同じことだろうなんて言い訳は世間では通用しません。
きちんと引用しなければならないのに、自分のフィーリングで勝手に変えてはなりません。
三福業道とは施・戒・修であり、後に桐山さんが三善根経典を三福道と改竄捏造した
背景には、この三福業道があるかとも思われます。
桐山三福道とは全然内容が違うが、桐山さんは過去に自著にも書いた三福業道という
用語をうろ覚えに思い出したのかもしれません。
前スレのムチャリンダ龍王論議の中で、引用は手で書くから覚えやすいなんて
側面だけでなく、自分の言葉を頭を駆使して書くのではなく、機械的に引用するので
心は上の空で記憶に残りにくい逆の側面もあると書いたとおり、三福業道なんて
所詮引用に関しては三善根の時にはうろ覚えだとも思われます。
仏教には三福業という言葉はあっても三福道なんて用語はありません。
その別の阿含経典にある三福業とは、施福業、平等福業、思惟福業であり、
これは倶舎論の施・戒・修とは似ていても、桐山三福道の内容とは全然別です。
ともあれ桐山さんは三福道という用語がよほど好きと見える。
好きなのはよいが、ついに倶舎論の用語まで事を道に変えたのは明らかなルール違反の
恥さらし行為です。
>導師の法力なのか、密教が持つ摩訶不思議な力か、或いはその両方か。
>さあ、どれでしょうね?
>はっきりしていることは、
>“阿含の柴燈護摩で、第三者の手により、科学的に説明できない不思議な写真が撮られた”
>という事実です。
いや、それは選択肢として狭過ぎやしませんか?
炎を介さないなんだかよくわからない物体のような光のような、いわゆる霊写真と
いうのはアゴン宗以外にも、宗教に関係ないところでも時々報告されます。
あり得ないところに足があったりなかったりとか、いわゆる心霊写真です。
そういう霊写真が写るのは、どうも宗教の偉大な力とは関係ないようなサンプルを
私も何枚も見ていますが。
>これが、
>「バラモンよ。木片を焼いたら不浄さが増えるぞ」
>という言葉だったら、文句無しだけれどね。
いや、実はそう述べたも同然の表現なんですよ。
そのサンユッタ・ニカーヤのその部分を正しく引用してみましょう。
バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。
それは単に外側に関することであるからである。
外的なことによって清浄が得られると考える人は、実はそれによって浄らかさを得ることができない、
と真理に熟達した人々は語る。
バラモンよ、わたしは外的に木片を焼くことをやめて、内面的にのみ光輝を燃焼させる。
永遠の火をともし、常に心を静かに統一して、敬われるべき人としてわたくしは清浄行を実践する。
バラモンよ。そなたの慢心は重荷である。
もちろん単に木片を焼く焚き火をしても不浄になどなりやしません。
煮炊きをするために木片を焼く、暖をとるために木片を焼く。
そんなことで心が不浄になんかなりゃしません。浄らかにもならないし、
不浄にもならないで、単に現実的側面を享受するのみです。
しかし煮炊きや暖をとるために木片を焼くのではなく、心に浄らかさを得られると
考えて木片を焼いたらどうだろう?
ちなみに密教の護摩などは煩悩を焼き尽くし清浄を得ると考えて護摩木を焚く。
桐山さんなどはその密教にもない霊的浄化などと言って、浄霊などとしている。
こんなことを考える奴は実はそれが理由で浄らかさが得られないと説いていることは
不浄を増していると説いているのです。
仏教でいう不浄とは煩悩に汚されていることを指しますからね。
世間の一般人は正月に初詣をしてさえ護摩木を書いたり、護摩に参列したりすら
しない人が多いですよね。賽銭くらいは投げても。
つまり気休めであり、一時的なものであり囚われがない。
ところが護摩に参加して浄らかさを得たり、本気で祈祷したりする人は
それだけ煩悩を他の人より増大させて、仏教的に汚れているのです。
護摩で内面まで浄められるという慢心の煩悩は重荷となると説いているのです。
魚が一番清まってる~と、釈迦が言ったというのは本当ですか? あるいは、言って無いですか?
深山霧島キッチン http://blogs.yahoo.co.jp/kittymizo16251/13021215.html
議論にならない。
阿含仏教の解脱とは、五分法身を備えることが阿羅漢の必須条件であった。
戒、定、慧、解脱、解脱知見、の五つを備える
ことだよ。これが阿含仏教の解脱です。
何が煩悩解脱だけだよ、あほ
煩悩解脱はその中の一つの条件に過ぎない。
解脱知見の中の一つに漏尽知がある。
それが煩悩解脱のことだよ。
その他に、宿命知を備える必要がある。
宿命知によって、輪廻が尽きたことを知るわけです。この輪廻解脱も阿含仏教の解脱の条件です。何が煩悩解脱だけだよ、無知者めが。
五分法身では二種の知恵を説く。
慧と解脱知見の二種だよ。
解脱知見とは解脱してから備わる知恵だね。
だから、戒定慧、解脱、解脱知見と、解脱を備えた後に解脱知見があるわけだね。
大乗仏教になって空が説かれ、阿含仏教の解脱の条件が消えてしまうわけですな。
だから、煩悩解脱だけになってしまうわけです。
>ちなみに密教の護摩などは煩悩を焼き尽くし清浄を得ると考えて護摩木を焚く。
>桐山さんなどはその密教にもない霊的浄化などと言って、浄霊などとしている。
>こんなことを考える奴は実はそれが理由で浄らかさが得られないと説いていることは
>不浄を増していると説いているのです。
>ところが護摩に参加して浄らかさを得たり、本気で祈祷したりする人は
>それだけ煩悩を他の人より増大させて、仏教的に汚れているのです。
>護摩で内面まで浄められるという慢心の煩悩は重荷となると説いているのです。
そんなことは、サンユッタ・ニカーヤのどこにも書いてありません。
ニカーヤにあるのは、
>バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。
>バラモンよ。そなたの慢心は重荷である。
これしか言ってません。
>不浄を増していると説いているのです。
>護摩で内面まで浄められるという慢心の煩悩は重荷となると説いているのです。
などと、どこをどう読めばこういう解釈ができるのですか?
ニカーヤ「木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。」
↓
ユビキタス「不浄を増していると説いているのです。」
ニカーヤ「バラモンよ。そなたの慢心は重荷である」
↓
ユビキタス「護摩で内面まで浄められるという慢心の煩悩は重荷となると説いているのです。」
浄らかさが得られると考えるな(ニカーヤ)→不浄が増える(ユビキタス)
慢心(ニカーヤ)→慢心の煩悩(ユビキタス)
インチキ解釈が得意ですね。
とっくにバレてますよ。
精神的に心の不幸から幸福へとテイクオフするさい、禅の無門慧開氏の「前後際断」が、その意図とする
ところであると思います。
因縁のしがらみを、精神的に心の念いで断ち切る「前後際断」が、幸福へのテイクオフに到る方便として
の「因縁を切る」の真意であると思います。
小部経典 自説経が分かりやすいね。
以前にもレスがあったが、
「諸々の縁の滅尽を知れるがゆえなり」
と、釈尊は唱えました。
それが阿含経の涅槃なのです。
この諸々の縁の滅尽を説くために、膨大な経典があるわけですね。
阿含経では、因=縁=因縁、ですね、いずれも原因というほどの意味だと仏教辞典に書かれています。
だから、諸々の縁の滅尽=諸々の因縁の滅尽、
つまり、因縁解脱です。
この諸々の「縁」の中に、煩悩や業や苦や輪廻が含まれますね。
>そんなことは、サンユッタ・ニカーヤのどこにも書いてありません。
>などと、どこをどう読めばこういう解釈ができるのですか?
ここです。↓
外的なことによって清浄が得られると考える人は、実はそれによって浄らかさを得ることができない、
それに引用の範囲を広げて、ここまで示したかった。↓
バラモンよ。そなたの慢心は重荷である。
木片を焼くことによって清浄が得られると考えている人は、実はそれだけで
清浄を得ることができない。
それは清浄を得られるなどと思っている慢の煩悩があるからです。
その煩悩は自身を縛る重荷となります。
これは仏教では煩悩に汚れているということになります。
つまり清浄ではなく、ニュートラルですらなく不浄になります。
木片を焼いてそれによって清浄さを求めるバラモンに比べて、そんなことなど
つゆにも考えない人(普通は皆そうでありましょう)は木片を焼いて煮炊きをしたって
ニュートラルですよ。
だから比較の上からも護摩などにうつつを抜かす奴は、普通の人より慢の煩悩が多く
それは自ら増大させたものです。
煩悩を増大させた状態を仏教では不浄といいます。
>阿含仏教の解脱とは、五分法身を備えることが阿羅漢の必須条件であった。
>戒、定、慧、解脱、解脱知見、の五つを備える
>ことだよ。これが阿含仏教の解脱です。
>何が煩悩解脱だけだよ、あほ
五分法身のどこに因縁解脱があるのですか?
戒、定、慧の三学を修して解脱を得、自分が解脱したことを知る(解脱知見)。
解脱したことを知ると解脱したは同じことです。
その解脱とは煩悩が尽きてなくなった状態を言うのだから、煩悩解脱です。
戒定慧の三学修して煩悩解脱を得た。
そう言うとあなたは心解脱だけでなく倶解脱も慧解脱もあると言うでしょう。
では慧解脱とは何か?智慧の観察により自らの無明無知がなくなったことを言います。
無明無知もまた煩悩であります。
煩悩には貪瞋痴の三毒あります。痴とは無知であり無明によります。
だから全部煩悩解脱です。
因縁解脱だの、特定の病気をしなくなる運命転換なんてどこにもありません。
>バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。
>それは単に外側に関することであるからである。
つまり、木片を焼くことは内面には関係ないと言っているのです。
だから、人がどんな気持ちを込めて焼こうが、関係ないのです。
それなのに、何故霊的浄化を願ったり、願いが叶うように願うと煩悩が増えるのか?
自分でおかしいと思わないのか?
内面には関係ないんだよ。
そんなの関係ない、そんなの関係ない、そんなの関係ない・・・・・・
自分等の主張していることの可笑しさにまだ気付きませんか?
批判側は釈尊の真意を理解していません。
あなたたちの言っていることは、釈尊に反しています。
教団にケチを付けたいだけなんですね。
出張か、それともインフルか。
>つまり、木片を焼くことは内面には関係ないと言っているのです。
>だから、人がどんな気持ちを込めて焼こうが、関係ないのです。
>それなのに、何故霊的浄化を願ったり、願いが叶うように願うと煩悩が増えるのか?
>自分でおかしいと思わないのか?
>内面には関係ないんだよ。
内面に関係ないことを理解しているのなら、外的なことに過ぎない焚き火をしても
内面には影響しません。
しかし内面に影響を与えると信じて焚き火をするような人は、
「実はそれによって浄らかさを得ることができない」とサンユッタ・ニカーヤは指摘する。
浄らかさを得るとか得ないとかは全て内面の話ですよね。
だから護摩を焚いても浄らかさなど「関係ないから」得られない。
あなたは「関係ないから」と言って、だったら煩悩の増大にも考えないはずだと
いう主張ですよね?
しかしそれは「考えない」を拡大し過ぎです。
心の浄化に焚き火が役立つと「考える」ことはもはや内面の営みです。
実際に手段として行う護摩の焚き火は外的なものだから効果など挙げるはずもないが、
このように考えてしまったからには、「実はそれによって」浄らかさを得ることができない
という内面に関係してくるのです。
効果がないばかりか、悪影響があると説いているのです。
霊的浄化というのもまた心の浄化、内面の浄化として考える。
てかそもそも仏教では霊のことは「考えるな」と説いているのだから霊的浄化などと
考えただけで仏教ではアウトですが。
願い事が叶いますようにと祈ることは人の内面の営みに過ぎない。
焚き火など外的なことをしたところで内面には関係ないから効果もない。
このことに叶うぞ叶うぞといつまでも執着して考えるならば、それは自分の心の中に
悪影響を与えます。
護摩焚き火そのものが悪影響を与えるのではなく、その人の心のあり方が
悪影響を与える。
外的なことによって清浄が得られると考える人は、「実はそれによって」「浄らかさを得ることができない」
百回くらい読んでみなさい。
それ(護摩で内面浄化を考える)によって(原因)、内面浄化はできない(結果)。
つまり影響を与えていて「関係ある」。
仏教、密教、阿含を利用して詐欺をする罪深い教団である
ことに間違いない。
木片を焼く(外的に関すること)←関係ない→内面の浄化
木片を焼くことによって内面の浄化ができると「考える」→内面の浄化に反する方向に悪影響がある。
心(内面)同士の話だからね。
そうでなかったら
外的なことによって清浄が得られると考える人は、「実はそれによって」「浄らかさを得ることができない」
なんて図式が成立しない。
浄らかさを得られないという内面への影響には内面の理由があり関係あったのです。
護摩を焚くその心(内面)が問題なのです。
たとえば受験合格とか願い事を叶えるには、受験勉強という現実努力をしなければならない。
受験勉強とは外的なことに携わることです。
携わるからこそ合格の願いも叶う。
しかし祈りだけなら、それは合格したいなあという内面世界の願望に過ぎない。
祈りだけで、祈りの力で願い事を叶えようなんて考えることは、健全な心ではありませんよね。
同じ外的なことにしても受験勉強ではなく、焚き火なんて全然関係ないピントはずれな
行為に携わりまでして。
それは焚き火で合格に近づけると「考えた」ことが煩悩だったのです。
考えて(焚き火祈りを)実践までして、煩悩を増大させたのです。
普通の人なら受験勉強に心血を注ぎ、焚き火なんかに頼りません。
喧しいことであります。
少し詳しく言うてみましょうかね。
人が抱く恐怖心を克服する手段が不動護摩供養法なのですね、ユビキタス君は
瞑想をしたことが御有りか?己が持て余すスケベ心を静めるばかりが瞑想ではない。
映像を目前に明瞭に見る瞑想もあって、水、火、地、風、それをまとめた空観
と発展するのであります。
水は割と易しいのだが、火をアリアリと見るのは初期には怖いですね、身体が思わず
のけぞる反射的な恐怖を引き出すことになります。
然し年月をかけて気長にやりますと出来るようになります。
此処まで行きますと次は不動明王に祈念をすることになります。
不動明王の御誓願に、明王の信者は死の恐れから無縁となると在ります。
順番を言いますと、火の恐怖を克服すると死の恐怖は容易に解脱出来る訳です。
この不動心を以って一切の供養を行うのがサイトウ護摩供養の本義なのです。
言ってしまえば出来ないやつは仕方ないから、そこで見て居なされですよ。
オウムの修行とか企業研修「地獄の特訓」みたいですね。
でもそれって阿含宗の「因縁解脱」の修行ですかね?
どうして密教の不動明王に祈るのですか?ご本尊は仏舎利じゃないのですか?
その間違いを指摘されても、素知らぬ顔です。
前はコテハンだったペテン大作さん、一来補さん、宝生さんがなぜ今は名無しに
なっているのか、信者さんたちはおかわりでしょうか。
過去の書き込みを引用されて矛盾や間違いを指摘されても、
「自分ではない。自分だという証拠をだしてみろ」と開き直り、
言い逃れができるからです。
ペテン大作さんはそれをすでにしている。
信者さんたちにこのペテン大作さんの反応を信仰の上でも参考にしてほしい。
それは、間違いを指摘されたら、修正することです。
ペテン大作さんも一来補さんも、そして桐山さんも
自分の間違いを認めることは死ぬほど嫌いです。
どんな詭弁と嘘を並べてでも逃げ惑う。
昨日から二人が異様に文章量が増えているでしょう?
日曜日だったとは言え、今日もまだ書いている。
これはこの二人の恒例で、何か自分の間違いや矛盾を指摘され、
立場がまずくなると、条件反射のようにこういう反応をします。
だから、逆に批判側の指摘が的を射ぬいたのがわかる。
彼は「信者とも、信者でないとも書いていない」と
恒例の卑怯者ぶりを発揮して逃げ惑うでしょうから、放置しましょう。
これだけアゴン宗の護摩を擁護するのに護摩木一本彼は書かない。
星まつりにも行っていません。
アゴン宗の護摩には武士の生首が現れたと信じている(>>71)。
それが桐山さんの持つ密教の力だというのも変だが、
それ以上に変なのがその内容です。
護摩の最中に、「白い顔に真っ黒な髪を垂らした人間の生首」が
「護摩壇の淵にフワーと浮いて」、しかも
「落武者らしき首は、炎ではなかった」というのだから、
本物の生首が現れたというのです。
すごい話だと思いませんか。
護摩の火や煙が武士の首のように見えたという話ならともかく、
本物の生首が護摩壇の淵に浮いていたというのです。
ユビキタスさんに、見ていないから知らないのだと嘲笑い、
まるで目の前で見たかのような、あるいは写真の現物を見たかのような
生々しい描写だが、実際は違う。
当時の走査線の少ないブラウン管に映し出された写真で判断しているのです。
500本もない走査線で表示された画面です。
解像度の低いぼんやりした画面に映し出された写真を見て、ペテン大作さんは、
「白い顔に真っ黒な髪を垂らした人間の生首」(>>71)が
「護摩壇の淵にフワーと浮いて」(>>71)、しかも
「落武者らしき首は、炎ではなかった」(>>71)と判断した。
写真の現物を手にとって、時間をかけてじっくり見て、調べた上で
述べているではなく、解像度の低いブラウン管テレビに短時間映し
出された写真を見て、彼はここまで判断したのです。
武士の生首が現形していたかどうかを議論しているのではなく、
ペテン大作さんの判断を信者さんたちに良く見てほしいのです。
ものすごく稚拙で、ものすごく短絡していることに気が付きませんか。
不明瞭なテレビでチラッと見て、ゲストの霊能者が武士の生首だと言ったから、
すっかり彼は信じ込み、あれから間もなく四十年になり、
彼なりに人生という経験を重ねてきたはずなのに、相変わらず自分の
短絡にも気が付かず、むしろ、歌まで出して、自慢して見せた。
生首が出てくると、どうして桐山密教の力の証明になるのだ?
では、世間にたくさんある霊写真は全部それを撮った人たちの力ですか?
生首よりも、こんな話でアゴン宗を擁護したつもりになっているペテン大作さんの
知性のほうがよほど恐い。
まるで「学校の怪談」レベルです。
小学生が話しているのならともかく、自慢気に話している彼はいったい何歳なのだ??
密教の力の証拠だと主張している。
だが、炎でもない人間の生首がなんで密教の力の証明になるのだ?
その生首が、桐山成仏リキで成仏して守護霊になりましたさ、という
オチがあるなら意味もあろうが、生首が出てきても、
心霊写真というオカルト写真が増えただけで、何の意味もありません。
桐山さんは神仏の現形こそがアゴン宗が正しい仏教であることの証明だとしている。
アゴン宗では生首の現形ではなく、神仏の現形こそが意味があるのです。
桐山説によれば、世間は霊障のホトケだらけなのだから、
よその護摩などに生首が出てきても何の不思議もない。
だから、生首現形はアゴン宗の正当性の証明にはならない。
アゴン宗に必要なのは神仏の現形です。
ムチャリンダの現形など神仏の現形こそが意味があるのです。
「われはまさしくムチャリンダ龍王である」(『輪廻する葦』95頁)
アゴン宗でムチャリンダだと名乗ったという神仏はドラゴンの姿をしていた。
だが、ムチャリンダは蛇です。
他の信者さんたちはペテン大作さんの、蛇も昔は足があったなんて熱が
出るようなピント外れの話や、一来補さんのような屁理屈を捨てて、
あるいは>>101の宝生さんのように、アゴン宗と関係のない自慢話を延々と
説教するのではなく、もう少し仏教の普通の知識や常識を受け入れたほうが良い。
もともとインド原住民の間で行われていた蛇神崇拝が仏教にとり入れられたもの。」
(『佛教語大辞典』1422頁)
「龍王」(ナーガ・ラージャ)というのは、あの猛毒を持つキング・コブラのことです。」
(『仏教かく始まりき』宮元啓一、春秋社、27頁)
どんな屁理屈をつけてもムチャリンダがドラゴンにはならない。
ムチャリンダなど仏教の龍王が蛇であることは、仏教の常識です。
ところが、アゴン宗に現形した龍王はなんとドラゴンだった。
「龍王、龍神と、ヘビとはなんら関係ないのである。」
「実在の生物としてのヘビとはなんの関係もないのである。」
(『輪廻する葦』94頁)
学者たちは龍王とは蛇であり、桐山さんは蛇ではないという。
信者さんたちがどちらを信じるのも自由です。
だが、ムチャリンダが龍の姿で現形したなんてのは、
アゴン宗の中でこそ通用するが、世間に出したらもの笑いです。
信者さんたちは「お釈迦様は霊鷲山で法華経を説いた」と言う人が
いたら、笑いますよね。
「入滅して何百年も後に、どうやって説くのだ?」と皮肉を言うでしょう。
どうして?
法華経が後世の人たちが勝手に作った偽経典ではあることは仏教の常識だからです。
お釈迦様が法華経を説いたなんて信じるのは自由だが、無知か、
事実を受け入れられない狂信者か、どちらかだろうと思いますよね?
ムチャリンダもそれと同じです。
>心の浄化に焚き火が役立つと「考える」ことはもはや内面の営みです。
>実際に手段として行う護摩の焚き火は外的なものだから効果など挙げるはずもないが、
>このように考えてしまったからには、「実はそれによって」浄らかさを得ることができない
>という内面に関係してくるのです。
>効果がないばかりか、悪影響があると説いているのです。
サンユッタ・ニカーヤ
>バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。
>バラモンよ。そなたの慢心は重荷である。
“そなたの慢心は重荷である”
あなたはこの重荷が悪影響だと言いたいのですね?
なるほど、心に重荷を背負うことは辛いことでもあり、
その人にとってはストレスを感じることもあるから悪影響と言えなくもない。
でもそこまでの話であって、それが煩悩の増大には繋がりません。
“煩悩の増大”は批判側の創作です。
釈尊は、人が慢心という重荷を背負うことを諭したのです。
“木片を焼くことで心の浄らかさが得られるという慢心は重荷である。
だからそういう考えは捨てなさい”と諭したのであって、
それが煩悩の増大に繋がるから捨てろ、などとは一言も言ってない。
あなた方批判側は釈尊の言葉を自分勝手に味付けして、教団批判に利用しているのです。
「サンユッタ・ニカーヤ」“慢心は重荷”⇒「批判側」“心に悪影響”⇒“煩悩の増大”
ご覧ください。
これが批判側の“呆れた経典偽解釈”の実態です。
龍王が蛇であることは議論する内容ではなく、当たり前の事実、
多くの仏教徒や仏教学者の認めていることなのです。
それを一生懸命に、ドラゴンでもかまわない、などと言うのは、
法華経はお釈迦様が説いたと主張する連中と変わりない無知丸出しの
狂信者たちの主張です。
他の信者さんたちに助言だが、外で大きな恥をかきたくありませんよね?
それなら、法華経は偽経典、龍王は蛇だと正しく主張するべきです。
信者さんたちがそれを認めたくない気持ちも良くわかる。
それを認めたら、桐山さんの、龍王は蛇ではない、という主張を
否定することになるからです。
桐山さんは本にまで出してしまっているから、桐山さんの主張と、
仏教の常識は相容れず、両者を両立させることは不可能です。
仏教の常識を受け入れたら、桐山さんは嘘をついていることになり、
仏教の常識を否定したら、信者さんたちは無知な狂信者になる。
現実に、ここにペテン大作さん、一来補さん、宝生さんという
三人の無知な狂信者たちが、言葉どおりに狂ったように
ムチャリンダはドラゴンだと書きまくっている。
三人の姿が醜態に見えないなら、同調すれば良い。
また外に出た時、恥ずかしくないなら、ドラゴンだと主張すれば良い。
どちらを選択するのも信者さんたちの信仰の自由です。
だが、一つだけ気を付けなければならないのは、信仰の自由は自由だが、
行為の報いは自分に返ってくる。
アゴン宗の主張が間違いや嘘だと指摘されても無視して、
仏教では明瞭に蛇だとわかっている龍王をドラゴンで
現れたと、如来の教法を捻じ曲げる者は、法華経をシャカが説いたという
連中と同列であり、同罪だと自覚することです。
>ペテン大作さんは、私がスレを立てたなどと書いて(>>28)、
>その間違いを指摘されても、素知らぬ顔です。
こんばんわ、砂場教授殿。
お顔が見えないので心配してました。
早速ですが、>>28は私ではありません。
因みに私の当スレ初登場は>>53です。
それから、素知らぬ顔をしているのはあなたの方です。
私の個人情報を出すという話はどうなったのですか?
あなたが出していいのかと打診したから、
こちらからOKのサインを出したのに何故出さないのですか?
>仏教で、法華経が偽経典であることはもはや議論の余地のない事実であるように、
そうでもないんだよね、これ読むと。
http://toyoda.tv/daijohibutsusetsu.matome.htm
>オカルト信仰のペテン大作さんは生首に大ショックを受け、これこそ桐山ゲイカの
>密教の力の証拠だと主張している。
>だが、炎でもない人間の生首がなんで密教の力の証明になるのだ?
いや、証明になるんでないかい?
少なくとも生首が護摩壇に寄って来たのは、
そこに来れば成仏或いは浄仏できるからでしょ?
またはそこが心の休まるところだからでしょ?
あなただって、こうして生首の話を取り上げているところを見ると、
これが密教の力の証明になったらマズイから一生懸命に否定してるわけですよね。
隠しても駄目ですよ。
>サンユッタ・ニカーヤ
>>バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。
>>バラモンよ。そなたの慢心は重荷である。
ペテン大作さん。あなたは引用に際して、なぜ間を抜かすのですか?
実はあなたが抜かした部分にキーワードがある。
再度引用しましょう。
外的なことによって清浄が得られると考える人は、実はそれによって浄らかさを得ることができない、
これを百回唱えてみなさいと書いたでしょう。
実はそれによって浄らかさが得られない、浄らかでないことは煩悩があるということです。
護摩などという外的なことで清浄が得られると考える人が、それを考えたことによって浄らかさを
得られなくなってしまったのです。
つまり煩悩を抱えてしまったのです。
はっきりと因果関係が書いてある。
この抜かした部分をあなたはとことん無視するのですね。
はははは、やはり一来補さんと変わりない頭脳と態度だ。
>外的なことによって清浄が得られると考える人は、実はそれによって浄らかさを得ることができない、
>これを百回唱えてみなさいと書いたでしょう。
>実はそれによって浄らかさが得られない、浄らかでないことは煩悩があるということです。
はい、そのとおりです。
しかし、“外的なことによって清浄が得られると考える人は、煩悩が増大する”
とは書いてありません。
だから“煩悩が増大する”は批判側の偽解釈です。
分りましたか?
外的なことによって清浄が得られると考える人は、浄らかさを得ることができない。
つまり煩悩が無くなることはないわけです。
なるほど、持って生まれた煩悩は減らないのか。
だが外的なことによって清浄が得られると考える人は煩悩が増大する、
とは釈尊は言ってないのです。
それを批判側は堂々と煩悩が増大すると言った。
だからその根拠を見せてみろということです。
さあ、大変です。
連中がどんな言い訳を並べるか、見物しましょうw
>しかし、“外的なことによって清浄が得られると考える人は、煩悩が増大する”
>とは書いてありません。
>だから“煩悩が増大する”は批判側の偽解釈です。
いいえ、たしかに煩悩を説いています。
だから私は引用の箇所を広げたのです。
それは
>バラモンよ。そなたの慢心は重荷である。
ここです。
いみじくもあなたも
>サンユッタ・ニカーヤ
>>バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。
>>バラモンよ。そなたの慢心は重荷である。
と並べて書いている。どちらもバラモンよ。で始まる。
つまりこれは同じバラモンを指している。
木片を焼いたら浄らかさを得られると考えるバラモンです。
かのバラモンの慢心は重荷となっていると書いている。
慢心とは煩悩です。まさかこれ否定します?煩悩って何だか知ってる?
慢心が重荷になっているとは煩悩にがんじがらめになっているということです。
どこに増大なんて言葉があるかって?
だからこれは比較ですよ。
木片を焼いても浄らかさなんか得られないと悟っているバラモンを想定してください。
こういうバラモンに無条件に浄らかさが得られないなんて説きません。
条件を付けて煩悩を指摘しているのです。護摩を信じて焚くならば煩悩あり、
それを捨てるならば煩悩は信じている人と同じはずがない。
つまり増大を説いているのです。
時に、国太郎よ。
あなたの指摘するように、この砂場で自分よりも理解の劣っている人に理解を
得られなくても示す作業は多分に教授的になっているのも仕方ないことだ。
>凡夫は誰でも煩悩を持っています。
>外的なことによって清浄が得られると考える人は、浄らかさを得ることができない。
>つまり煩悩が無くなることはないわけです。
>なるほど、持って生まれた煩悩は減らないのか。
いいえ、持って生まれた、または生後獲得してもらった煩悩は、なかなか全部は
なくせませんが、確実に減らせます!
非常に簡単です。その木片を燃やせば清浄が得られるなんて 考えを捨てて
護摩から離れればよい。だって護摩なんて食欲、性欲、睡眠欲みたいに必須のものではない。
多くの一般人は護摩なしに生きていられる。
かく言う私も生まれつき護摩体質だの護摩なしに生きていられなかったなんてことはない。
初詣の寺院でゴマを焚くという宣伝を目にして、その胡麻ってどうやって
食べるのだろうかと思ったのが中一の頃だ。
だからそんな護摩を捨てるなんて簡単簡単。経験者は語る。
カッサパ三兄弟だって護摩を捨てたのです。
だから煩悩なんてものはいろいろあって、全部はなくせなくても誰でも確実に減らせる!
だから教えを説いているのです。
それにここでバラモンであれそもそも衆生なんてものは皆煩悩に覆われているもので
あってさあ・・なんて全体論を何で出す必要がある?
他の煩悩、女が忘れられない煩悩とかはこの場ではさておき、今話題にしているのは
護摩に関わることです。
護摩に関わると浄らかさが得られないと条件提示をしているのだ。
だから護摩を捨てれば、この煩悩だけは減らせます。他の煩悩はまだ残っても。
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「いつものパン」があなたを殺す: 脳を一生、老化させない食事
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小麦は食べるな!
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ダダモ博士のNEW血液型健康ダイエット
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小麦に含まれてるグルテンは脳を炎症させます。→精神病、ウツ病の原因に。
O型とB型は小麦を食べると腸に血が集まりアレルギーのようになり吸収が遅くなりタンパク質を脂肪として吸収してしまうため太ります。
炭水化物(小麦、米)=砂糖
小麦はドクです。
>条件を付けて煩悩を指摘しているのです。護摩を信じて焚くならば煩悩あり、
>それを捨てるならば煩悩は信じている人と同じはずがない。
>つまり増大を説いているのです。
これは今までの批判側の主張とも違うし、釈尊もそのようなことは述べていません。
釈尊は「護摩を信じて焚いても浄らかさは得られない=煩悩は減らない」と言ったのです。
あなたがここで書いている「護摩を捨てたら、護摩を信じている人と煩悩が同じはずがない」
とは言ってません。
釈尊は、護摩を焚いてもその人が持つ煩悩は減らない、とだけ述べて、
護摩を捨てたらどうなるかについては一切触れていないのです。
だからあなたの「増大する」の根拠はまったくのデタラメです。
以前から批判側は、護摩を信じて焚くと煩悩が増大すると言っている。
これは、或る人が護摩を焚くと、その人本来が持つ煩悩が増える、という意味です。
だから、あなたが書いている「護摩を捨てたら、護摩を信じている人と煩悩が同じはずがない」
とは異なる主張であることが分りますよね?
今さら矛先を変えようと誤魔化しても駄目です。
そこで再度尋ねます。
「護摩を信じて焚くと煩悩が増大する」の根拠は何ですか?
>時に、国太郎よ。
>あなたの指摘するように、この砂場で自分よりも理解の劣っている人に理解を
>得られなくても示す作業は多分に教授的になっているのも仕方ないことだ。
相手が自分よりも理解が劣っていると信じるのは構わないが、
そうであるならば、ここはしっかりと反論して、
確かに相手より自分の方が理解が優っていることを示してください。
強がって見栄を張るだけではお子チャマですよ。
>だから護摩を捨てれば、この煩悩だけは減らせます。他の煩悩はまだ残っても。
忘れてました。
「護摩を捨てれば煩悩を減らせる」
この根拠も是非訊きたいですね。
経典の引用なども期待してよろしいか。
>時に、国太郎よ。
>あなたの指摘するように、この砂場で自分よりも理解の劣っている人に理解を
>得られなくても示す作業は多分に教授的になっているのも仕方ないことだ。
はあ???wwwwwwwwwwwwwwwww
なになに?馬鹿に教える際には教授みたいな口調になるのはしょうがないって???
馬~~~~~~~~~~~~~~~鹿wwwwwww
どんな口調だって説けるわ
実るほど 頭を垂れる 稲穂かな。 低能ほど教授振る。なぜなら教授になれないからだ。w
しかも砂場で教授になりたがるってwww ま、ここでしか活躍できないからなあ。
釈迦は威張らない。阿含宗低能批判者は教授みたいに振舞う。
なぜなら阿含宗低能批判者は、元カルト信者なので、どうせその程度だからだ。www
教授的になっているのも仕方ない???
そりゃそうだな。低能だから、毎日砂場で教授振るんだろ? それはしょうがないよなあ。
>117 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR :2016/02/22(月) 23:26:47.00 ID:w+/3Qt4e
>時に、国太郎よ。
>あなたの指摘するように、この砂場で自分よりも理解の劣っている人に理解を
>得られなくても示す作業は多分に教授的になっているのも仕方ないことだ。
相変わらず面白いなあ阿含宗低能批判者w
当たり前のことを、立派な口調で言うなよ。まるで与党時代の民主党みたいだぞwww
だって、オレが知ってることを野田は知らなかったんだからな。
首相だぞwww仮にもw
あと、多分に、とか立派な言葉使うな。民主党みたいだからな。w 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)
深山の帝王 http://windknot.naturum.ne.jp/e1607809.html
>「護摩を信じて焚くと煩悩が増大する」の根拠は何ですか?
>>122 神も仏も名無しさん 2016/02/23(火) 01:31:28.23 ID:A8yj7T9A
>「護摩を捨てれば煩悩を減らせる」
>この根拠も是非訊きたいですね。
>経典の引用なども期待してよろしいか。
ペテン大作さんも一来補さんと同じ頭脳だと指摘するのは、単語主義にあります。
一来補さんの縁起、因縁も単語でしか理想しておらず、その実内容の理解がさっぱりだ。
単語の組み合わせだけで桐山さんも認めぬような内容の因縁解脱を間違って捉え ている。
ペテン大作さんも四禅解脱論議の時から感じていたのが、その実煩悩のなんたるかが
わかってないくせに専門用語のみを駆使したがり、結局誤った結論になっている。
2人とも哲学に向かない人です。自分の頭で考える能力がない。
他人の文章も正しく理解できない。
ゆとり世代の頭脳もひどいが、知識詰め込み教育の弊害の犠牲者か?
経典の根拠も何も、そのサンユッタ・ニカーヤの私が引用した部分だけで十分に読み取れるのです。
ペテン大作さんにそれが読み取れないのはあなたの国語力の問題と煩悩などの用語の
内容の理解知識の欠如不十分です。
煩悩というのはピンからキリまであり単一ではないのです。
全部を断とうと思ったら私など一生かけても達成できないかもしれない。
しかし減らすことはできる。今すぐに減らせる煩悩もある。
経験者は語ると書いたのは、私がアゴン宗という煩悩を離れたからです。
私もまた大柴燈護摩などは大好きなクチでした。しかしそれをあっさり捨てた。
捨てるのは簡単であり、捨ててすっきりした。まだ煩悩はいっぱい残っているが、
護摩をはじめとしたアゴン宗のような御利益信仰の誘惑に誘われる煩悩は簡単でした。
三結断てばシュダオン、五結断てばアナゴン、十結断てばアラハンだが、
あなたは究極のアラハンの十結断にしか目が行かず、前段階の三結断ちの重要性を
理解できていない。三結とは要するに理解認識の誤謬であり、これを離れるのは
教えを聞いて理解することです。
だからバラモンは釈尊の護摩否定の趣旨を理解したらあとは勇気を持って捨てるだけです。
>「護摩を信じて焚くと煩悩が増大する」の根拠は何ですか?
>>122 神も仏も名無しさん 2016/02/23(火) 01:31:28.23 ID:A8yj7T9A
>「護摩を捨てれば煩悩を減らせる」
>この根拠も是非訊きたいですね。
>経典の引用なども期待してよろしいか。
釈尊はあのサンユッタ・ニカーヤの中でバラモンの護摩依存の煩悩を指摘した。
その煩悩とは決して生まれつき誰にでもあったものではない。
護摩なんかを焚く慣習のうちに育てられたものです。
釈尊はこれを否定したということは護摩を捨てよと説いたのです。
護摩を捨てることはそれに依存する煩悩ごと捨てることを意味する。
捨てれば減るのは当たり前ではないか?引き算わかる?
また煩悩を増大するとは煩悩が生まれつきのものばかりではないからです。
護摩に関わってきたバラモンは他の一般人の持たない煩悩を増大させてきたのです。
足し算わかる?
護摩法覚えたり、作業したりするのに時間がかかり、
家族とよくケンカになったりするよな~
土日休日は道場で丸一日作業したり、護摩壇磨くのも大変なんだよね。
家族や仕事が片手間になり、下手すりゃ崩壊するよ
「護摩を捨てれば煩悩が減る」というユビキの解釈も確かに一理ある。
ふと自分を顧みたとき、慢心(煩悩)が知らず知らずに増幅していることに気が付いた。
以前より酷くなった夫婦の亀裂。原因は護摩行か?
>私の個人情報を出すという話はどうなったのですか?
>あなたが出していいのかと打診したから、
>こちらからOKのサインを出したのに何故出さないのですか?
しつこいから返事します。
あなたと違い、私は書くとは言っていない。
あなたがしたことをそのまましてあげただけです。
また実際書きません。
なぜなら、ペテン大作さんが普通の人と違い、激しい復讐心を持っていることを
知っているからです。
あなたは私の実名など知らないが、将来、私の名前がここに公表されるかもしれない。
その時、大半の擁護側は私の名前を聞いてもわからないし、
それ以上調べようともしない。
だが、執念深く、逆恨みの復讐心の強烈なあなたは別です。
何年でも探し続ける。
私の住居などがわかれば、どんな嫌がらせをされるかわからない。
あなたのこの十数年の言動を見て、執念深さと逆恨みの復讐心は良く知っています。
文章は前後を理解せず、その文言や単語にだけ憑りつくように、
あなたは自分が為した悪事やミスはきれいに忘れて、
自分の不快感だけを記憶して、復讐するエゴイストです。
そういう性格は桐山さんとそっくりです。
>こちらからOKのサインを出したのに何故出さないのですか?
憎しみが強烈で執念深い人は何人か見たが、ペテン大作さんはその中でも
トップクラスです。
一来補さんも宝生さんも慢心や怒りは強烈でも、復讐心という点では人並みです。
仮にこの二人が私と実際に会っても、それだけです。
だが、ペテン大作さんが私と会ったら、私の後を付けるようなタイプです。
あなたは世間一般の人たちが持つ常識的なブレーキが外れているのに、その自覚がない。
犯罪行為をしかねないという意味です。
アゴン宗の信者であなたと同じように強烈に人を恨む人がいて、
この人は攻撃対象の人に無言電話をかけ続けたことが後でわかった。
私の日常生活でペテン大作さんと付き合わざるを得ないなら、
極力あなたとの関わりを減らす。
慇懃な態度をとり、付き合いに距離を置く。
決して、ここで書いているようなことをあなたの言うことはありません。
もちろん、議論なんて絶対にしない。
これは一来補さんに対しても同じです。
にこやかに、言葉を選び、あなたの気分を損ねないように気を付ける。
なぜなら、どんな逆恨みを受けて復讐されるかわからないからです。
私も人並みの人生経験を積んでいるから、
あなたみたいな人物とは関わらないのが一番良いのを知っています。
そして、これはあなたの現実世界での周囲の人たちの反応です。
思い当たることがあるでしょう?
>こちらからOKのサインを出したのに何故出さないのですか?
あなたが親切心から何か手伝おうとして申し出ると、「いや、ペテン大作さんの
ような方のお手を煩わすことではなく、我々だけで何とかしますよ」
と慇懃に断られたことがあるでしょう?
あなたは一来補さんや宝生さんほどには鈍感ではないから、相手の顔を見たはずです。
相手は困ったような笑いを浮かべながら、あなたのほうをチラチラ見るが、
目を合わせようとしなかった。
あれはあなたと関わりたくないという意思表示です。
慇懃なのは、強く何か言えば、逆恨みされて、どこで復讐されるかわからないからです。
酒の席で、あなたは隣にたまたま座った人に「Aさん、あなたが十年前に
○○と言いましたが、あれは違うんですよ」と唐突に蒸し返した。
Aさんはそんな昔のことなどきれいに忘れていたが、
なんだってそんなことをこんな所で話し出すのかと、目を白黒させていた。
周囲もギョッとしていることに、あなたは視野が狭く、
自分の話に夢中になってしまうから、気が付かない。
あなたの頭には十年前の不快感から、○○の件が常に鳴り響いているから、
当たり前のことように話すが、周囲は驚くのです。
だから、付き合いの長い人ほど、あなたとは距離を取る。
いつも、なんとなく孤立しますよね。
若い頃に大きな別れがあったはずです。
あなたは自分の執念深さを自覚していないし、他人に復讐していることに
気が付いていない。
十年前の○○は違うのだから、違うと言っただけだと思っている。
だが、周囲は、その執念深さ、しつこさに辟易しているのです。
私の書いていることは推測にすぎないが、当たらずとも、それに
近い出来事があったはずです。
ここでしていることをあなたは普段もしているからです。
あなたがかつて自分で書いた個人的なことについて私が書けば「それは私ではないw」と
否定するだろうが、内心はもっと逆恨みして、復讐心をたぎらせる。
咬みついてやろうと狙っている犬の前にわざわざ手を出すバカはいない。
私は桐山ゲイカと違い、霊障のホトケを成仏させる力はありません。
>ペテン大作さんも四禅解脱論議の時から感じていたのが、その実煩悩のなんたるかが
>わかってないくせに専門用語のみを駆使したがり、結局誤った結論になっている。
>2人とも哲学に向かない人です。自分の頭で考える能力がない。
>他人の文章も正しく理解できない。
“釈尊は誰にでもわかり易く法を説いた”
“釈尊の説法を理解するのに特別な能力は必要ない”
これは批判側がいつも口にしている言葉ですよね。
今回のサンユッタ・ニカーヤも同じです。
これを理解するのにあなた方、砂場教授さんたちの高度wな国語の能力は必要ない。
まして哲学など無用です。
そして、その高度な国語の能力をお持ちのはずのあなたが、私の単純な質問に答えられないのは何故か?
それはニカーヤにはあなたの主張する様な内容が書かれていないからです。
最初から書かれていないのだから答え様がないのです。
それは単に外側に関することであるからである。
外的なことによって清浄が得られると考える人は、
実はそれによって浄らかさを得ることができない、
と真理に熟達した人々は語る。
バラモンよ。わたしは〔外的に〕木片を焼くことをやめて、
内面的にのみ光輝を燃焼させる。
永遠の火をともし、常に心を静かに統一していて、
敬わるべき人として、わたくしは清浄行を実践する。
バラモンよ。そなたの慢心は重荷である。
怒りは煙であり、虚言は灰である。
舌は木杓であり、心臓は〔供犠のための〕光炎の場所である。」
(「ブッダ悪魔との対話」中村元、p.147)
信者さんたちにこの経典を普通の日本語として読んでほしい。
その上で質問しますが、釈尊は護摩を禁止しているだろうか、
それとも容認しているだろうか?
この文言は比丘ではないバラモンに言った言葉であり、
比丘に禁止したのではありません。
文章の中には一つとして護摩は禁止だとは述べていない。
だが、普通の日本語としてこれを読んだ時、釈尊が護摩を禁止していることは
あまりに明瞭です。
つまり、
「釈尊は護摩を禁止した」
と理解するべきで、仏教徒ならこれを大原則として守らなければならない。
ましてや、阿含経を護持するというなら、護摩を焚かないなど当たり前すぎることです。
>ペテン大作さんも四禅解脱論議の時から感じていたのが、その実煩悩のなんたるかが
>>85 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR :2016/02/22(月) 00:37:11.13 ID:w+/3Qt4e
>ちなみに密教の護摩などは煩悩を焼き尽くし清浄を得ると考えて護摩木を焚く。
>桐山さんなどはその密教にもない霊的浄化などと言って、浄霊などとしている。
>こんなことを考える奴は実はそれが理由で浄らかさが得られないと説いていることは
>不浄を増していると説いているのです。
“護摩を焚くと不浄が増す”とは、釈尊は言ってない。
あなたが、私の質問に対して書いていることは、
その人の心のあり方が悪影響を与える。(>>97、
護摩を焚くその心(内面)が問題なのだ(>>99、
などど、心に悪影響があるという内容であり、
最後には、
>実はそれによって浄らかさが得られない、浄らかでないことは煩悩があるということです(>>113、
>護摩を信じて焚くならば煩悩あり、それを捨てるならば煩悩は信じている人と同じはずがない。
>つまり増大を説いているのです。(>>117
「護摩を捨てたら、護摩を信じている人と煩悩が同じはずがない」
などど、まったく頓珍漢なこと言い出して、さっぱり答えになっていません。
そして、いつものパターンで、相手の国語の読解能力を持ち出し(>>125、
>捨てれば減るのは当たり前ではないか?引き算わかる?
>護摩に関わってきたバラモンは他の一般人の持たない煩悩を増大させてきたのです。
>足し算わかる? (>>126、
小学生の引き算、足し算をして幕引きとはね。
一素人が密教を完全否定しようと大上段に振りかざしたまでは良かったが、
こんなショボイ結末を迎えるとは、弘法大師も苦笑せざるを得まい。
[9]二一、「『あるいはまた、尊敬すべき沙門であり婆羅門であり、信によって与えられた食を食べている人たちの
なかには、四肢の相による占い、前兆による占い、自然現象の異変による占い、夢判断、人相の占い、ネズミの噛み
あとによる占い、火の護摩、杓子を用いる護摩、籾殻の護摩、糠の護摩、米の護摩、酢の護摩、胡麻油の護摩、口の
護摩、血の護摩、四肢を見て呪文を唱える運勢判断、土地を見て呪文を唱える地相判断、耕作地を見て呪文を唱える
地相判断、墓地の呪文、悪霊払いの呪文、土地の呪文、毒蛇に噛まれたときの呪文、毒を消す呪文、蠍に刺されたと
きの呪文、ネズミに噛まれたときの呪文、鳥の鳴き声による運勢判断、烏の鳴き声による運勢判断、寿命の予言、矢
に当たらない呪文、鳥獣の鳴き声による運勢判断という、このような無益な呪術によってよこしまな生活を営んでい
る人たちもいる。沙門のゴータマはこのような無益な呪術から離れている』と、比丘たちよ、凡夫が如来を賞賛して
語るとき、このように語るであろう。」
(「原始仏典 1巻」春秋社、12頁)
このように釈尊は比丘たちに全面的にあらゆる護摩を禁止した。
護摩を「避けるべき邪悪な生活手段」としている。
この禁止は変えても良いような小さな戒ではなく、変えてはならない大きな戒の一つです。
釈迦仏教で護摩が禁止であることはあまりに明瞭で、議論の余地がない。
釈迦仏教で龍王とは蛇であることはあまりに明瞭で、議論の余地がない。
ペテン大作さん、一来補さん、宝生さんような人は放置して、
他の信者さんたちだけでもこの明瞭な事実をまず受け入れてはどうか。
釈尊は護摩を禁止したのです。
>しつこいから返事します。
>あなたと違い、私は書くとは言っていない。
いいえ、書くと言いました。
嘘をつかないでくださいね、砂場教授殿。
↓
504 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/01/29(金) 12:02:58.79 ID:zTswwXzG
>>498 :神も仏も名無しさん:2016/01/29(金) 01:04:42.80 ID:kq3zmHeO
>個人情報なんて自分で書いたこともないし、あなたに書かれたこともない。
>あなたが何を言ってるのか全然わかりません。
私が、ペテン大作さんが書きこんだ個人情報だと思っている内容は
あなたのものではないから、もう一度ここに公開してもかまわないのですね?
私以外は私ではないのだから、ペテン大作さん以外はペテン大作さんではない。
あなたは自分の情報ではないというし、その個人情報は本人が
ネットに書き込んだものであり、私はその個人情報を書き込んだ人の
同意を取っているから、再度ここに掲載しても問題はないはずです。
なにせそれはペテン大作さんの情報ではないから、あなたは気にならないはずだ。
もっとも、あなたは気にしなくても、読者はそれをペテン大作さんの
個人情報だと勘違いして読むかもしれない。
ペテン大作さんの人間関係や個人環境とはこのようなものだと
誤解するかもしれませんが、しょせん、あなたの話ではないのだから、
気にすることはありません。
護摩はどうして禁止なのか?
信者さんたちの多くは答えることができないし、できないからこそ
アゴン宗にいられる。
この答がわからない人は仏教を理解していないからです。
信者さんたちは仏教を理解していない。
答は簡単で、煩悩を増やすからです。
これを理解してしまえば、禁止などされなくても護摩は焚かない。
だから、護摩を焚いていたカッサパはそれを捨てた理由を尋ねられて、
次のように答えています。
「祭祀は、色かたちも音声も味も欲望も女も語ります。
こうしたものは汚れであると、〔輪廻的な生存に結びつける制約である〕執著について
知り、それゆえに、祭祀をも供物をも楽しまなくなったのです」と。」
(『仏教かく始まりき』宮元啓一、春秋社、188-189頁)
護摩などの祭祀を行うことは「汚れ」、つまり煩悩を作り出し、
その結果、輪廻を引き起こすことになると理解したから、
護摩も供養も捨てたと答えています。
カッサパは護摩を禁止されたから捨てたのではなく、釈尊の教法を
理解したから捨てたのです。
阿含経の釈尊は直接的に、これをしろ、あれをするな、とは説かない。
質問されても、しばしば逆に質問する。
どうしてだと思いますか?
本人に考えさせ、本人に答えを出させるためです。
禁止事項をいくら並べても、他人からの禁止なら、抜け道を考える。
ペテン大作さんと一来補さんを見てごらんなさい。
彼らは禁止事項をいかに抜け出すかを必死に考えて、
ああでもない、こうでもないと意味不明の屁理屈を並べている。
こういう人にいくら禁止などしても無駄で、ネズミと同じで、
一つの穴をふさいでも、別な穴をあけるだけです。
>>134を読んで信者さんたちは意味が理解できますか?
何を書いているのかさっぱりわかりませんよね。
こういう井の中のウナギの解釈など必要がなく、>>133,>>135に引用した釈尊の
言葉を普通の日本語の読解力で読めばよいだけです。
本人が理解して納得するなら、禁止などされなくてもしません。
護摩が禁止だから、しないのではなく、仏教の目的である煩悩からの
解放に反する行為だから、しないのです。
私やユビキタスさんは護摩を拝まない。
それは禁止されているからと言うよりも、釈尊の教法を理解したからです。
理解すると言っても、難しい話ではなく、煩悩からの解放という
十歳の子供でもわかる内容を理解したからです。
だから、高度な瞑想を毎日何時間もしているという人が
護摩を擁護するのを見れば、十歳の子供でも理解できる仏教を
未だに理解できないでいるのがわかる。
その人が何時間瞑想しても、また高度な瞑想法であっても、
それは仏教とは関係のない瞑想なのは、中身を聞かなくてもわかる。
>いいえ、書くと言いました。
>嘘をつかないでくださいね、砂場教授殿。
相変わらず書いていない文章を読めて、書いてある文章が読めないのですね。
あなたが引用した文章の、どこに「書く」とありますか?
>>293 神も仏も名無しさん 2016/01/22(金) 00:27:02.15 ID:I/vQflyE
>深山さんの本名を書いてもいいですか?
>>308 :神も仏も名無しさん:2016/01/22(金) 13:29:17.06 ID:I/vQflyE
>深山さんの本名を書いてもいいですか?
あなたは、実名を書いてもいいですか、と私に質問したが、
私は、書いてもいいかなどと、書いていない。
自分がしたことを私がしたかのように勘違いしているようですね。
沢山の解脱を備える必要があるのです。
それが阿羅漢の条件です。
欲煩悩を無くすのが心解脱です。
無明を無くして知恵を備えるのが慧解脱だね。
禅定と知恵を備えるのが倶解脱です。
その内容は、慈、悲、喜、捨、の四心を備える必要もあって、それぞれ慈解脱、悲解脱、喜解脱、捨解脱と呼ばれます。
倶解脱では、四禅を体得せねばいけないし、
八解脱という禅定も体得せねばならないのですね。それが阿含仏教の阿羅漢の条件です。
そして、それらの解脱が完成した時に、解脱知見が備わるわけです。解脱知見は解脱成就の証明書みたいなものです。
煩悩解脱しか知らない深山ユビキタス先生にはびっくりぽんですか。
これらのことはすべて阿含経にありますよ。
>ふと自分を顧みたとき、慢心(煩悩)が知らず知らずに増幅していることに気が付いた。
128さんがこれまでのアゴン宗の修行で得られた唯一の、そして最大の成果が上記です。
128さんは何気なく気が付いたことを書いたのだろうが、
それが「仏教の入口」です。
あなたは目の前に仏教の入り口があることに気が付いた。
前から、いつもあったのだが、気が付かなった。
本当は、私があなたにそれが仏教のドアだと教えてしまうのは良くないのだが、
あなたにせっかくのチャンスを無駄にしてほしくないからです。
ここにいる擁護側には、そこにドアがあると十年にわたり何度教えても、
小馬鹿にしてみようともしない人が少なくとも三人いる。
ドアはいつもあるのだが、気が付くのは人生でそう何度もあることではない。
この三人のように、教えられてさえも一生気が付かないまま終わる人たちもいます。
だから、ドアに気が付いた今がチャンスです。
それに気づく機会をくれた奥さんは、ある意味で菩薩かもしれない。
このチャンスを大事にしてください。
>“釈尊は誰にでもわかり易く法を説いた”
>“釈尊の説法を理解するのに特別な能力は必要ない”
その通りですが、もう一つ付け加えることがある。深山さんなどこれまで何度も
示してきたことだが。
それは教条的に教えを説かないことです。
随機説法で喩え話などをよく使う。最初から断言して言い含めるのではなく、
相手に自分の頭で考えさせる。
このような釈尊の説法に対して後にアビダルマで教えの内容が体系整理された。
不要な煩瑣な考察までするものもあったが、今日の仏教はアビダルマあるがゆえに
整理して理解し易くなっている。学者の学説にしてもアビダルマを基にしている。
しかしそれに頼り過ぎると、あなたのように専門用語を駆使して教条的に語られないと
真意もつかめない。
だから経典を読む普通の国語力が必要なんです。
>これを理解するのにあなた方、砂場教授さんたちの高度wな国語の能力は必要ない。
>まして哲学など無用です。
高度な国語力など不要で普通の国語力です。
それから哲学とはあなたがイメージするような専門用語を駆使した特別な概念を
記憶しなければならないようなものを指してませんよ。
ギリシャ哲学のソクラテスやプラトンなどのあの議論です。
難しい言葉を使わずに展開される議論は日本人には十分訓練されていないとも思われます。
>そして、その高度な国語の能力をお持ちのはずのあなたが、私の単純な質問に答えられないのは何故か?
答えてますよ。経典も示して。その経典とは、サンユッタ・ニカーヤの私が引用し、
今回深山さんも引用してくれたあの部分だけで十分です。
あの中に書いてある。
外的なことによって清浄が得られると考える人は、実はそれによって浄らかさを得ることができない、
実はそれによって
実はそれによって
実はそれによって
実はそれによって
実はそれによって
つまり護摩で浄らかさが得られると考えたこと自体が、心を浄められない煩悩を増やしたのです。
もとからあった煩悩ではない。
>欲煩悩を無くすのが心解脱です。
>無明を無くして知恵を備えるのが慧解脱だね。
>禅定と知恵を備えるのが倶解脱です。
だから因縁解脱なんてないじゃん。
>しつこいから返事します。
>あなたと違い、私は書くとは言っていない。
>あなたがしたことをそのまましてあげただけです。
>また実際書きません。
>なぜなら、ペテン大作さんが普通の人と違い、激しい復讐心を持っていることを
>知っているからです。
>あなたは私の実名など知らないが、将来、私の名前がここに公表されるかもしれない。
>その時、大半の擁護側は私の名前を聞いてもわからないし、
>それ以上調べようともしない。
>だが、執念深く、逆恨みの復讐心の強烈なあなたは別です。
>何年でも探し続ける。
>私の住居などがわかれば、どんな嫌がらせをされるかわからない。
読者の方は彼のこの言葉が理解できますか?
私の個人情報を書くことと、砂場教授への嫌がらせがどういう関係なのでしょうか?
これは私の個人情報の中に砂場教授に関するデータが含まれているということですか。
教授は私と面識のある人物なのでしょうか。
>>139 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/02/23(火) 12:39:29.70 ID:WlD3vYBJ
>相変わらず書いていない文章を読めて、書いてある文章が読めないのですね。
>あなたが引用した文章の、どこに「書く」とありますか?
↓
504 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/01/29(金) 12:02:58.79 ID:zTswwXzG
>私が、ペテン大作さんが書きこんだ個人情報だと思っている内容は
>あなたのものではないから、もう一度ここに公開してもかまわないのですね?
スレッドで「公開する」ということは、ここに「書く」ことを意味します。
小学生でも理解できます。
>しつこいから返事します。
>あなたと違い、私は書くとは言っていない。
私の個人情報を公開することは、砂場教授、あなたの為なのです。
あなたが言うには、私が最近、あなたの実名をばらすと脅したのは、
10年前に私が個人情報をあなたに書かれたことの復讐なのだという。
だから、その個人情報とは何か書いてみろと言ったのです。
だから書きたくないのならそれでもよい。
その代わり、あなたがまたしても嘘を付いたことが読者に知られるだけです。
そして、“魔女狩り”はデマだったことが、これでより一層はっきりする。
487 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/01/28(木) 12:04:10.23 ID:sRKshGQ8
>>452 :神も仏も名無しさん:2016/01/27(水) 13:20:46.21 ID:jVTDF5Lp
>元信者であっても悪い奴を見つけたら放っては置けない。
ペテン大作さんが追及したいのは魔女狩りの件ではない。
十年前、あなたの個人情報を集められ、しかも、あなたの許可を取って
スレに書かれた時のショックへの復讐です。
この件ではあなたは自分が許可を出しているので追及できないから、
魔女狩りに置き換えて、そこをしつこく追及している。
江戸のカタキを「横浜」で討とうとしている。
信者でなかったなら、どうして魔女狩りの件をそんなに気にする必要があるのだ?
本音は十年前、あなたが大恥をかいたことへの逆恨みの復讐をしたいからですよね。
だから、あの時、私があなたの同意を取ったように、
あなたは私にわざと実名公開の許可を求めた。
私がやったのと同じ手法で復讐してやろうとしたのです。
桐山さんと同じで、本当に根性が悪い。
桐山さんと同じで、本当に執念深い。
しかも、私から簡単に見抜かれてしまい、失敗です。
威張り腐っているわりには、どうしてそんなにいつもドジなのだ?
ここでの彼の目的は相手を蹴落とし勝利宣言をすることでしかない。
いかにしてリング上から蹴落としてやろうかとそればかりを考えている。
目的さえ適えばどんな手でも平気で使う。
彼の十八番は相手の言葉尻をとらえて因縁を付け自分の都合のいいように解釈して攻撃することだ。
また学者の本や論文の文章を吟味もせず引き抜いてパッチワークのように繫ぎ水戸黄門の印籠の
ように権威付けに利用している。
真摯に向き合い知識を得て自分の肥しにしようという意識がないので、どんな情報を得ても相手を
蹴落とすための新たな道具にしかなっていない。
屁理屈述べているのはてめえも同じだろきちがい深山!
護摩が煩悩増やす?護摩の本義を理解していないアホの発言だな。
>ペテン大作さんにとってこのスレは格闘競技のリング上みたいなもんでしょう。
>ここでの彼の目的は相手を蹴落とし勝利宣言をすることでしかない。
まあ、そのように見えるのでしょうね。
でも批判側の中にもそういう人はいますよ。
彼等は勝利を宣言するとき何と言うかご存知ですか?
「あなたには国語の読解力が無い」と言うのです。
これは自分の主張は正しいと言っているも同然であり、
これこそ彼等の勝利宣言なのです。
覚えておいてくださいね。
>彼の十八番は相手の言葉尻をとらえて因縁を付け自分の都合のいいように解釈して攻撃することだ。
経典を都合のいいように解釈しているのは批判側です。
こちらはそれを一々指摘しているのです。
そうしないと、間違った情報が人に伝わったままになるからです。
>また学者の本や論文の文章を吟味もせず引き抜いてパッチワークのように繋ぎ水戸黄門の印籠の
>ように権威付けに利用している。
これについては、大いに異議があります。
吟味もせずとは、四禅の解釈の件のことを指しているのでしょうね。
だとすると、あれには吟味の余地などありません。
深山砂場教授は四禅の終わった段階で比丘(釈尊)の語る文言を「解脱」だと解釈した。
しかし、これ等について、学者たちは解脱とは違う解釈をしている。
ある学者はこれを「八等至を意味している」と説明し、
別の学者は「四禅に入ったことの表現」だとしている。
あなたは、これらの学者の言葉を吟味しろというのですか?
ではどのように吟味したら、これらの解釈が「解脱」に変わるのですか?
是非教えていただきたい。
>真摯に向き合い知識を得て自分の肥しにしようという意識がないので、どんな情報を得ても相手を
>蹴落とすための新たな道具にしかなっていない。
そんなことはありません。
四禅で解脱したという話を聞いて、私は真剣に本を漁り、
ついにそれが嘘であることを突き止めました。
このような知識を得ることができたのは、砂場教授の言葉を真摯に受け止めたからです。
結果的に、それが教授を蹴落とすことになったのは、誠に不幸なことでした。
この御仁が自説を消化したとはとても思えないのである。
衆生本来、仏なりの役立たずの高説で逃げるらしいね。
1 欲煩悩を無くした心解脱。
2 無明を無くして知恵を備える慧解脱。
3 禅定を備える倶解脱。
という三種の解脱が阿含経に説かれている。
この三種の解脱が備わるとどうなるのか?
それが悟りということで、釈尊が悟りを得た時に唱えた自説経ウダーナの、
「諸々の縁の滅尽を知れるがゆえなり」ということですね。
つまり十二因縁(縁起)の滅尽ということです
。桐山師はこれを因縁解脱=大解脱と呼んでいます。
煩悩解脱は備えるべき解脱の一つ、ということですね。阿含経ではそうなるのです。
深山ユビキタス説の解脱ならば、年越し派遣村で食べているホームレスの皆さんなど、沢山のブッダがいることになる。
「人生に望みなど何もありません。ただその日暮らしで死を待つばかりです。」
という方々も多いですよ。
この方々は欲もなく、解脱しているのですか?
深山ユビキタス説ならこの方々はブッダです。
阿含経ではこの方々はブッダではありません。
解脱知見の一つもないし、禅定も慧も備えていないからです。
もちろん因縁解脱もしていませんしね。
これについて中村元博士が『原始仏教の思想Ⅰ』(春秋社)の中で述べておられます。
『当時バラモンは火に供物をささげていたが、ゴータマ・ブッダは、それは無意味であるとして、
真の修行者に供養すべきであると教えている。
ここに、ゴータマ・ブッダの仲間を形成するにいたる第一歩が見られる』
(28頁)
火に供物をささげるのは「無意味」なのです。
あくまで「無意味」なのであって、煩悩を増やすのではありません。
そして火に供物をささげる代わりに、真の修行者に供養すべきであると教えたのです。
「完全な聖者・大仙人・煩悩の消滅した者・悪行による後悔することのない人、
この人に飲食物をもって奉仕せよ。それは、功徳を求める人の田となるからである。』
(31頁)
>>26まだ27宿の音訳当て字と思い込んでいるなんて腹が痛いね。
桐山の密教占星術Ⅰを読む限り27宿の音訳当て字にしか読めないのだが・・
違うのかぃ?違うんだったら何なんだ。
>私の住居などがわかれば、どんな嫌がらせをされるかわからない。
>あなたのこの十数年の言動を見て、執念深さと逆恨みの復讐心は良く知っています。
>>130 名前:深山 ◆lDoupiXSYZNC [] 投稿日:2016/02/23(火) 12:07:10.61 ID:WlD3vYBJ [2/9]
>だが、ペテン大作さんが私と会ったら、私の後を付けるようなタイプです。
あなたを安心させる意味で言っておきますが、
現実のあなたには何の興味も無いのでご安心を。
私が興味があるのはバーチャルの世界でのあなた(深山)であり、
そのあなたを十分に叩けばそれで満足です。
だから安心してこれからもドンドンバカなことを言い続けてください。
よろしくお願いします。
>お~い。「元信者」というハンドルネームの現信者と思われる人。
楽しそうだなあ 自分らより低能な信者を甚振ることに生涯を捧げる阿含宗低能批判者
ま、それしかできないのでそうするしかない。
カルトに依存してたが今は2ちゃん依存wwwどこまで行っても結局同じだなオマイらは。w
まさに、釈迦の小指まで飛んで喜んでる孫悟空か。
ま、彼はそれを悟ったけど 阿含宗低能批判者はぜんぜん悟ってないけどな。ww
>117 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR :2016/02/22(月) 23:26:47.00 ID:w+/3Qt4e
>時に、国太郎よ。
>あなたの指摘するように、この砂場で自分よりも理解の劣っている人に理解を
>得られなくても示す作業は多分に教授的になっているのも仕方ないことだ。
そりゃそうだろwwしかし阿含宗低能批判者の目的は、教授みたいになって調子に乗ることだからな。
実るほど 頭を垂れる 稲穂かな。 低能ほど教授振る。なぜなら教授になれないからだ。w
しかも砂場で教授になりたがるってwww ま、ここでしか活躍できないから、それはしょうがないよなあ。
少しは世のためになんかやろうっていう気がないのかねえ。
カルトとか2ちゃんに依存して一生を終わるという、哀しい人生ですなあ。wwwwww
> 釈尊が護摩を禁じた理由は、護摩が煩悩を増やすからではありません。
>『当時バラモンは火に供物をささげていたが、ゴータマ・ブッダは、それは無意味であるとして、
>真の修行者に供養すべきであると教えている。
>火に供物をささげるのは「無意味」なのです。
>あくまで「無意味」なのであって、煩悩を増やすのではありません。
>そして火に供物をささげる代わりに、真の修行者に供養すべきであると教えたのです。
あのね、これ中村解説書だけでなく経典の方を読むと文脈からよくわかるけど
テーマの視点が違うわけよ。
真に供養すべき、敬うべきは真の修行者だということを説きたくて
火の供養は比較だけに使われたのよ。
護摩の否定はこれだけでないのさ。
本当に否定しようと必死だねえ。
それは経典よりも手っ取り早く論文読んで、なんか否定材料はないかとそれだけの
目的と色眼鏡で探して、都合が良さそうと思った部分を都合よく狭く限定して解釈する。
おい国太郎よ、元信者ってのはお前のお仲間なんだろw
深山氏をつぶすためにワダに雇われたwww
お前よりアホだぞあいつは深山はアホだとか基地外とか小学生の悪口かよwww
>護摩の否定はこれだけでないのさ。
>>152の中村博士の文章は「火の供儀の否認」とあるから
護摩の否定についてはこちらも異論はないわけよ。
問題は否認した理由が「無意味だから」ということであって、
不浄とか煩悩が増すということではない。
そんなことは釈尊の言葉にはどこにも書かれていない。
学者だって同じ意見だろう(それとも探せばいるのかいな?)
阿含宗をやめた批判側の一部だけが主張しているだけなんだ。
これを希少価値というのか?
いいや、あなた方だけが行かれているとしか思えないの。
それより、今、あなたの後ろに生首みたいなのが浮いているのが見えたぞ。
後ろを振り返ってみろ。
「栞と紙魚子の生首事件」によると、公園で拾った生首を水槽で飼って
イトミミズを与えるとパクパク食うのだそうだぞw
かつての愛読書だろ?
昔は勇ましく議論した時期もあったんだけどね。
でももうやらない。
なぜなら勝てないし、論破されるのが判っているから。
もう狂人のように2ちゃんにしがみついて 砂場低能教授のつもりになっていくだけなのです。
このままで逝かせてあげるのがいいでしょう。(笑)
>467 :神も仏も名無しさん:2015/12/30(水) 14:39:37.43 ID:5dMlafcn
>>こんなんでワダから小遣いをもらってますw
だから幾ら貰っているのか書けと言うのになんで書けないんだ。 阿含宗低能批判者って何もできないんだな。
ま、元カルト信者だから、一般人ができることができないんだよな。www
しかも、工作員が教団に雇われてるかどうかって、教団の役員じゃなければ分からないよな。
ってことは、阿含宗低能批判者って、阿含宗に雇われているということか。
こんな低能を雇うって、阿含宗って懐が 深いなあ。wwwwwwwwwwwwwwwww
>438 :神も仏も名無しさん:2015/12/29(火) 00:05:28.59 ID:dJZeBAra
>猫殺しの国太郎は相変わらずコピペwww しょうもなっ(笑)
wwwwwwwwwww あの~なんで阿含宗低能批判者のためにオレが毎回ハッスル書き込み
しなきゃいけね~んだよw 気持ち悪いだろ?ww
コピペで我慢しろ低能カスども。wwwwwwwwwwwwww
え?我慢できない? ま、煩悩塗れのマスカキ辞められないあなた方なので、
それはしょうがないでしょう。www
>209 :神も仏も名無しさん:2014/04/27(日) 15:01:20.21 ID:Gi0miTp+
>答えられないで逃げている。流石はチキン(爆
>二択なのだから答えられるでしょ。それともノータリンだから答えられない?
日本人なのに、「アナタは中国人ですか、朝鮮人ですか、二択なのだから答えられるでしょ。それともノータリンだから答えられない? 」
って言われてもなあ。(笑)ただ呆れるだけでしょ。どうですか深山さん。w
無限に発達した道徳意識 なんて言う前に、普通の道徳心を持つべきです。w
深山 蝮蒸焼 http://portal.nifty.com/2008/04/14/b/2.htm
これを読んでわかることは、この表現は護摩を焚いて神に祈願して願い事を叶える
という側面については語られていないということです。
バラモンよ。木片を焼いたら願い事が叶うと考えるなとは書いていない。
だから護摩祈祷は否定されていない・・・などと、まさか思ったりしてはいないだろうか?
それって、供養し、敬う対象は火ではなく、真の修行者であり、火の供養は無意味である
と書いてあるから、煩悩の増大が理由ではないと主張しているペテン大作さんと
同じくらい愚かな話です。
護摩祈祷など最初から問題外です。
護摩は火を焚くことにより火神アグニを供養し、立ち昇った煙が天に届き
天の神が諸人の願い事をきいてくれるというオハナシです。馬鹿馬鹿しくて話にならない。
他の経典でも呪術・祈祷の類を禁止している。神などに依存することを否定して
自立を説いている。
だからたまたまこの文脈で護摩の祈祷面を否定していないから、護摩祈祷は禁止されていないと
解釈するのは、あまりにも馬鹿過ぎます。
この経典の文脈は、「浄らかさ」という側面に特化して焦点が当てられている。
火というものは神聖であるという信仰があった。カッサパの教団を見ればわかる。
この神聖な火で供養するならば穢れを焼いて浄らかさを得られると説いていた。
では、この穢れとは何かと言うと、実は煩悩ではない。
煩悩による心の穢れを提唱したのは釈尊です。バラモン教にはそもそもそんな発想すらない。
ではバラモン教が説いた穢れとは過去世からの穢れです。
つまり前世からの悪業の浄化を説いた。
しかし釈尊はこれを否定するにあたり、浄らかさとその対極である穢れについての
考えを改めた。それは煩悩としたのです。慢心とか怒りとか欲望とか。
護摩を焚いて過去世からの穢れが浄化したつもりになっても、バラモンたちは
「実はそれによって」煩悩を増大させて浄らかさ(心の清らかさ、煩悩がないこと)
を失っていると指摘したのです。まさに浄らかさの釈尊流の読み替えであり、
釈尊にはよくある説法の手法です。
しかし同時にこれは後世の密教の「仏の智火で煩悩を焼き尽くす」という仏教教義に合わせた
屁理屈をも否定したわけです。それは内容を読めばわかる。
こうしたものは汚れであると、〔輪廻的な生存に結びつける制約である〕執著について
知り、それゆえに、祭祀をも供物をも楽しまなくなったのです」と。」
(『仏教かく始まりき』宮元啓一、春秋社、188-189頁)
信者さんたちに着目してほしいのは、批判側にことごとく咬みつくペテン大作さんも、
護摩は禁止であることは認めている点です。
護摩禁止はもはや議論の余地がなく、この点は咬みつけないのです。
あれほど咬みつきたがるペテン大作さんも認めているということは、
護摩禁止を否定することは無理だという証拠のようなものです。
護摩禁止では咬みつけないから、彼のは護摩禁止の理由は煩悩を減らすこと
ではないと咬みついた・・・とにかく何がなんでも咬みつきたい。
だが、これは彼が仏教を理解していない証拠のようなものです。
信者さんたちも阿含経を読む時には、釈尊が「煩悩を減らせ、なくせ」と
説いているのだということをまず頭に入れることです。
「煩悩を減らせ、なくせ」しか説いていないと
いう目で読むと、阿含経がとてもよく理解できる。
釈尊は「煩悩を減らせ、なくせ」を説いたというと、一来補さんなどが
戒定慧や解脱、解脱知見の話を出して、煩悩だけではないと言っている。
相変わらずどこに目をつけて読んでいるのだろう。
戒定慧のすべては煩悩を減らしなくすための行為です。
解脱とは煩悩から解放された状態であり、解脱知見とは、自分は
煩悩から解放されたと自覚することです。
ごらんのように、釈迦仏教は煩悩からの解放しか説いていない。
禁止事項も同様です。
「煩悩を減らせ、なくせ」が目的なのだという目で読むと理解できます。
こうしたものは汚れであると、〔輪廻的な生存に結びつける制約である〕執著について
知り、それゆえに、祭祀をも供物をも楽しまなくなったのです」と。」
(『仏教かく始まりき』宮元啓一、春秋社、188-189頁)
なぜ仏教には戒律という禁止事項があるのでしょうか?
煩悩を減らし、なくすためです。
禁止された行為をすれば煩悩が増えてしまい、減らない。
護摩を禁止したのも、欲望や執着を増やすだけの呪術だからです。
信者さんたちは祈りとか祈願などという言葉に惑わされて、
まるで仏道修行のように錯覚しているが、護摩や護摩木祈願は欲望です。
百円の木切れ一本で世界平和をお願いするって、いくらなんでも欲張りすぎませんか?
百円を難民に寄付するなら世界平和に寄与したとも言えるが、
木切れを燃やし二酸化炭素を増やして、地球温暖化に拍車をかけて
それでどうして世界が平和になるのだ?
その独りよがりの行事のために増えた二酸化炭素で気候異変が起きて、
農作物の生産量が減り、飢餓や争いが起きる。
護摩は世界平和どころか、争いの種を増やしているのです。
こうしたものは汚れであると、〔輪廻的な生存に結びつける制約である〕執著について
知り、それゆえに、祭祀をも供物をも楽しまなくなったのです」と。」
(『仏教かく始まりき』宮元啓一、春秋社、188-189頁)
護摩など呪術はすべて欲望などの煩悩を煽り増やすから、
釈尊の説く「煩悩を減らせ、なくせ」に反する。
信者さんたちは>>137でも引用した上記のカッサパの言葉を良く読んでください。
ペテン大作さんみたいに個々の単語の解釈に憑りつくのではなく、
全体としてカッサパは何かを言っているかを、普通の国語力で理解しましょう。
カッサパは護摩という祭祀をしていた有力な宗教家です。
それをどうしてやめたか、釈尊に質問されて理由を述べている。
釈尊はそばで聞いているのだから、これが釈迦仏教での護摩禁止の理由です。
普通の国語力がある方なら、カッサパの述べている理由は、
護摩は煩悩を増やすから、であることが理解できるでしょう。
「汚れ」とは煩悩のことです。
護摩は、五感や性欲など様々な欲望を作り出し、
それらは輪廻を引き起こす要因となるから、捨てたと述べている。
護摩は解脱どころか、逆に輪廻を引き起こす要因になると述べているのです。
ペテン大作さんのように視野の狭い人の意味不明の解釈を読む必要はなく、
上記の、解脱者本人の述べている内容を読んで、あるがままに理解すれば良いだけです。
護摩は煩悩を増やし、輪廻の素を造っているのです。
こうしたものは汚れであると、〔輪廻的な生存に結びつける制約である〕執著について
知り、それゆえに、祭祀をも供物をも楽しまなくなったのです」と。」
(『仏教かく始まりき』宮元啓一、春秋社、188-189頁)
もう一つ信者さんたちに気が付いてほしいのは、禁止は護摩だけでなく
祭祀全部を含むという点です。
祭祀はすべて煩悩を増やすだけだから、釈迦仏教では禁止です。
信者さんたちが普段している勤行も祭祀の一つです。
護摩を焚かなくても、土地浄霊、屋敷浄霊などの祭祀も全部禁止です。
実際、経典にははっきりと土地浄霊が禁止であることが述べられています。
「また、修行者・バラモンたちのなかには信者からの布施を受けながら、次のような似非科学、間違った生活
手段、すなわち願をかけること、お祈りをすること、土の家で呪文を唱えること、鬼霊の呪術、精力を増すこと、精
力を減らすこと、地相を占うこと、土地を清めること、口を清めること、身体を清めること、犠牲をささげること、・・・」
(「原始仏典 1」春秋社、457ページ)
アゴン宗から祭祀を取り除いてみてください。
スカスカになり、ほとんど何もない。
なにせイベント宗教と揶揄されるくらいで、イベントとは祭祀ですから、
イベントのないアゴン宗などカラッポです。
逆に言うなら、アゴン宗は煩悩を増やす祭祀だらけなのです。
釈尊が「煩悩を減らせ、なくせ」と説いている時に、わざわざ煩悩を
増やす祭祀を行うことに信者さんたちは矛盾を感じませんか?
>>167 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/02/24(水) 12:19:33.52 ID:b69pwAAh
>護摩は煩悩を増やし、輪廻の素を造っているのです。
>>133 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/02/23(火) 12:15:54.60 ID:WlD3vYBJ
「バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。
それは単に外側に関することであるからである。
外的なことによって清浄が得られると考える人は、
実はそれによって浄らかさを得ることができない、
と真理に熟達した人々は語る。
バラモンよ。わたしは〔外的に〕木片を焼くことをやめて、
内面的にのみ光輝を燃焼させる。
永遠の火をともし、常に心を静かに統一していて、
敬わるべき人として、わたくしは清浄行を実践する。
バラモンよ。そなたの慢心は重荷である。
怒りは煙であり、虚言は灰である。
舌は木杓であり、心臓は〔供犠のための〕光炎の場所である。」
(「ブッダ悪魔との対話」中村元、p.147)
>>167 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/02/24(水) 12:19:33.52 ID:b69pwAAh
>護摩は煩悩を増やし、輪廻の素を造っているのです。
「外的なことによって清浄が得られると考える人は、実はそれによって浄らかさを得ることができない」
(「ブッダ悪魔との対話」中村元、p.147)
この文章は、中村博士の書いた別の本にはこう書かれています。
「外的なことによって清浄になれると考える人は、じつはそれによっては清らかになることができない」
(「原始仏教の思想Ⅰ」(中村元、春秋社、32頁)
上の二つの文章は似ているようで、内容はまったく違います。
最初の「ブッダ悪魔との対話」は、「それによって浄らかさを得ることができない」であり、
これは、「外的なことによって清浄が得られると考えること」は浄らかさを得られない原因・理由になります。
しかし、二番目の「原始仏教の思想Ⅰ」は、「それによって は 清らかになることができない」であり、
「外的なことによって清浄になれると考える」という手段・方法では、「清らかになることができない」という意味になります。
つまり「外的なことによって清浄になれると考える」ことは「清らかになること」にとって無関係・無意味なのです。
ですから、バラモン教徒の火の崇拝に対して、
「ゴータマ・ブッダは、それを頭ごなしに否定することなしに、むしろ真実の<火の崇拝>
は精神的内面的なものでなければならぬ、と説き教えた。」(「原始仏教の思想Ⅰ」(中村元、春秋社、33頁)
となるわけです。
外的なことによって清浄になれると考えることは、清らかになることにとって無関係であり無意味だからこそ、
頭ごなしに否定しなかったのです。
「外的なことによって清浄になれると考えること」=護摩を焚くことは、不浄・煩悩を増やす等という
批判側の主張は荒唐無稽の妄想であり、真言密教や阿含宗に対する中傷に過ぎぬことは明らかです。
504 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/01/29(金) 12:02:58.79 ID:zTswwXzG
>>498 :神も仏も名無しさん:2016/01/29(金) 01:04:42.80 ID:kq3zmHeO
>個人情報なんて自分で書いたこともないし、あなたに書かれたこともない。
>あなたが何を言ってるのか全然わかりません。
私が、ペテン大作さんが書きこんだ個人情報だと思っている内容は
あなたのものではないから、もう一度ここに公開してもかまわないのですね?
私以外は私ではないのだから、ペテン大作さん以外はペテン大作さんではない。
あなたは自分の情報ではないというし、その個人情報は本人が
ネットに書き込んだものであり、私はその個人情報を書き込んだ人の
同意を取っているから、再度ここに掲載しても問題はないはずです。
なにせそれはペテン大作さんの情報ではないから、あなたは気にならないはずだ。
もっとも、あなたは気にしなくても、読者はそれをペテン大作さんの
個人情報だと勘違いして読むかもしれない。
ペテン大作さんの人間関係や個人環境とはこのようなものだと
誤解するかもしれませんが、しょせん、あなたの話ではないのだから、
気にすることはありません。
↓
512 :神も仏も名無しさん:2016/01/29(金) 12:49:11.97 ID:kq3zmHeO
>>504 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/01/29(金) 12:02:58.79 ID:zTswwXzG
>私が、ペテン大作さんが書きこんだ個人情報だと思っている内容は
>あなたのものではないから、もう一度ここに公開してもかまわないのですね?
だから公開しなさいと言ってるでしょう?
何をもったいぶっているのですか?
さあ、はよ、はよ。
↓
129 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/02/23(火) 12:02:22.95 ID:WlD3vYBJ
>>110 :神も仏も名無しさん:2016/02/22(月) 22:24:33.13 ID:WcRqnWqL
>私の個人情報を出すという話はどうなったのですか?
>あなたが出していいのかと打診したから、
>こちらからOKのサインを出したのに何故出さないのですか?
しつこいから返事します。
あなたと違い、私は書くとは言っていない。
あなたがしたことをそのまましてあげただけです。
また実際書きません。
なぜなら、ペテン大作さんが普通の人と違い、激しい復讐心を持っていることを
知っているからです。
あなたは私の実名など知らないが、将来、私の名前がここに公表されるかもしれない。
その時、大半の擁護側は私の名前を聞いてもわからないし、
それ以上調べようともしない。
だが、執念深く、逆恨みの復讐心の強烈なあなたは別です。
何年でも探し続ける。
私の住居などがわかれば、どんな嫌がらせをされるかわからない。
あなたのこの十数年の言動を見て、執念深さと逆恨みの復讐心は良く知っています。
文章は前後を理解せず、その文言や単語にだけ憑りつくように、
あなたは自分が為した悪事やミスはきれいに忘れて、
自分の不快感だけを記憶して、復讐するエゴイストです。
そういう性格は桐山さんとそっくりです。
と発想の転換をすれば、目からウロコが落ちて真実が見えて来るだろう。
例えば、四禅を考えてみなさい。
欲を離れ、覚観伴い喜楽生じて初禅に入る。
欲煩悩を離れて喜楽生じて初禅です。
覚観捨てて信が生じて禅定から喜楽生じて第二禅です。
更に進んで喜楽捨てて心が清浄になり、不動に安住して第四禅です。
煩悩を無くすだけならば、第四禅で完成です。
心が清浄になり不動に安住するのが第四禅ですから、煩悩を抱えていたら清浄のここまで来られません。
しかし、釈尊の教えはここで終わりません。
ここから八解脱の最終的な禅定に入るのです。
第四禅以降は、神変境界に入ることが阿含経に書かれています。だから第四禅以降はアナゴンからの瞑想になりますね。
この禅定によって業が断ち切られて、輪廻解脱
が完成されるわけですね。
それが解脱です。
12縁起からの解脱です。
釈尊は、諸々の縁の滅尽を知れる、と唱えたのです。
この禅定の完成を倶解脱と言います。
煩悩解脱ではありません。
からと言って同一と見てはいけない。
(キリスト教の旧約聖書の物語、カインとアベルにある、供物を火で焼き
我が禱る神に届けるという思想とほぼ同一ともみられる。
この行事は相当に古い歴史を持つ祭祀方法なのだろう。)
其れは全く以って浅略的な見解である。と弘法大師が弟子に伝えている。
真言密教の護摩法は先に心中に火炉を建立し、次いで内護摩観を成就し、
事相に於いてはその具体的な
表現方法を火界定その者の護摩供養法成就に取り掛かるのである。
護摩供養の前に不動明王供養法を実修する習わしがその順序を示すのだ。
この内容は大昔に論じつくされていて今更の話題である。
材料が似ているという悪口、攻撃材料である。
判らねど祈る仏は何なのでしょうねぇ?
桐山師の事は桐山師に任せて己の途を歩み、悟る
方が世間を裨益するでしょうがねぇ。其れが出来ないから攻撃する
ってのは形を変えた愚痴の表れですってさ。
禅定の完成が俱解脱、か。
それが、諸々の縁の滅尽を知れる、か。
それは、知っただけである。それは解脱ではない。両者を混同することなかれ。
同辞典で「煩悩」の語を引いてご覧なさい。
「煩悩」→「・・煩悩の束縛を脱して真実の認識を得ることが大乗仏教の求めるさとりにほかならない」と書いてあります。
ね、わざわざ「大乗仏教のさとり」と書いてあるでしょう。学者先生は原始仏教(阿含)のさとりと大乗仏教のさとりの違いを知っているのです。だから煩悩の束縛を脱っすることを大乗仏教のさとりと書いているのです。
阿含仏教のさとりは、煩悩を脱っするだけでは不十分なのです。12因縁を脱する=輪廻を脱っすることを付け加えないと阿含仏教のさとりにはならないわけです。
これを知らないのは深山ユビキタス先生だけです。
だから、桐山の因縁切れていないのは何故なんだ?
>あのね、深山ユビキタス先生のために解説したような文章が岩波仏教辞典にありますよ。
>同辞典で「煩悩」の語を引いてご覧なさい。
自分の無知や愚かさを棚に上げて「あのね」などと説教を始める。
一来補さんには、本当に、ため息が出ますね。
一つ目は、すでに二度ほどあなたに助言しているが、新しい岩波仏教辞典を買いなさい。
あなたが持っているのは第一版で、だいぶん前に第二版になった。
あなたみたいに無知を丸出しにして、メチャクチャな読み方をする人も
いるから、内容がかなり修正されている。
あなたがケチでシミッタレなのはわかるが、引用するなら第二版からにしてください。
あなたが引用した文章は、第二版では以下のようになっています。
岩波仏教辞典の「煩悩」の説明
「大乗仏教
このように,多くの煩悩を数え,それらを断ずることによって輪廻から
解放されようとするのが,初期仏教以来の仏教の基本的立場であったが,
大乗仏教になると,煩悩を実体視して迷いの世界と悟りの世界とを
峻別する考え方そのものが空(くう)の立場から問い直されるようになり,
<煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)><生死即涅槃(しょうじそくねはん)>
などの考え方が前面に打ち出されるようになった.」
解放されようとするのが,初期仏教以来の仏教の基本的立場であったが」
(岩波仏教辞典)
この一文が読めますよね?
煩悩を断じることが釈迦仏教と部派仏教以来の基本的な立場だったとあります。
釈迦仏教では煩悩を断じることであり、部派仏教も煩悩を断じることなのです。
どこに因縁解脱とあるのだ?
どこに縁起解脱とあるのだ?
そこで二つ目は、釈迦仏教だろうが、大乗仏教だろうが、解脱とは例外なく
漏尽解脱(煩悩解脱)のことです。
煩悩を断ち切ることです。
これは仏教の大前提であり、日本仏教も例外ではない。
解脱とは漏尽解脱(煩悩解脱)であり、煩悩からの解放です。
他にない。
だから、第一版に書かれた、あなたが引用した文章も別に間違いではない。
大乗仏教も煩悩からの解放こそが解脱です。
こんな簡単なこともわからない石頭なら、次の一文を手書きして、
百万回唱えたらどうか。
(『岩波仏教辞典』)
これほど明瞭に仏教の解脱が定義されているのに、
十数年前から繰り返し示しても、一来補さんは絶対に受け入れない。
驚くべき頑迷さで、因縁解脱だと言い続けている。
さすがは桐山畜生クラスの因縁を持っているだけのことがあり、
道理どころか、目の前の現実さえも受け入れない。
偽仏教の大乗仏教も解脱は漏尽解脱です。
腐りきった日本仏教でさえも解脱は漏尽解脱です。
釈迦仏教から川下の変質した仏教まで、解脱とはことごとく漏尽解脱、
煩悩からの解放です。
唯一、日本のオカルト教団のアゴン宗だけが、漏尽解脱を
小解脱と罵り、因縁解脱を大解脱だと自慢している。
解脱の定義が違うのはたった一つ、アゴン宗だけです。
そして、解脱の定義の違う宗教を仏教では外道と言います。
だから、アゴン宗は外道です。
アゴン宗こそが「外道凡夫の数」です。
(『岩波仏教辞典』)
一来補さんはペテン大作さんをごらんなさい。
彼は批判側、特に深山は大嫌いで、私が右と言えば左、
ユビキタスさんが上と言えば下というくらいに、何でも反対です。
とにかく吠えて吠えて、憎しみで目をテラテラしながら咬みつくのが彼の習性です。
その彼が、仏教の解脱を漏尽解脱だと認めているのですよ。
批判側は漏尽解脱だと言ったら、彼の習性なら、これに反対して、
意味不明の屁理屈と小理屈を何年でも並べるはずなのに、
漏尽解脱だと認めている。
ペテン大作さんはこのスレを読んで漏尽解脱知って、それから調べて
確認したのに、最初から知っているかのような顔をするのは彼の常です。
一来補さんよりもよほど屁理屈と小理屈が好きなペテン大作さんでも、
因縁解脱については擁護できないと理解したのです。
因縁解脱など主張したら、議論に負けることを知っているから、彼は出さない。
この点では、一来補さんよりも知性が働いていると言える。
この十数年、一来補さんはずっと因縁解脱を擁護するために
岩波仏教辞典を出して曲解してみせ、自説経を出して、
「縁の滅」を「縁起の滅」と言い換えて、嘘を書き続けている。
ペテン大作さんでさえもしない如来の教義の捻じ曲げをずっと繰り返して
いたら、その報いはただでは済まない。
>>19でもう十分に畜生界逝きのキップを手にいれているのに、
さらに下に行きたいらしい。
>第四禅以降は、神変境界に入ることが阿含経に書かれています。だから第四禅以降はアナゴンからの瞑想になりますね。
>この禅定によって業が断ち切られて、輪廻解脱
>が完成されるわけですね。
>それが解脱です。
スマナサーラさんも同意見です。
↓
阿含宗という宗教195
44 :神も仏も名無しさん:2011/02/13(日) 14:18:43 ID:PweGcPUb
『禅定が壊れないまま死を迎えられた修行者は、梵天に生まれ変わります。
そこでは気が狂うほど長い時間、喜悦感のみに溢れた存在となりますが、
そのエネルギーが消えれば、やはりまた輪廻転生の世界に戻るのです。
ですから、サマーディ瞑想で禅定に達した修行者は、
輪廻転生を乗り越えて解脱に達するために、
智慧の開発に挑戦する観察瞑想に入るのです。』
( 『沙門果経』 278頁 、アルボムッレ・スマナサーラ、サンガ)
>しかしそれに頼り過ぎると、あなたのように専門用語を駆使して教条的に語られないと
>真意もつかめない。
>だから経典を読む普通の国語力が必要なんです。
>>147 :神も仏も名無しさん:2016/02/23(火) 14:44:53.09 ID:SOWEbRL7
>彼の十八番は相手の言葉尻をとらえて因縁を付け自分の都合のいいように解釈して攻撃することだ。
>また学者の本や論文の文章を吟味もせず引き抜いてパッチワークのように繫ぎ水戸黄門の印籠の
>ように権威付けに利用している。
これなんか、正にそれだなw
↓
>>180 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/02/24(水) 21:13:35.67 ID:b69pwAAh
解脱「仏教では煩悩から解放されて自由な心涯になることをいう。」
(『岩波仏教辞典』)
こりゃ死ぬまで行くなw
深山Tシャツ http://l2.upup.be/kBhea49WcX
岩波仏教辞典が半分しか見えていない。
岩波仏教辞典の解脱の項目には、
1煩悩から解放されて自由な心境になること。
とあるが、その次には、
2、インドでは輪廻からの解脱を意味する。
と書いてあります。
わたくしの目には、解脱の意味が煩悩からの解放と輪廻からの解放と二つの説明が書いてあるのが見えます。
が、深山先生には半分しか見えないらしい。
だからいつも煩悩から解放の、不完全説明しか
出来ないのであろう。
インドでは輪廻からの解脱を意味する、
とも書いてあります。
そして釈尊はインドの人ですから、釈尊の解脱の意味は、輪廻からの解脱を意味することは、当たり前の話です。
深山先生の岩波仏教辞典には、輪廻からの解脱を意味することは書いてないのですか?
それならその仏教辞典は欠陥商品ですから、廃棄したほうがよろしい。
>「外的なことによって清浄が得られると考える人は、実はそれによって浄らかさを得ることができない」
>(「ブッダ悪魔との対話」中村元、p.147)
>この文章は、中村博士の書いた別の本にはこう書かれています。
>「外的なことによって清浄になれると考える人は、じつはそれによっては清らかになることができない」
>(「原始仏教の思想Ⅰ」(中村元、春秋社、32頁)
>上の二つの文章は似ているようで、内容はまったく違います。
読者の皆さんにペテン大作さんの言いたいことを通訳するとこういうことです。
要するに「実はそれによって」と「実はそれによっては」の「は」があるかないかの
違いですが、あるとないとでニュアンスが異なる。
「実はそれによって」だと浄らかさが得られないは、護摩によってかえって煩悩が生じて
離れないというニュアンスに読めます。しかしこれに「は」が入り、「実はそれによっては」になると
浄らかになる(煩悩のない状態になる、煩悩をなくす)手段・方法はそれでは
全く有効でない、外的なことと内的なこととが関係ないからであり、このニュアンスだと
護摩そのものによって新たな煩悩が増大するのではなく、それは増えも減りもせず、
効力を持たないというただそれだけに過ぎない。浄らかになれない(煩悩から離れられない)
というのは、それは護摩以前にその人が抱えていた煩悩が減らないというだけのことであり、
それを護摩が煩悩を増大させたなんて初耳の言語道断であり、真言密教とアゴン経に
対する中傷だというわけです。
私はアゴン宗以外の宗教は不必要には批判しませんが、必要あるならば
真言密教など遠慮容赦なく批判します。密教は仏教の最も堕落した形態と思想であり、
この指摘はアゴン宗批判の重要必須項目の一つだと思っている。
空海なんて天才なんて言われるが、多才な事業の才は認めるが、仏教者としては
普通にアタマの悪い馬鹿だろと思う。
まあそれはさておき中村訳や中村論文は護摩は煩悩を減らす手段として無効という
側面での読み方もある。それはそうなのですが、私は依然として、ペテン大作さんの
無害無益説をとらず有害無益説を主張する。
阿含経で説いていますね。
だから、つまりは造った業を無くさねば輪廻を無くすことは出来ないわけです。
そして業は、業を断つ知恵によって断てるのだ、と桐山師は説いていますね。
その業を断つ知恵は、禅定から生じるわけです。釈尊のいう知恵は、禅定から生じるのであって、深山先生みたいにいくら本の知識を集めても知恵は生じないのです。
釈尊の説く知恵とは力です。能力です。
禅定を修して知恵を得る、と釈尊は説いた。
深山先生には知恵がないので、おそらくは禅定などしたことがないのであろう。
知恵がないから、仏教辞典を読んでも阿含経を読んでも、その意味することを読み取る力がないわけです。
護摩に対して欲をかいてたら煩悩は増える、
清浄を祈れば煩悩は減る、それだけです。
釈尊は火の瞑想をしました。
>上の二つの文章は似ているようで、内容はまったく違います。
ペテン大作さんの説は例えるならば、小便解脱否定論です。
もちろん仮の話だが、インドに小便をすることによって身体内の不浄を出すことによって
人は浄らかになるという思想と実践があったとする。
これに対して釈尊が「小便を出せば浄らかさを得られると考えるな」と説いたとする。
これは明らかに排尿は身体にとっては必須の機能ではあっても、心の清らかさとは
何の関係もない。だから小便は煩悩解脱に無効だ。しかし小便が煩悩を増やす原因
になどはなりやしない。当たり前ですよね。心の問題に関しては小便は無害無益だ。
だから放尿禁止などという戒律はない。小便しないと命がもたない。
然るに護摩は仏教徒に対しては全面禁止なのです。
大いなる戒として禁じられている。(>>135)
単に無関係で無効で無害無益ならば、それは大戒にするだろうか。小戒止まりではないか?
無駄なことしてないで、時間はもっと有効なことに使おう。
仏教徒ではなくバラモンに対しては価値観の転換を説いた。内面に目を向けよです。
>ですから、バラモン教徒の火の崇拝に対して、
>「ゴータマ・ブッダは、それを頭ごなしに否定することなしに、むしろ真実の<火の崇拝>
>は精神的内面的なものでなければならぬ、と説き教えた。」(「原始仏教の思想Ⅰ」(中村元、春秋社、33頁)
>となるわけです。
護摩なんてやめちまえなんて言わずに、心の内面は変わらないのだから
内面を浄める努力に目を向けよとした。護摩を止めさせる拘束力なんて釈尊にない。
価値観の転換を促し自主性に委ねる。理解できれば護摩なんかに価値を置けなくなる。
護摩焚いてもいいけど、もうちょっと内面も変われ変われと念じながら焚いてちょーよ
なんてアホな諭しはしません。
釈尊の信念は護摩の否定であり、バラモンには価値観転換の諭し、仏教徒には
それも理解させた上での全面禁止です。
全面禁止は護摩自体が煩悩を生み出し、煩悩は一般人よりも増え、それは煩悩除去の
妨げになるのは当たり前のことです。
ということになっていると言えます。つまりペテン大作さんでも護摩は煩悩除去に
無効であることを認めざるを得なかった。
彼は深山さんや私に噛みつきさえできればそれが本望な人生なんだから。
そもそも今何で護摩の話になっているか整理しましょう。
前スレでは護摩の炎に現形せるムチャリンダ龍王の話がやはりペテン大作をきっかけに
再燃された。そして深山さんは護摩などという釈尊が否定禁止したものを
よりによって釈尊の阿含経の名においてこれを実践し、世に広めている事実は
いかなる悪業の報いがあるのだろうか?と警鐘を鳴らした。
これに対してペテン大作はそうとも言い切れませんぜと、ある学者の論文を示して
釈尊の真説は阿含経に限ったことではなさそうな可能性を示唆した。
だから我々批判側が釈尊の教えに反することを釈尊説であるかのごとく示すのは
悪業と言うが、それはわかったことではない。決まった話ではない。将来的には
立場は逆転するかもしれませんぜと書いた。
>>111 神も仏も名無しさん 2016/02/22(月) 22:31:29.90 ID:WcRqnWqL
>そうでもないんだよね、これ読むと。
>http://toyoda.tv/daijohibutsusetsu.matome.htm
ということなんだが、これを書いた月曜日ではなく日曜日のことです。同じものを貼った。
しかし私は言ってやった。将来的な可能性の範囲の限定できない一般論でなく
個別の論で学者の論文を示して、これも実は釈尊の真説に認められる可能性がある
と持って来なさいとした。いや、学説が示されてから持って来やがれとした。
しかし学説が固まる以前に護摩に関しては釈尊の真説だったと訂正されるはずがない。
なぜならば現在釈尊の真説とされている経典で護摩が全面禁止になっているからである。
護摩も認めるのが釈尊の真説に加えられることは有り得ない。矛盾するからです。
だから私は護摩を否定禁止する経典は単一ではないと書いた。
一例としてのサンユッタ・ニカーヤだけでないのです。
>>135がまさにそうです。あのあらゆる種類の護摩の禁止は長部経典にいくらでもある。
この長部経典の大戒記述はペテン大作さんの好きな沙門果経にもある。
だから将来的に護摩も否定されず、護摩すらも認めるのが釈尊の真説と変わる可能性を
考えるならば、その条件として、護摩を禁止した記述のある経典は、実は釈尊の
真説ではなかった。これは後からある悪意のある人たちによって捏造して加えられたものだ
ということが証明されねばならない。
つまり沙門果経などは実は釈尊の真説でなかったと証明されねばならない。
その上で密教経典などが実は釈尊の真説を含んでいたと公認されねばならない。
なかなか大変な課題ですね。
ペテン大作さん、他の学者の業績など待たず、あなたが大学や大学院に再入学して
仏教学をパーリ語も含めて習い、仏教学者になって新説を提唱してはどうか?
目的は一つ。深山攻撃のためです。
あなたのライフワークとしてどう?
> 見た目よりもお元気ですよ。
見た目よりも元気ということは、桐山さんは見た目にかなり衰えているのですね?
宝生さんから見ても、見た目に衰退しているように見えたのですね。
それは困ったことです。
120歳と本人が言っていたのだから、まだ25年も残っているのだから、道は長い。
ヨギ・バジアンさんの予言どおりに、「長生きを覚悟」してもらうしかない。
元気だという宝生さんの報告と違い、私の知り合いからの報告では
桐山さんの様子はあまり誉められたものではない。
ご本人の同意を取りましたので、以下にそのまま掲載します。
「会場の参拝壇は、人だらけ。始まりだけ満員。
それにしても10時30分開始とは。
それだけ護摩木が少ないのでしょう。
9時30分開始でも驚いていたが、10時30分でもまだ
始まっていなかった。
爺さんは輿に乗って登場。
しかし、身体が曲がっているために担架のようでした。
やがて願文を読み始めるのだが、途中、2度ほどフリーズして
法務部の若い坊さんが小声で読んであげているのが、
マイクに漏れていました。
もはや願文とはいえず、死にかけたというか、死にきれないというか
くたばり損なった老人が、うわごとのように
『ぐぉくぃがんハァ~、ふぉ~らえ~』とやっとのことで願文を終えました。
つづいて、点火。ここでエイッと九字を切るのだが、
『ふぇい』と屁をこいたような声でした。」
> 担いだ知人曰く、参道でしっかり指示をされるそうです。
どうして「参道」なのですか?
結界内であれこれ指示を出したというなら、元気だというのもわかる。
だが、参道で指示を出したということは、自分の乗る神輿などに
あれこれと文句を付ける、口うるさい老人だということですよね?
しっかりと指示を出したのではなく、うるさく身勝手な思い付きの
注文をしたということでしょう。
北朝鮮の書記長様は、ミサイルの専門家も驚くように指示を
次々と出して、ミサイル発射に成功したそうです。
だが、ミサイルのミの字も知らない書記が適切な指示など出せる
はずもなく、彼を持ち上げめるための、見え透いた嘘宣伝です。
麻原彰晃が退歩される時、オウムの信者たちは尊師様は
超能力で逃げてしまうと信じていたそうだ。
それと同じで、口うるさい老人のタワゴトを、狂信者たちは
桐山さんが素晴らしい指示を出したと信じ込む。
前に、老齢の桐山さんが滝場で指導した時、桐山さんの
肉体が素晴らしいと誉めた信者がいた。
糖尿病と脳梗塞でヨレヨレの桐山さんの肉体が素晴らしい??
信者たちの多くは、欲だらけの桐山さんを紫磨黄金の
オーラが出ている聖者だと信じている。
信者さんたちは、北朝鮮やオウムと自分は違うと自惚れているのだろうが、
よく自分の姿をみてごらんなさい。
そっくりです。
>>173 それにしても深山センセイの信仰される仏教?かは
> 判らねど祈る仏は何なのでしょうねぇ?
宝生センセはこれをジョークではなく、本気で質問しているのでしょう?
あなたの学習能力の低さにはいつも驚かされる。
釈迦仏教では仏とは祈る対象ではありません。
仏に限らず、釈迦仏教は祈らない。
祈りなど釈迦仏教には存在しないのです。
祈りも祈るための本尊も対象もありません。
これは私の宗教観や信仰ではなく、釈迦仏教についての「普通の知識」です。
あなたが密教オタクなのはよくわかったが、せめて学問的に客観的に
認められている釈迦仏教くらい知識として受け入れたらどうか。
少なくとも七年にわたり、私やユビキタスさんから釈迦仏教の
説明を受けたら、信仰しろと言っているのではないのだから、
知識として、それを受け入れたらどうですか。
無知も恥ずかしいが、無知の自覚のないあなたの姿は
見ていてものすごく恥ずかしいのです。
認めてしまった。
そんな無効で無意味な護摩を認める経典が釈尊の真説になろうか?
ところで、この辺で一来補さんの声が聞こえてきそうです。
あほが。釈尊は出家には護摩を禁じたが、在家には禁じていないのだとか。
これに反論しますと在家に対しても釈尊の教えることは同じです。
出家ほど厳しいか厳しくないかの違いだけです。
できれば在家も出家の戒律のいくつかは五戒だけでなく守って欲しい。
護摩などは他のバラモンが焚くものであれそれに関わって欲しくない。
それに出家には盆踊りに参加することを禁じても、在家が盆踊りに参加することまでは禁じない。
しかし出家の教団がわざわざ盆踊りを企画するだろうか?
出家が護摩を企画するだろうか?
ペテン大作さんは護摩に関しては、その有効性を説くことはできなくなったのです。
【阿含の星まつり】2016年第43回阿含の星まつり大導師桐山靖雄願文
https://www.youtube.com/watch?v=CEG7Saa93m4
.
>拝火外道の祭祀と仏教徒の阿闍梨が行う護摩供養法は、外形が相似している
>からと言って同一と見てはいけない。
また宝生さんのタワゴトが始まった。
あなたの書いたことは真言宗の護摩の言い訳ですよね?
ここはアゴン宗の議論をしているのです。
あなたはアゴン宗の護摩の立ち位置を知らないから、真言宗の護摩を
擁護したら、アゴン宗を蹴飛ばすことになることのを知らない。
桐山さんにとって真言宗は敵であることくらい理解したらどうか。
嫌いな相手の護摩と同じだと言われて、桐山さんが喜ぶと思いますか。
あなたのしていることはヒイキの引き倒しです。
桐山さんは真言宗の護摩はダメだと批判しているのです。
真言宗の護摩には成仏ホウ、成仏リキがないからダメなのです。
アゴン宗は護摩の様式を取り入れただけです。
だから、アゴン宗の護摩を擁護したければ、
あなたみたいに真言宗の護摩を擁護するのではなく、
真言宗の護摩を批判し、あれは空っぽな様式だけであり、
アゴン宗の護摩こそがオシャカの成仏ホウの護摩だと主張しなければならない。
これが正しいアゴン宗の教義です。
わかりましたか・・・もちろん、宝生さんには理解できないでしょうけど。
[9]二一、「『あるいはまた、尊敬すべき沙門であり婆羅門であり、信によって与えられた食を食べている人たちの
なかには、四肢の相による占い、前兆による占い、自然現象の異変による占い、夢判断、人相の占い、ネズミの噛み
あとによる占い、火の護摩、杓子を用いる護摩、籾殻の護摩、糠の護摩、米の護摩、酢の護摩、胡麻油の護摩、口の
護摩、血の護摩、四肢を見て呪文を唱える運勢判断、土地を見て呪文を唱える地相判断、耕作地を見て呪文を唱える
地相判断、墓地の呪文、悪霊払いの呪文、土地の呪文、毒蛇に噛まれたときの呪文、毒を消す呪文、蠍に刺されたと
きの呪文、ネズミに噛まれたときの呪文、鳥の鳴き声による運勢判断、烏の鳴き声による運勢判断、寿命の予言、矢
に当たらない呪文、鳥獣の鳴き声による運勢判断という、このような無益な呪術によってよこしまな生活を営んでい
る人たちもいる。沙門のゴータマはこのような無益な呪術から離れている』と、比丘たちよ、凡夫が如来を賞賛して
語るとき、このように語るであろう。」
(「原始仏典 1巻」春秋社、12頁)
>拝火外道の祭祀と仏教徒の阿闍梨が行う護摩供養法は、外形が相似している
>からと言って同一と見てはいけない。
同じ護摩でも中身が違う!と信者さんたちも言いたいのでしょう。
だが、>>201のように、中身がどうあれ、釈尊は護摩を全面禁止したのです。
わざわざ○○の護摩と羅列されているのを見ればわかるように、
釈迦仏教には焚いても良い護摩なんてありません。
信者さんたちにお聞きするが、中身が違うというから、その中身とは何ですか?
と質問されても答えられない信者さんたちが多いのは残念です。
アゴン宗の答えは、仏の智慧で煩悩と悪因縁(業)を焼くつくす、です。
だから、不成仏霊も成仏させ、霊障のカルマも断ち切ることができる。
仏の智慧とは、普通の意味での知性ではなく、カルマを断ち切るような
超能力のことです。
「そうだ、ただの火ではなく、仏の智慧の火なのだ」と納得されたでしょう。
では、次の質問です。
煩悩や悪因縁、霊障のカルマとは火で焼くことができる物質なのですね?
なぜなら、火はどんな材料を燃やしてもプラズマという高温の物質にすぎず、
それ自体には知性などない。
その火を使って、煩悩を切る?
煩悩とは心に内在していて、時に応じて、心や身体や言葉に出てくるものを指します。
それをどうやって火で消滅させるのだ?
火のエネルギーで増幅させて、というなら、火のエネルギーで
何を増幅させるのだ?
火で煩悩やカルマを切るなんて、支離滅裂で子供じみたオカルトです。
もちろん、釈尊はそんな阿呆なことは言っていないし、認めていない。
>拝火外道の祭祀と仏教徒の阿闍梨が行う護摩供養法は、外形が相似している
>からと言って同一と見てはいけない。
信者さんたちは、火がいろいろな物を焼いてしまうことから連想して、
火で煩悩や悪業を焼き尽くす、なんて言われると、なんとなく信じてしまっている。
だが、それって何の根拠もないただの連想ですよね?
原始的な、子供っぽい連想です。
信者さんたちに良く自覚してほしいのは、護摩の火で煩悩や悪因縁を
焼き尽くすかどうかなんて、信者さんたち自身は何も知らないという点です。
何も知らないのに、火が物を燃やすという現象から連想して、
同じことが起きているのだろうと、何かわかったかのように錯覚している。
信者さんたちに自分の無知を自覚してほしい。
犯罪者が「犯罪内容」と書いた木切れを焚き火で燃やしたら、
彼の罪は消えてなくなるのですか?
真言宗でもアゴン宗の護摩でもかまわないから、護摩で
「犯罪者の煩悩」「犯罪者の犯罪」「犯罪者の悪因縁」と書いて燃やしたら、
殺人という罪も、それを為した害心という煩悩も消えるのですか?
消えませんよね。
百年間、成仏ホウによる護摩を焚き続けても、ドラゴン型の龍神が乱舞していても、
犯罪者の犯罪という行為も、その報いも、煩悩も消えません。
でも、アゴン宗の護摩は、桐山さんよれば、煩悩、悪因縁、悪業を
焼き尽くす法だというのだから、消えることになるのですよ。
火で煩悩を焼く、火で行為の報いを焼く、火で死者を成仏させるなんて、
狂信と無知の産物でなくて、何なのだろう?
くり返すが、釈尊はそんなことは説いてもいないし、認めてもいない。
>拝火外道の祭祀と仏教徒の阿闍梨が行う護摩供養法は、外形が相似している
>からと言って同一と見てはいけない。
信者さんたちは自分がしていることを省みた時、
釈尊がなぜ護摩を禁止したか、理解できるはずです。
信者さんたちは、その禁止の理由を身をもって示している。
煩悩を火で焼くなんて、知性を疑われるような無知なことを信じている。
護摩などの呪術に染まると、狂信、つまり無明が増大するのです。
世間の一般人よりも欲望を増大させ、世間の一般人でさもえ
信じていないような荒唐無稽の話を信じて無明を増大させている。
煩悩を減らせ、なくせと説いた釈尊が、煩悩を増大させるような
護摩などの呪術を禁止したのは当たり前です。
そして、煩悩を減らすように心掛ける者は、禁止など
されなくても、呪術には手を染めない。
煩悩を護摩で焼き続けた人物が、桐山さんですよ。
糖尿病になってもまだ美食飽食を続けるほど食欲が強い。
八十才代で愛人がいたほど性欲が強い。
名誉教授など、あるが上にも欲しいという、大作さん並の名誉欲の強さ。
四半世紀たっても自分を批判した者への逆恨みをするほど憎しみが強い。
おばさん一人から批判されたくらいで、激昴して暴力を用いるほど怒りが強い。
この桐山さんのどこが煩悩を焼きつくしているのだ?
むしろ、普通の人よりも欲望も怒りも執着も強烈です。
>拝火外道の祭祀と仏教徒の阿闍梨が行う護摩供養法は、外形が相似している
>からと言って同一と見てはいけない。
成仏ホウの護摩で悪因縁を切ったなんていくら宣言しても、
密教食事件で薬事法違反で二十万円の罰金刑で、刑獄の因縁を出した。
E川さんを愛人にして、色情の因縁を出した。
あるいは彼女から裁判に訴えられて、逆恩の因縁を出した。
脳梗塞になり、脳障害の因縁を出した。
桐山さんは仏の智慧を体得して、成仏ホウで、
おれは死ぬまで護摩を焚くと、今でも星まつりに出ているのに、
煩悩も悪因縁もまるっきりキレテいない。
煩悩は焚火で切るものではなく、自分で減らし捨てるものです。
悪業の報いは焚火をいくら焚いても消えない。
必ず本人に戻ってくるというのが釈尊の教法です。
食欲という煩悩のままに美食飽食という悪業を為したから、糖尿病や
脳梗塞という報いが来た。
性欲という煩悩のままに若い女に手を出すという悪業を為したから、
週刊誌沙汰になり、大恥をかくという報いが来た。
アゴン宗の煩悩や悪業を切るという智慧の護摩とやらは、
何の役にも立たない、ただの焚火だということを、
桐山さん自らが証明しているのに、信者さんたちはどこを見ているのだ?
どんなに仰々しい作法をしても、巨大化しても、
何万人が拝もうが祈ろうが、焚火は焚火です。
優れた道具だ。
護摩の火に祈れば煩悩は減ると言っても、
他力本願の祈ることではない。
愚か者は祈るというと他力本願を連想する。
自力で煩悩を無くす精進を、常に想起すること、念ずること、それが自力本願の祈りだね。
禅定であっても、常に金や異性を想起していたら煩悩は増すのです。
禅定で却って煩悩が増す人も居る、深山ユビキタス先生のような人です。
彼らは何をやっても煩悩を増す道具にしてしまうわけです。
賢者は禅定だろうが護摩だろうが、清浄のための道具に出来るのです。
だから釈尊は火の瞑想をしました。
これは大偉業です。
食いしん坊やおしゃべりの因縁は愛嬌だから、
そういう因縁は切らなくてよいのです。
何でもかんでも好いから気に食わないので潰す!
そんな細かい器量では世界平和は実現しませんがな。
火の映像をアリアリと眼前に観じ、己が持つ恐怖に打ち勝つ。
その恐怖は実際には身に迫らぬ空しき幻の火炎である、是をとっくりと
観じる。是が火界定瞑想に第一段階。
この心得を以って不動明王の返し邪気払い九字を切るのである。
まちがっても、ヤタガラスや、アマテラス、大黒天、スサノオノをおまいり
してはいけません。たたりがあります。
自身の最期は、ゴマの修法中に往生したいとか仰っておられませんでしたか?
>これに対して釈尊が「小便を出せば浄らかさを得られると考えるな」と説いたとする。
>これは明らかに排尿は身体にとっては必須の機能ではあっても、心の清らかさとは
>何の関係もない。だから小便は煩悩解脱に無効だ。しかし小便が煩悩を増やす原因
>になどはなりやしない。当たり前ですよね。心の問題に関しては小便は無害無益だ。
実はこれも正確ではない。
この小便解脱、小便を出せば浄らかさが得られると本気で考える人があれば
その人は新たな煩悩を増やしてます。
煩悩は貪瞋痴の三毒ありますね。
痴というのは愚かな見当違いのことに価値を抱く煩悩です。だから見当違いは煩悩なんですよ。
心の浄らかさとは何の関係もない無関係・無意味な物を関連付けてしまったのは
見当違いの痴の煩悩に他ならない。
だから護摩と内的浄化を関連付けて考えたこと、しかも一度のみならず長く
そう信じて続けているということは、痴の煩悩を増やしてしまったことに他ならない。
煩悩にもいろいろあるのです。痴(無知)、慢心、依存、横着思考
(焚き火で内面浄化なんて都合がよい横着思考ではないか)などなど。
もともとが煩悩に覆われているところにさらに要らぬ煩悩を増やしてしまった。
これで浄らかさが得られるはずがない。
認識の誤謬とは煩悩なんです。
三結煩悩もまた認識の誤謬です。見当違いは煩悩そのものです。
見当違いをしたことはまた一つ煩悩を増やしたのです。
しかしそれは簡単に減らせます。認識の誤謬に気が付いてそのように考える思考方式を
捨てて護摩をやめればよい。それだけで一つ浄らかさを得たのです。
まだまだ心の汚れは感情面含めてしぶとく残るが、無知を克服したことは大きい。
だから木片を焼いたら浄らかさが得られると考える認識の誤謬、無知にして痴たる
煩悩を増やしたのです。
ただしそれは理解力と勇気があれば減らせます。
だ~か~ら~、その桐山が何故因縁が切れないんだ。と聞いているのだが。
なにを逃げてんだよ。
>ペテン大作さんは>>135には触れないようにしているのだろうか?
>この長部経典の大戒記述はペテン大作さんの好きな沙門果経にもある。
釈尊が護摩を禁じたことは原始仏典に出てくる話なのだから、それに異を唱えるつもりはありません。
そして、釈尊が禁じたことを密教が行うからといって、批判され否定されることも無いのです。
護摩を禁じたのは釈迦であり原始仏教です。
だが、仏教というのは釈迦仏教、原始仏教だけを指すのではありません。
大乗もまた仏教なのです。
その大乗の中の一流派が護摩を焚くからといって、それが釈迦仏教ではないという批判は受けようが、
では仏教ではないとまでは言えない。
釈尊は護摩を無意味だと解釈したが、大乗の一派はそこに意義を見出したのです。
護摩を焚くには焚くだけの意義があるから焚くのです。
しかし、ここでひとつ問題がある。
もし、護摩が批判側の言うような“煩悩を増やす”とか
”不浄を増す”類のものであったのなら、意義があろうはずがない。
こちらが“煩悩”に拘ったのはそういう理由からです。
そして、釈尊の言葉をよく見てみれば、批判側の言う“護摩は煩悩を増やす”は、
根も葉もない嘘であり、でっち上げであることが明らかになった。
これを証明しただけでも十分過ぎる成果だ。
護摩を禁止した記述のある経典は、実は釈尊の真説ではなかったことなどを証明するには及ばない。
“密教は釈尊が無意味だとした護摩に焚く意義を見出した”
これだけで十分です。
これでこそ、最後の大乗仏教に相応しい。
クラシック音楽の世界で言えば、リヒャルト・ワーグナーでしょうか。
>ペテン大作さんは>>135には触れないようにしているのだろうか?
>この長部経典の大戒記述はペテン大作さんの好きな沙門果経にもある。
それにしても批判側の仏教の理解は、宗教の枠から出てないね。
はっきりいって、君等はいつまで経っても万年青年のようだ。
護摩が煩悩を増やすから禁じたとは、恐れ入谷の鬼子母神だ。
釈尊が護摩を禁じた理由は色々あるのだろうが、私ならこう考える。
釈尊は、当時インドで支配的なバラモン教とは違う宗教を唱え始めた。
そのバラモン教の象徴は火の供養、すなわち護摩だった。
釈尊は自らが体得した教えをインド中に広めるにあたって、
バラモンの象徴である護摩を否定することで、
自分の教えはバラモンとは違うことを衆生に強く示す必要があった。
だから護摩を否定した。
「ゴータマ・ブッダはこういう火の行者たちの仲間から脱皮して、
新しい宗教運動を展開したのである。」
(「原始仏教の思想Ⅰ」中村元、春秋社、35頁)
仏教を、当時の社会の中で考えることも必要なんだよ。
“護摩は煩悩を増やす”などという妄想に捉われている人は、毎朝1000回、上の文章を唱えましょう。
たから温泉 深山 http://charan-onsen.jp/ooita/kokonoe_takara.html
(ユビキタス調査による)
家運衰退の因縁(キリチキャ)→昴宿
中途挫折の因縁(ロケイニ)→畢宿
運気不定浮沈の因縁(アラダラ)→参宿
肉親血縁相剋の因縁(フノウリバソ)→井宿
わが子の運気剋する因縁(ボツリマシラ)→嘴宿
逆恩の因縁(アシュビニ)→婁宿
夫の因縁剋する因縁(バラニ)→胃宿
夫婦縁障害の因縁(アジリシャ)→?
夫婦縁破れる因縁(フシャヤ)鬼宿
刑獄の因縁(ソバティ)→奎宿
目を失い手足を断つ肉体障害の因縁(シツリバダ)→女宿
横変死の因縁(アヌダラ)→房宿
脳障害の因縁(アビジャ)→牛宿
二重人格の因縁(ジエイシュタ)→心宿
ガンの因縁(シャタ)→壁宿
循環系統障害の因縁(ソテイ)→亢宿
色情の因縁(シュタラ)→角宿
偏業の因縁(ビシャキャ)→底宿
財運・水の因縁(アラタバテイリ)→?
頭領運の因縁(マギャ)→星宿
子縁うすい因縁(シツリヤシ)→?
産厄の因縁(セツタビシャ)→危宿
怨集の因縁(ボツロラ)→尾宿
の分類で、難しい漢字の星名をそれぞれに示されてますが、それは宿曜に説かれる
二十八宿のサンスクリット名を中国人が音訳して漢字を当てはめただけの名前があるのを
単に借用しただけであることを証明しました。
昨日国立国会図書館に行く機会がありましたので、森田龍せん氏の「密教占星法」を
その場で借りて該当箇所を調べたものです。
この森田龍せん氏の「密教占星法」は当初高野山大学出版部から昭和16年に出されたものです。
桐山さんの示した因縁を二十八宿の梵名を単にそのまま当てはめた元ネタは
この本にあると思われます。極めて専門的な限られたところでしか入手できないような
古い書籍ですから、桐山さんは誰にもバレないだろうと思ったのでしょう。
ところが1974年に臨川書店からこの本が、もともと上編、下編あったのをそのまま
一冊にまとめて復刻されました。ちなみに桐山さんが密教占星術1を出したのが
1973年ですから、当時密教界の鬼才とももてはやされてもいた桐山さんが密教占星術を
著したものだから、それにあやかって復刻されたのかもしれません。
そして1996年にさらに同じ復刻版が八幡書店から刊行されました。
そして熱心な人が読んで調べたところ、桐山因縁の難解な漢字名の元ネタは
この本にある二十八宿の梵名であることがわかってしまったのです。
ちなみにこの森田さんの密教占星法はかなり難解です。
難解というのは内容よりも、古い本ですから昭和16年のものであっても、ほとんど
漢文を読むような箇所に溢れています。
二十八宿の梵名と言っても桐山本みたいに「○○○星」とか星の表記なく○○○のみです。
対比は一つではなく文殊軌では○○○、別の儀軌では●●●とかいったごとしです。
梵字、かな読みも添えられています。よくぞこれを見つけたものだと思います。
私もまた事前にこういう情報を得ていたからこそ、そこだけ狙いをつけて探すことが
できたのです。桐山さんが示した23の悪因縁で「?」の3つだけがよくわかりませんでした。
また「これだろう」と思ったものの間違っているものもいくつかありません。
しかしピッタンコもかなり多いのです。
ご存知のとおり国会図書館の蔵書は館外に貸し出し不可ですので、その場で
出してもらい閲覧するしかないのですが、ノートに書き留めるにあたり
難しい漢字ばかりですので、完全にはメモできませんでした。
自宅に帰ってから桐山本と照合したわけでして。
二十八宿以外の星名もあるのかもしれませんが、かなりの比率でピッタンコそのものです。
笑えたのは1家運衰退の因縁と1昴宿、2中途挫折の因縁と2畢宿の順序の一致です。
つまり二十八宿からとったのです。
二十八宿とは季節による星座配置分類ですから、これが桐山因縁の星であるはずがありません。
家運衰退=昴宿、脳障害=牛宿のはずがありません。
ピッタリ一致しないかもしれないこと含めて、要はそれらしい星名を示せれば
なんでもよかったことがよくわかります。
桐山因縁の星なんて、このようにインチキ、デタラメの創作品です。
煩悩解脱は小解脱、業を断つ因縁解脱が大解脱
であることを桐山師が説いている。
全く仏教辞典に書かれていることと一致しています。
深山ユビキタス説は、仏教辞典に書いてあることの半分しか見えていないので半端説です。
煩悩解脱しか知らない大乗仏教のさとりです。
阿含仏教のさとりも大乗仏教のさとりも同じにしている深山ユビキタス説は、子供です。
業とは何か?
業→「輪廻をあらしめる力」「行為の余力」
「行為のみではなくて、行為の結果もたら される潜在的な力をもさす」
というような説明が、わたくしが持つ岩波仏教辞典には書いている。
だから、この業を断たねば輪廻は断てないことになる。
深山ユビキタス先生の持つ岩波仏教辞典には、
このような説明が書いていないようだ。
それだけならば心理学に収まってしまう。
輪廻を脱するという科学的に検証不可能なことが説かれて宗教になる。
キリスト教の神も天国も、検証不可能だから宗教になる。
宗教とはそういうものでしょう。
>業→「輪廻をあらしめる力」「行為の余力」
> 「行為のみではなくて、行為の結果もたら される潜在的な力をもさす」
>というような説明が、わたくしが持つ岩波仏教辞典には書いている。
ですから、岩波仏教辞典の第二版を買いなさい。
あなたが引用した文章はありません。
一来補さんのような勝手な解釈をする人がいるから、文章を大幅に直しているのです。
信者さんたちも業(カルマ)については大きな間違いをしている。
業を、運命を左右するような潜在的な力だと思っているが、
元々の仏教の業(カルマ)にはそんな意味はありません。
業とは行為のことです。
「カルマンkarman「行為」の訳。身・口・意による善悪の所行。
前世および今生におけるこれらの所行。」(『日本佛教語辞典』)
「造作の義。行為、所作、意志による身心の活動、意志による身心の生活を意味する。」(『総合佛教大辞典』363頁)
「原語の基本的意味は,<なすこと><なすもの><なす力>などで,<作用><行為><行為対象><祭祀>などを表す語としてインド思想一般で広く用いられた.」
(岩波仏教辞典)
まず信者さんたちに良く上記の仏教辞典の説明を読んでほしい。
仏教の業とは、身体を使った行為、しゃべるという行為、心に思うと
いう行為という三つからなる「行為」のことです。
「業=行為」「カルマ=行為」です。
桐山さんから教えられた業とはまるで意味が違う事に気が付いてください。
それは、カルマ(業・あるいは業力)による輪廻である。
すべてのものはカルマによって存在し、カルマによってはてしなく輪廻する。
これが宇宙の実相であると考える。このカルマを断たぬかぎり、す
べてのものははてしない輪廻をくりかえす。
ひとがつくり出す人為的な災害も、自然現象としてあらわれる天変地異の災害も、
すべてみな、このカルマによるものである。
仏教は、この、カルマを断ちカルマの輪廻からの脱出を教えるのである。
では、カルマとはなにか?
ものみながみずから具えるひとつのカである。
その力のゆえにそのものは存在し、さまざまな相をつくり出す。
だから、カルマとはすべてのものの存在原理であり、存在の根本動力である。」
(『一九九九年七の月よ、さらば!』131-132頁)
桐山さんは「仏教では・・」と説明しているが、真っ赤な嘘で、
仏教にはこんな業(カルマ)はありません。
>>223の仏教辞典の説明を読めばわかるように、身体と言葉と心(身口意)の
行為を業(カルマ)というのです。
私の言葉が信じられないなら、ご自身で仏教辞典でも、
専門家の解説を読んでみたらいい。
桐山さんのいう上記のような業(カルマ)なんて釈迦仏教どころか、
大乗仏教や日本仏教にさえもありません。
桐山さんの創作、空想です。
これを強調するのは、阿含経をせっかく読んでも、業(カルマ)の
意味を理解していないと、とんでもない意味にとってしまうからです。
その上で、釈尊が説いた重要なことは、行為には報いがあることです。
因果応報がそれで、輪廻を越えて報いがあるとした。
釈尊説「業(行為)→報い」
と説いた。
気を付けてほしいのは、業(カルマ)そのものには報いという意味はないことです。
後世の人たちがカルマに報いの意味も含めて使いだしたことは事実だが、
釈尊の教法やまともな仏教では、業とその報いは別物です。
桐山さんはこの考えにさらに空想でオカルトを作り出した。
桐山説「業(行為)→(潜在力)→報い」
桐山さんはこの潜在力をカルマであるとして、
これに「○○の因縁」と名付けて霊的な脅迫に使った。
つまり、桐山さんは悪因縁とは業であるとした。
だが、仏教の因縁とは縁起のことであり、縁起には
業(行為)などという意味も、潜在力などという意味もありません。
業の意味も間違っているし、因縁の意味も、縁起の意味も間違っている。
支離滅裂、メチャクチャ、デタラメです。
信者さんたちは桐山ゲイカは仏教を仏陀の智慧で理解し体得したなんて
思っているかもしれないが、こういう仏教の基本的な部分をみれば
わかるように、桐山さんは仏教をまるで理解していない。
理解できない部分を若い頃に読んだオカルト本や空想でつなぎ合わせて
作り上げたのがアゴン宗です。
桐山説「業(行為)→(潜在力)→報い」
上記の二つを比べた時、信者さんたちからは次のような意見が出るでしょう。
輪廻を越えて行為の報いが来るというなら、それを伝える潜在力が
あるのではないか、という意見です。
間違いだとはいいません。
だが、釈尊は潜在力については何も説いていない。
行為には輪廻を越えて報いがあると説いただけです。
信者さんたちに一つ受け入れてほしいのは、釈尊は、
自分が説いたことは説いたまま、説かないことは説かないままに
受け入れるように説いている。
だから、護摩が禁止だと言われたら、ペテン大作さんみたいに
屁理屈の百連発で悪業を為すのではなく、素直に受け入れることです。
同様に、釈尊は行為(業)と報いの間については何も説いていないのだから、
潜在力なんて勝手な空想は必要はない、と言うよりも、付け加えてはならない。
ましてや潜在力がカルマで、これが宇宙の存在原理だなんて
意味不明のオカルトは仏教ではありません。
>>224に引用した桐山さんの解説は、釈迦仏教どころか、偽仏教の大乗仏教や
腐った日本仏教にさえもないオカルト思想です。
・釈尊は、行為には輪廻を越えて報いがあると説いた。
まず信者さんたちにこの二点を理解してほしい。
最終的に桐山カルマを信じるのは信者さんたちの自由だが、
釈尊が説いたのは上記の二点のみだという事実と現実を受け入れることです。
そこで次です。
アゴン宗の問題は業の意味が違うというだけでは済みません。
解脱の中身について問題が出てくる。
「お釈迦さまはそのような時代に登場されて、
「業を消滅させ輪廻を脱し、二度と生まれ変わらない自由自在の身になりなさい」
と説かれたのである。」
(『輪廻転生瞑想法Ⅰ』88頁)
桐山さんは、解脱とは「業を消滅させ」ることだと述べている。
これは他の本でも繰り返し述べています。
信者さんたちに、桐山さんの文章の業に、仏教の業の意味をあてはめてほしい。
「行為を消滅させ」?
これいくら何でも変でしょう?
行為をしないというならまだわかるが、行為の消滅って何のこと?
日本語としての意味が通じません。
桐山さんの説明が仏教としては成り立っていないのです。
桐山さんのいう業とは仏教の業のことではなく、
桐山説「業(行為)→(潜在力)→報い」
の潜在力のことです。
「桐山カルマ=潜在力」です。
この目に見えない潜在力を切るのが解脱だと言っているのです。
桐山カルマ(潜在力)を断ち切ることで解脱するというのが桐山さんの主張です。
だが、すでに申し上げたように、釈尊は行為と報いとの間をつなぐ
潜在力については何一つ述べていない。
宇宙の存在原理としての桐山カルマなんて釈尊は説いていない。
だから、桐山カルマ(潜在力)を切るも切らないも、
そもそも釈尊は桐山カルマなど説いていないのです。
説いていない桐山カルマを消滅させて解脱すると釈尊が説くと思いますか?
たとえて言うなら、釈尊はAなどそもそも説いていないのですから、
釈尊が、解脱するためにAを消滅させろ、なんて説いたはずがないのです。
桐山さんの解脱の説明がそもそも成り立っていないのです。
一来補さんなど信者さんたちの多くが、未だに
釈尊が業を消滅させることが解脱だと述べたと信じ込んでいる。
だが、釈尊は桐山さんのいう業など説いたことはないのだから、
桐山さんのいう業解脱など説いたはずがないのです。
ここまでの私の説明を理解した上で、次の一来補さんの言葉を読んでみてください。
>だから、つまりは造った業を無くさねば輪廻を無くすことは出来ないわけです。
釈尊の説いた解脱の内容も定義もけっして難しいことではない。
だが、信者さんたちのように、桐山さんから間違った仏教概念を
植え付けられてしまうと、それを取り除くことは容易ではない。
一来補さんのように十年数年にわたり説明してもまだ理解できないのです。
そこで信者さんたちに釈尊の説いた解脱の説明をします。
まず普通の仏教で解脱とはどのように説明されているか、
信じなくてもいいから、理解をしてください。
釈尊は、業を無くすのではなく、煩悩を無くすことが解脱であり、
煩悩から解放されることで輪廻から脱出ができると説いたのです。
それまでの宗教家が誰も説かなかったことを初めて説いた。
煩悩からの解放が解脱であると誰も気が付かなった。
それまでのバラモンたちと違い、初めて説いた釈尊のオリジナルです。
釈尊のオリジナルは、
・煩悩からの解放が解脱である、
・煩悩からの解放によって輪廻からも脱出できる、
と説いたことです。
ところが、釈尊のオリジナルであり、仏教の教説の根本であるこのことを
桐山さんは小解脱と卑しめた。
釈尊の解脱を劣っていると小馬鹿にしたのです。
無知とは言え、本当に愚かな人です。
釈尊の解脱を卑しめる者が仏教を理解しているはずがなく、
ましてや解脱者であるはずがない。
(『岩波仏教辞典』)
信者さんたちは上記の一文を何度でも読み直してください。
文章としても、内容としても、難しい事はありません。
小学校を卒業できた日本人ならたいてい読んで理解できる内容です。
この文章のどこに桐山さんのいう業が出てくるのだろう?
桐山さんの解脱と定義がまるっきり違うのが信者さんたちもわかりますよね?
だが、上記が釈尊の説いた解脱です。
釈尊は行為によって生じる潜在力については何も説いていないし、
さらにはその行為の報いを避けることが出来るとも説いていない。
アゴン宗のいう因縁切りを否定しているのです。
アゴン宗では、前世での貪りという行為が潜在化して、
これが今生でガンという報いとなって現れるから、その前に潜在力である
ガンの因縁という桐山カルマを切ろうという考えです。
だが、釈尊は行為の報いは避けられないと繰り返し述べている。
それは如来など解脱者たちも例外ではありません。
アゴン宗のいう悪因縁(桐山業)は切れないと釈尊は否定しているのです。
つまり、桐山さんのいう業解脱もありえないと釈尊は述べているのです。
(『岩波仏教辞典』)
解脱するにはたった一つしか方法がないと釈尊は説いた。
それは桐山カルマを断ち切ることではなく、煩悩から解放されることです。
他はないと説いている。
煩悩からの解放こそが解脱なのです。
解脱とは煩悩から解放されることです。
煩悩から解放されれば、輪廻からも脱出するから、苦の世界から解脱する。
信者さんたが桐山さんから教えられている因縁解脱は釈迦仏教どころか、
仏教とさえもまったく関係のないオカルトです。
因縁解脱なんて桐山さんの造語なのだから、当たり前です。
信じるのは自由だが、当然ながら、仏教の解脱は得られないし、
信者さんたちは仏教の入口にさえも入っていません。
だから、アゴン宗は「外道凡夫の数」である、というのは
悪口でも何でもなく、単なる事実です。
外道の解脱を説き、外道の護摩を焚いているのだから、そのまんまです。
一来補さんへのレスも残しているな。
×また「これだろう」と思ったものの間違っているものもいくつかありません。
↓
○また「これだろう」と思ったものの間違っているものもいくつかあるかもしれません。
「護摩を焚いたら煩悩が増大する。」とのご意見に対して、
増大するとは書いていないではないか!
の議論がありましたが、これこそ無意味というものです。
願い事をして護摩を焚く人は、願い事が叶わなければ、
なぜ叶わないんだ?と、さらに高い護摩木を買う人が
なかにはいることでしょう。しかし、願い事は叶いません。
パチンコに負けて取り返そうとしてお金を注ぎ込んでしまうのと
同じように、もっと高い護摩木を買う人がいるかもしれません。
10万円の次は100万円というように。
これこそが「煩悩の増大」というべきものです。
阿含経に池に石を投げる話があります。
釈 尊「池に石を投げ込んだとする。すると石はどうなるか?」
司祭者「石は池の底に沈みます」
釈 尊「もし、あなた方が石よ浮かべ!浮かべ!と祈りをささげ、
護摩の火を焚いたら、石は浮かぶであろうか?」
司祭者「いいえ、石が水に浮かぶ道理はありません。」
釈 尊「そうであろう。みなさんが普段やっていることはこれと同じことである」
ここで、司祭者は釈尊の言いたいことを悟ったのでした。
仏教は物事の道理をわきまえることから始まります。(諦観だったかな?)
石は水に浮かぶ道理が無く、木も燃やして祈ったからと言って、
病気が治癒するものではないし、お金が入ってくることもない。
いろいろな天変地異の原因が科学的に解明されていないあの時代において、
釈尊は実に合理的で理性的な物事の見方をしていたと思います。
ところで、
阿含経はこういった釈尊の生の声が記録された貴重なものだと思っています。
いろいろなお経を漢文読み?でいくら唱えても、呪文にしか聞こえず、
理解できませんから無意味なことです。現代語訳されたものを読むべきです。
追い求めてしまう状態を「無明(むみょう)」というんだよなあ。
良い言葉と思います。
護摩の火を焚くことは、人々の煩悩を増大させることが
往々にしてある。
くらいの解釈でしょう。
病気の因縁あり、貨運衰退の因縁ありなどと脅かし
護摩法要に誘い込み、病気平癒、資金順調の護摩木を売りつけ
それらしい仏像をならべた騙し道場で祈りこむ。
連れ込まれた方々は、無心でご利益を拝み込む。
教団は金にむさぼりつき、参加者はご利益にむさぼりつく。
これが、煩悩云々、毒欲の増大そのもの・・・ちがいますか?
・・・これが現実でしょ。
仰られるとおりです。
釈尊の時代も現代も、凡人の心は同じですね。
それではいかんだろう。といったのが釈尊ですね。
辞典にはその次に、インドでは輪廻からの解脱を意味する、と書いてあるのにねw。
いかにインチキ人間であるがわかるねw。
さすがは御利益取引信仰をさんざんしたと公言するだけのことはあるね。レベルが低いのだ。
そういうレベルの低い信者はいずれ阿含宗から弾き出されるから心配はいらない。
バカはいずれどこかでカモにされるのだ。
煩悩なくして平安な心が悟りですか?
そんな子供でも言える教えが有り難いですか?
アホとちゃうか?
煩悩がないほうがええなんて、釈尊に言われなくても誰でも知っているがな、アホらしい。
誰でも無くしたい因縁の一つや二つはあるだろう。だから縁きり神社も存在するわけよね。
阿含仏教がその縁を切る法を教えるから有り難いのであって、煩悩無くすだけなら教えなどいらないね、あほらしい。
そんな低級な教えなど誰もが知っている。
誰でも知っているが、その煩悩のままにバカレス垂れ流しているのが深山ユビキタス先生だ。
桐山師に反対のための反対レスだな。
万年野党の反対のための反対論と同じだな。
新興宗教からのパクリなんだからwww
わかってないのは阿含宗に洗脳されていまだに解けずわめいている輩w
洗脳から解脱しろ!
輪廻からの解脱・・・阿含宗では輪廻から解脱できませんからwww
煩悩のまま騙された無知を流し続けているのは>239おまえだよw
>火は瞑想に入るための道具に過ぎない。
>優れた道具だ。
>護摩の火に祈れば煩悩は減ると言っても、
>他力本願の祈ることではない。
>愚か者は祈るというと他力本願を連想する。
>自力で煩悩を無くす精進を、常に想起すること、念ずること、それが自力本願の祈りだね。
いくつか論点あるが、まずは火の瞑想などとまた火界定を出すのだろうが、
火界定によって煩悩を滅尽するなんてことが経典のどこに書かれているのか?
私はそんな話を阿含経で読んだことがない。あるのなら示して欲しい。
あなたはスマナサーラ師のテーラワーダ仏教協会で実践されているヴィパッサナー
などもあれはあれで面白いとか書いていたことがある。しかしあの実践はスマナサーラ師の
独創など一つもなく、あれは経典に書かれていることをそのまんま実践しているのです。
だから火の瞑想、火界定が煩悩滅尽に有効だと言うのならば、それを釈尊が説いた
と言うのならば、然るべき実践をしているはずだ。もちろん火を焚く護摩ではない。
火を焚かずに瞑想だけで炎をイメージし、その炎が煩悩をも焼き尽くしていくという
瞑想です。どこの上座仏教の教団がそんな実践をしているのか示して欲しい。
どうしてどこもそんな煩悩滅尽火界定を実践していないのか?
次の視点は、他力本願でない自力で念じてなんとかするという話だが、
釈尊は人は誰も他人を浄められないと説いている。浄めようと思ったら他人に教え諭して
自ら浄めるように実践させねば、どうにもできないのです。
釈尊は神通力があり神通力を説いている。
しかしその神通力は空を飛ぶとか巨大になるとか壁をすり抜けるものではあっても
神通力で他人を救ったという話が皆無です。イエスみたいに病気を治したという話すら皆無だ。
だから護摩の力で念力みたいのを増大させたつもりになってもその実何も変えられない。
他力に依存するのでなく自力の祈りでも他人はどうすることもできない。
変えたかったら祈りでなく、言葉で教え諭すしかない。
さらに別の視点を示すと、そんなアゴン宗でも所詮他力に頼る祈祷をする。
それに匹敵する人が後継者になり、時代に合わ
せた救いを示せれば良いのだが、今の宗教はど
れも、開祖はすごい、教祖はすごい、開祖、教
祖万歳!の、宣伝団体。無能者がわざわざ入信
して修行なんかしてんじゃねぇよ。時間と金の
無駄だろ?教義、聖典の内容は教祖の時代のまま。進歩なし。今の時代には合わない。て言う
か、開祖がいて、無能な弟子が宗教化した時点
で悪だよ。その繰り返しがいまの宗教の乱立っぷり。宗教崇拝は悪魔崇拝。
>火は瞑想に入るための道具に過ぎない。
>優れた道具だ。
>護摩の火に祈れば煩悩は減ると言っても、
>他力本願の祈ることではない。
>愚か者は祈るというと他力本願を連想する。
>自力で煩悩を無くす精進を、常に想起すること、念ずること、それが自力本願の祈りだね。
密教の護摩の起源はバラモン教の護摩です。
火を焚いて供物を投じて火神アグニに食べさせる。煙は天に届き、天の神々は
祈願者の願いを聞き入れて叶えてくれる。
読んだだけで馬鹿馬鹿しくなる原始人の信仰です。他力本願もいいところで
供物を投じて供養することで願いを叶えてもらおうという取引信仰そのまんまです。
よくもまあこんな恥ずかしい祈りをしてきたものだ。
ところが仏教の中から密教という一派が登場して、このバラモン教→ヒンズー教の護摩を
取り入れたのだが、屁理屈でも仏教的な意義をこじつけた。
それが仏の智火で護摩木にみたてた煩悩を焼き尽くすというものです。
屁理屈もいいところだが、それだけに無駄な焚き火をするのならまだよいが、
依然として祈祷の部分をは生きているのです。
伝法会で護摩法の次第を習ったろうが、とにかく炉という護摩壇の炎の口に
供物を投じて食べさせるのです。昇った煙が諸天に届くのもそのまんま。
護摩木には祈願も書くし、とにかく供養して願いを叶えてもらうのです。
他力本願の取引信仰から少しも卒業していない。申し訳程度に煩悩を焼き尽くすなんて
言い訳でごまかしただけで、どっこい祈祷は生きており、祈祷でしかない。
これで仏教でございなんて呆れるばかりで、なるほど密教は仏教の最も堕落した形態とは
バッタチャリアもよく言ったもので正鵠を射ている。
桐山さんも護摩木代を払って供養するのだから願いが叶えてもらえると
これを認めている。
アゴン桐山(とうざん)流大日護摩とか予告宣伝してましたね。昔から説いていた開発護摩とやらです。
護摩で深層意識やらチャクラだかクンダリニーだかを開発するとやら。
それだけならまだよいのだが、結局祈祷護摩も止めないで、星まつりとは大々的に
宣伝までして他力本願の祈り広めてるじゃん。
ペテン大作さんはまだか、まだか、と目をテラテラさせながら待ってないで
今晩は寝なさい!
ペテン大作さんより前に一来補さんへの反論で護摩の所詮祈祷たる面を指摘しておいた。
これもまたペテン大作さんに対する反論の根拠にもなると予告だけしておきます。
一来補さんの他の書き込みについても反論するかもしれません。
彼も次々と、しかし昔から変わり映えのしない内容を書いているが。
一来補さんも寝てしまいなさいと促したい。
起きてくるな。
永眠しなさい(笑)
国会図書館まで行くとは呆れた努力だ。
ここまでくれば立派なライフワークと言える。
桐山さん潰しが元信者のライフワークとは流石ですね、管長は。
ところであなたは大乗仏教について色々文句を言いたそうだから
これをプレゼントしてあげよう。
「仏教史に大乗仏教が欠けていたならば、仏教はかなり内容の乏しいものになり、
またその広がりは、おそらく東南アジアの一隅に限られていたにちがいない。
そして、はたして、仏教が今日いわれるような世界宗教にまで達し得たかどうかすら、
いささかの疑問を伴うであろう。
(『バウッダ[仏教]』中村元・三枝充悳、講談社学術文庫、225、226頁)
>桐山さん潰しが元信者のライフワークとは流石ですね。
桐山が詐欺を止めない以上それを示して警告を発するのは当然と考えるがね。
深山越野 http://www.xcar.com.cn/bbs/viewthread.php?tid=22625379
阿含宗では、そのようなものがあるのでしょうか?
なんとか全集とか、事典のような分厚い何巻かに分かれて揃えてある書物ですよ。
>釈尊が護摩を禁じたことは原始仏典に出てくる話なのだから、それに異を唱えるつもりはありません。
>護摩を禁止した記述のある経典は、実は釈尊の真説ではなかったことなどを証明するには及ばない。
>“密教は釈尊が無意味だとした護摩に焚く意義を見出した”
ではまず整理と確認をしておきましょう。
釈尊の真説ではないそれに反することを釈尊の真説であるがごとくこれを奉じ、
世に広める手伝いをした悪業の報いや如何にと警鐘を鳴らした深山さんに対して
それはどうかわかりませんぜと示したのが、釈尊の真説は阿含経だけに限らない
可能性を示唆したある学者の論文でした。
しかし個別論で言うならば、他のことはさておき、殊護摩に関してだけは、どう間違っても
釈尊の真説にはなり得ない。だから護摩論議にはこの学者の論文などあなたにとって
何の役にも立たず、護摩を肯定するには釈尊を離れて密教の立場に立って、密教を
再認識する文脈でなければ擁護できないことが、あなたにも確認されたと思う。
釈尊は禁止した。密教は禁止せずに奨励した。密教は釈尊の真説ではないと。
>そして、釈尊が禁じたことを密教が行うからといって、批判され否定されることも無いのです。
ならば桐山さんはアゴン宗など立てずに真言密教の立場を通せばよかったのです。
偽阿闍梨であった問題はさておき、桐山さんはアゴン宗を立てる前は密教を売りにしていたのだから。
その密教は形式化されていて成仏力がない、成仏力はアゴン経にあるのだから釈尊のアゴン経に
立ち返る必要があり、アゴン宗を立てる必要がある、アゴン宗でなければならない
とおっ立てたのは桐山さんです。
真言密教の立場で通すならば我々の批判の矛先は、偽阿闍梨の問題とか、求聞持法修行の嘘とか
念力の護摩が手品だったとかを列挙することはあっても、釈尊は護摩を禁止した
なんて野暮なことは言いません。仏教の話をしている時にキリスト教の話をする一来補老人とは違う。
話の核心はこれから論じていくが、ひとまず中断し、昼休み以降にまた。
>桐山さんはアゴン宗など立てずに真言密教の立場を通せばよかったのです。
そうですね!
ただ、教団を拡大していくためには、認知度を高め権威も強める必要が
あったのでしょう。
既存仏教宗派からは相手にされなかったので、その権威を海外や別の教義
に求めざるを得なかった。
真言密教からすらも相手にされてなかったのではないかとさえ思います。
桐山さんの名誉なんたらという役職の多いこと。
権威があることを演出したいのでしょう。
海外団体とのコラボによって、阿含宗は海外から認められている団体
と演出したいのでしょう。
それととお金で買ったものだと思っていますが。
教義についても、独自性のあるものを見つけだし、
独創性とオリジナリティーを印象づける必要があったのでしょう。
宗教家としてはだめですが、こういったところの手腕は別のところで、
活かせばよかったと思います。
日ごろから、阿含宗が阿含経が釈尊直々の説であることを見出して、
これを拠り所とした。と匂わせているように思いますが、
こんなのは先達の学者、研究者がとうの昔に見出しています。
阿含経の「阿含」の2文字に対するイメージを貶めた
この団体は本当に罪深いと思っています。
ここの書き込みを見ている阿含宗の方々は、ぜひ目を覚ますべきです。
釈尊の仏教は、
オカルト的なものではなく、祝術ではなく、死者のためではなく、
人はいかなる信念、価値観の下にに生きるか
という指針を示すものです。
火そのものは煩悩を増やしも、また清浄にもしない。
しかし、活用しだいで火は煩悩を増やすし、清浄にもするわけです。
禅定だとて、欲ばかり考えていたら、禅定で煩悩が増すのです。
木片を焚いたバラモンが注意されたのはそういうことです。
そのバラモンは慢心で護摩を焚いていた、だから注意されたのです。
阿含経にはオカルト的なことも説かれている。
だから、それがわからない愚か者は、阿含宗の教えもわからないね。
そして阿含経は輪廻からの解脱を説く経典です。
阿含経はオカルトそのものと言ってよろしい。
釈尊はオカルトを説いたのです。だから宗教なのです。
大乗仏教が輪廻解脱を消して、煩悩解脱だけにしたのです。
だから大した役に立たない、仏教になったのです。
♪ あなたとわたし ♪
♪ 楽しく 遊びましょう ♪
♪ 大きなクリと ユビのうた ♪
でも実際に煩悩というものをどこまで理解しているのでしょうか?
これ、そんな単純なものではないですよ。
簡単に煩悩という言葉を使っているが、批判や擁護に関係なく捉え直しておく必要があると思う。
>深山先生は相変わらず、解脱というと煩悩からの解放という半端なことしか書かない。
>辞典にはその次に、インドでは輪廻からの解脱を意味する、と書いてあるのにねw。
>>229で、私が、
「釈尊のオリジナルは、
・煩悩からの解放が解脱である、
・煩悩からの解放によって輪廻からも脱出できる、」
と書いたのが読めないようですね。
一来補さんが上記の主張をしているから、わざわざ「・」付で書いてあげたのに、
読もうともしない。
しかも、あなたの上記の主張も私の反論も今回が初めてではなく、
もう十年近くも何度も何度も繰り返されてきた。
こんなふうに反論されると、あなたは無視するか、「読んでねえよw」と
小馬鹿にしきった態度をとる。
相手の主張も読まずに、ひたすら相手をバカだのアホだのと
罵りながら、独りよがりの書き込みを続ける。
>深山先生は相変わらず、解脱というと煩悩からの解放という半端なことしか書かない。
一来補さんが餓鬼に堕ちて、畜生に輪廻すると指摘するのも、
>>19にあるような釈尊への罵倒だけが理由ではありません。
あなたがいつも示すその態度が理由です。
あなたは子供の頃からその態度で人と接して来た。
大した知性もないどころか、人よりも劣っているのに、
自分では優れていると自惚れて、他人を小馬鹿にし続けて来た。
あなたの得意技は、相手があきれかえって黙り込むまで、
何度でも同じ主張を繰り返すことです。
要するに、犬が吠え続けているのと同じで、人間のほうが黙るしかない。
あなたはずっと畜生の行為をしてきた。
今もそれをしている。
私がきちんとあなたの指摘に反論しているにもかかわらず、
まったく無視して、同じ主張を繰り返す。
道理のわからない犬がキャンキャン吠えているのと同じです。
「行為においてバラモンである」という釈尊の言葉どおりで、
あなたはすでに行為において畜生なのです。
たまたま運よく人間に生まれてきたが、結局、畜生の行為を
繰り返し、悪業を積んで、元に戻る。
しかも、>>19の如来への誹謗中傷という桁違いの悪業のお土産までついている。
仏教では為した行為の報いは消すことはできず、どこまで追いかけて来るというから、
外道の教祖に頼んで、悪業の報いを消してもらったらどうか。
・煩悩からの解放によって輪廻からも脱出できる
一来補さんは、解脱の定義とは「輪廻からの脱出」だと信じている。
だが、仏教の解脱の定義は「煩悩からの解放」です。
この違いを私は何度もすでにあなたに説明したが、まるっきり記憶にないのでしょう?
私の主張を受け入れろと言っているのではなく、相手の主張くらい理解して、
記憶して、その上で反論を書くべきだと言っているのです。
もちろん、一来補さんにそれをいくら言っても無駄なのは、
吠えるしか能のない犬に道理を説くのと同じです。
他の信者さんたちのために説明します。
仏教の解脱の定義は「輪廻から脱出」ではありません。
なぜなら、生きている釈尊たちは輪廻からは出ていないからです。
この人間界は輪廻の世界であり、そこに釈尊たちは生きていたのだから、
輪廻からは脱出していない。
だが、彼らは解脱者です。
入滅するまでは輪廻の世界にいるのは当たり前で、
「輪廻からの脱出」が解脱だと定義したら、生きた如来たちは解脱して
いないことになり、仏教は矛盾する。
だから、仏教の解脱の定義は「輪廻からの脱出」ではありません。
仏教の解脱の定義は煩悩からの解放です。
・煩悩からの解放によって輪廻からも脱出できる
煩悩から解放された者は入滅すれば、輪廻から脱出します。
六道(五道)輪廻の世界からいなくなる。
だから、入滅した釈尊がこの世界とコンタクトを取るはずがない。
御霊示と称するデンパを含めてありえないのです。
「我は応供の如来である」なんて釈尊が言うはずがない。
二千五百年前に彼はこの世界を捨て去り、この世界とは
二度と関わりは持ちません。
それが釈迦仏教の解脱です。
信者さんたちは桐山さんから、オシャカは仏界にいる、
なんて教えられて本気にしているが、そんなものは釈迦仏教にはありません。
入滅した後の状態がどうなっているかは、無記と言って、議論そのものをしない。
だから、釈尊が仏界にいる、なんて話は釈迦仏教ではありえないのです。
桐山さんがいかにデタラメを言っているか、
彼の霊視なんて嘘なのが、これ一つを見てもわかります。
大川仏陀様が、お釈迦様の生まれ変わりだと自称しているのを聞いて、
信者さんたちは失笑といよりも、爆笑しているはずです。
釈尊が生まれ変わったら、仏教は崩壊します。
それと同じで、オシャカから白銀バイブでデンパ通信があったなんて話も、
仏教を理解したら、失笑や爆笑ものです。
インド護摩でオシャカが現形したそうだが、信者さんたちが
それを信じているのなら、大川仏陀様を笑うことはできない。
オシャカが護摩に現形するのも、大川仏陀様に生まれ変わるのも同じで、
両者ともに無知丸出しの狂信です。
・煩悩からの解放によって輪廻からも脱出できる
解脱が悪因縁を切るカルマ解脱だというなら、大目連はどうして横変死したのだ?
これは実はアゴン宗でも何度も桐山さんに質問が出ている。
桐山さんがどういうゴマカシをしているか、私が引用して解説すると
反発するばかりだろうから、信者さんたち自身が読んでみるといい。
解脱者である大目連はすべての悪因縁が切れていたはずです。
ところが、彼は異教徒に襲われて、横変死した。
信者さんたちに気を付けてほしいのは、矛盾するのはアゴン宗の教義だという点です。
因縁切りが解脱だというアゴン宗の説だと、横変死の因縁を出した大目連は
因縁が残っていたことなり、解脱者ではなくなる。
だが、彼は解脱者です。
こんなふうにアゴン宗の教義では矛盾する。
仏教では矛盾はしない。
なぜなら、因縁切りなんてないからです。
因縁を切って運命を変えるなんて釈迦仏教に限らず、
大乗仏教にも日本仏教にも存在しない。
仏教の解脱はただ一つ、煩悩から解放であり、死に方は関係ない。
解脱者であっても、行為の報いは受けるから、彼は横変死した。
大目連こそが、アゴン宗の因縁解脱が嘘であることを身をもって
示していることに気が付いてください。
>どこの教団でも、教学などをまとめた独自のバイブルみたいな書物を備えていますが、
>阿含宗では、そのようなものがあるのでしょうか?
今ところありません。
今は、もはや桐山さんは本を書くこと自体できなくなりましたから、
過去の桐山さんの法話、本や執筆を再編集して出版しています。
間もなく出る本もその一つです。
桐山さん本人の執筆は終わったのだから、そろそろ全集を出す時期に来ているでしょう。
全集を出して、信者に同じ内容の本を再度売りつけるという商売です。
桐山さんは本の数も多いから、かなり御立派な全集になるでしょう。
ただし、全集とはただ集めただけではなく、編集に相当の手間暇が
かかりますから、この点がかなり難しい。
編集にはアゴン宗の教義に精通している必要があります。
そして知れば知るほど、編集は難しくなる。
>どこの教団でも、教学などをまとめた独自のバイブルみたいな書物を備えていますが、
>阿含宗では、そのようなものがあるのでしょうか?
桐山さんの話は嘘や作り話が多いから、前後矛盾することは珍しくありません。
どう編集するのか、それとも開き直って、そのまま残すのか。
例えば、不成仏霊の現形写真の説明が二つの本の間で違っている場合、
どちらを採用するのか?
片方を削除するのは簡単だが、元本が世間には残っていますから、
矛盾を誤魔化した証拠みたいになってしまいます。
つまり、恥の上塗りです。
ある本では三福道と書いてある漢文経典を原文で引用しているが、桐山さんの捏造です。
捏造だとわかっているのに、また載せるのか?
三福道はアゴン宗の根本教義ですから、桐山さんはあちこちの本で書いている。
その根本教義である三福道が阿含経に存在しないとなると、
単語をちょっと削除するといった簡単な修正では済まなくなり、
ほとんど書き直しするしかない。
桐山さんは仙尼経に「異陰」があると書いた。
だが、これも桐山さんの捏造デスる
ないとわかっているのに、異陰と書いてある昔の本をそのままにするのか。
これも三福道と同じで、異陰を削れば良いというものではなく、桐山さんは
異陰という言葉を使い論を展開しているから、何ページにもわたり、
削除してしまうか、原型を留めないほどに誰かが文章を手直しするしかない。
本の主たる主張の一つを削除することになるから、本全体が歪んでしまう。
>どこの教団でも、教学などをまとめた独自のバイブルみたいな書物を備えていますが、
>阿含宗では、そのようなものがあるのでしょうか?
仏舎利が本物だとした証拠の全てが嘘です。
仏舎利が本物でないと魔道に堕ちるなどと他教団を小馬鹿にした文言を
そのまま載せるのか?
ここにいる一来補さんがそうだが、桐山さんも自分ではものすごく記憶力が
良いと自惚れて、記憶だけで、調べもしないで本を書いたことがあります。
彼らの記憶力なんて人並みか、それ以下ですから、間違った事を書いて、
修正もかけられないまま、本として世間に出てしまった。
これに対して、空海の「法宝なり」という一文などは再出版の段階で、
修正されている物もあります。
しかし、編集者の能力が低いために、漏れてしまった件もあります。
例えば、猿が棒に咬みつく話など、桐山さんの作り話なのに、
これを他の作家が書いたかのようと、調べもしないで出してしまった。
致命傷なのは、釈尊の解脱を小解脱と罵ったことでしょう。
あれは最初は機関誌に載った内容だから、削除することも簡単だったが、
編集者自身が仏教を理解しておらず、事の重大性を理解していないから、
そのまま載せて本として出版してしまった。
他にも、桐山さんの空想と思い込みの激しさから書いた嘘がたくさんあります。
私がそれらを意地悪して指摘しないのではなく、数が多すぎて
指摘しきれないのです。
桐山さんの阿含経講義の本なども内容に嘘が多すぎて、指摘しきれない。
>どこの教団でも、教学などをまとめた独自のバイブルみたいな書物を備えていますが、
>阿含宗では、そのようなものがあるのでしょうか?
開き直って、そのまま出版するか、原型を留めないほど徹底的に直し、
これまでの本をすべて絶版にするか。
そのまま出せば矛盾と嘘だらけ。
徹底的に直せば、教義がガタガタになるだけでなく、旧版と比較され、
どれが嘘だったのか、批判のネタをわざわざ提供するようなものです。
要するに、マンションの土台の杭が足りないのではなく、
最初から杭などなかったのだから、直しようもない。
最初に嘘をついて、それをごまかすためにさらに嘘を重ねるしか
なくなったのが桐山アゴン宗です。
ただ、希望の光は一来補さんのような宗教家畜です。
何をどう矛盾しようが、まったく気にしないという信者はいます。
彼らは、理屈ではない、力だ、と言うでしょうから、
教義の矛盾なんて、気にもしないでしょう。
全集を祭壇に並べて、その上に仏舎利尊を置いて拝むと
桐山ゲイカの仏陀の智慧を受信できるようになる、なんて教義を造れば、
一来補さんや宝生さんのようなケチを除いて、
宗教奴隷たちは喜んで買うでしょう。
>そして、釈尊が禁じたことを密教が行うからといって、批判され否定されることも無いのです。
しかし私は桐山さんがアゴン宗を立てるにあたり、密教を残してアゴン密教と標榜した
ことを知ってます。
桐山さんによるとアゴン経の教えこそがテーゼである。
これに対してアンチテーゼとして大乗仏教が勃興する。
大乗仏教は衆生を救うという眼目はよいが、上座部にしかない肝心な成仏法を
切り捨ててしまったというのが桐山さんの主張です。
そして桐山さんは密教含めた大乗とアゴン仏教の統合、ジンテーゼを説く。
このジンテーゼこそがアゴン密教なのであるという説明です。
しかし学のない桐山さんが弁証法を真似してみたところで、その肝心のテーゼの理解が間違っている。
テーゼの理解が間違っているから大乗のアンチテーゼも思想的には認め、技術論だけの
違いだとしてしまう。
主張を救う救わないを大乗小乗の差としているが、そもそも釈尊の仏教には慈悲はあるが
救いなどない。自分を救えるのは自分しかいないのです。だから神仏などに呪術を
行ってまで祈念して救うなどということを否定した。そんな依存の煩悩からは卒業して
自立の心を持たない限り救いの道など永遠にない。
密教で取り入れた護摩のような呪術は新たな煩悩を生じる元なのです。
サトッタリーナさんが書いているように煩悩を増大させてしまう危険性が常にある。
釈尊の弟子の阿難は女性にもてて何かと誘惑が多かった。これに対する釈尊の指導は
「つつしんでおれ」です。君子危うきに近寄らずで、煩悩の誘惑には理性を以て
断ち切らねばならない。
桐山さんはこんな禅だかの逸話を出していましたね。
ある禅僧に若い女が近寄り手を握る。しかし禅僧は「古い枝が厳にかかっているだけで
何も感じない」と答えたら、脇から泊めてやった婆さんが出て来て「この生悟りが」と言って
追い出したという。桐山さんは冗談で言った。では手を握り返したらよかったのですかね?と。
釈尊の答えならば、その誘惑の場から立ち去るが正解です。
桐山さんならその場で押し倒せなかったら今夜でもとアポをとるだろうが(笑)
つづく
>そして、釈尊が禁じたことを密教が行うからといって、批判され否定されることも無いのです。
このように世の中には常に煩悩を増大させてしまう誘惑に満ちている。
だから釈尊はそれに近づかないように戒律を厳しくしている。
護摩などの呪術を単に無害無益の無意味なものではなく、有害無益だから「大」戒として設定するのです。
ありとあらゆる護摩を、これでもかこれでもかと列挙した原始仏典には
如何なる言い訳理由をも認めない釈尊の強い意志を感じる。
煩悩を増やす話には一切乗らない。
ただし誤解しないでいただきたいのは、護摩を焚いて煩悩を増大させたら
地獄に堕ちるとは説いてません。煩悩が高じて盗みや殺しの 悪業まで発展したら
地獄に堕ちるが、呪術頼みに依存しているだけなら、いつまで経っても自立できないだけで
地獄にまでは堕ちない。輪廻もする。まああまりにあさましければ餓鬼にも畜生にも堕ちようが。
だから護摩などからは離れろと釈尊は説く。
ところが密教は護摩を取り入れてしまった。それは呪術そのものです。
仏という神様みたいな存在(この認識がそもそも釈尊の原始仏教に反する)
の智火により煩悩を焼き尽くすという屁理屈の見立ても呪術ならば、しっかりお願い事を叶える祈祷呪術も
しっかり残している。こんなものに関わりあっていては解脱は遠退くばかりです。
何もしないでいるより解脱が遠退く材料を日々実践している。つまり煩悩を増大させている。
ここに釈尊の仏教と密教に対立した矛盾が生じてしまった。
そこでアゴン宗を標榜し、かつて真言密教を標榜していたのを捨てるならば、
ここは釈尊のアゴン経を優先し、護摩を捨てるべきです。
桐山さんのいう言葉だけのジンテーゼとやらはジンテーゼですらない。
アンチテーゼの方を採用しただけです。
それでいながら卑怯なことに、看板にはテーゼあるアゴン経で権威だけいただいた。
>>1 煩悩からの解放
2 輪廻からの解脱を意味する
と、二つの意味があることが岩波仏教辞典に書いている。
煩悩から解脱すれば輪廻からも解脱する、という場合、
業からも解脱することを認識せねばいけない。
煩悩は単独で存在するわけではない。
煩悩も因縁によって生じるのです。
それが、諸法は因縁によって生起する、という教えです。
煩悩も諸法に含まれるのだよ。
そして、煩悩の因縁が業と苦であるということです。
だから釈尊が悟りを得た際、最初に、自説経ウダーナにおいて、
「諸々の因縁の滅尽を知る」と、唱えたのです。
初期仏教では、因=縁=因縁=縁起、であることを知っているよね。
だから、煩悩解脱は小解脱、因縁解脱は大解脱というのです。
なぜ釈尊が生きていた時に輪廻解脱なのか?
肉体があるうちは有余涅槃と言って完全な解脱ではないの。
肉体が亡くなって、無余涅槃、完全な輪廻解脱になるのです。
また、木連の死は横変死ではない。
だいたいが、木連が亡くなる場合は滅なのであって死ではない。
死という場合は、仏教では輪廻する場合をいう。
木連の場合は輪廻しないのだから死ではない。
三密修行を行うのは共に同じ。意義の見出し方と解釈が相違する。
後世の仏教学、歴史学、近世のインドヨガ哲学など余りに参考とすべき
資料が多く、平安時代そのまま唐来の仏教、密教では世に行われない。
批判をするのは誠に結構ですが、煩悩と言われる人に纏わる病の治療法や
心癖退治の技法を指し示せないなら批判者は、この場合は欠格である。
このスレが批判する一方のスレという狭い狭い猫の額の様な考えでのみ
書き続けるなら世人は顧みる事はあるまい。平成の今になり
桐山師を上回る理論と実践を為す「尊師」が現われるべきだろう。
ユビキタス君には期待しております。
煩悩なんて早い話しが怒りや恨みや奢り欲張りと言った悪い心のことだ。
そんなもん、悪い心は持たないようにしましょう、なんて教えは小学校で
も子供に教えている。
釈尊のそんな教えが有り難いですかね?
そんなもん、小学校の先生に聞きなさいな。
釈尊の教えは、そんな他愛のないものではない。
悪趣を切る、因縁を切る、輪廻解脱する、という信じがたい教えです。
それだけに有り難い教えです。
にわかには信じがたい教えです。
だから宗教です。
すると説いた。つまり、煩悩の因縁は業や苦であると説いたのです。
この場合の受(苦痛)には楽も含まれ、苦痛の場合には避けようとの
煩悩を起こし、楽の場合には得ようとの煩悩を起こすことです。
だから、煩悩と業と苦を一体的に減らす必要があり、そのための知恵
が生じる禅定を教えたのです。
業は輪廻をあらしめる力であり、煩悩を伴なう行為のことです。
煩悩を伴なわない行為は業とはいいません。
だから、釈尊の行動行為は業とは言わないのです。
釈尊の行動行為には輪廻をあらしめる力がないからです。
業(カルマ)を断つ知恵が生じない限り、業を断つことは不可能と
思われます。
の行動行為は業ですから、それには輪廻をあらしめる力があります。
その輪廻をあらしめる力まで断ち切ったから釈尊は輪廻を解脱した
のです。
桐山師の説く業解脱とはそういうことですね。
単にカルマを生じさせる行為を止めるだけではなくて、
過去に作った業(行為の余力・輪廻をあらしめる力)を消さないと
輪廻解脱=因縁解脱は出来ないという教えです。
>煩悩と言われる人に纏わる病の治療法や心癖退治の技法を指し示せないなら
釈尊とその弟子中アラカン果を得た者たちが異口同音に八正道だと指し示して
いますよ。(なぜ判らないかな)
教祖はじめ誰か解脱できたのだ?
方法は?三福道?先祖供養?護摩?梵行?何それ
よく考えてみなよ。教団に利用されて金とられてるだけじゃないのか。
大概で洗脳から目覚めたらどうだ。
三馬かトリオてっか。
95歳の爺さんにしがみつき、宗教団体なしでは何もできない
おまえたち何歳になるか知らないが情けないと思わないのか~
なんで批判側が示す必要があるのか?
阿含宗にはパクリ教義はあっても解脱の方法が無い。阿含宗では解脱は無理だ。
と云ってるだけだぜ。それは教祖が証明したんだろ~
手本をやって見せ、やらせてみせて、褒めてやらねば人は育たない。
とありますね、是は物事を指導し成就させるべき立場の人にとって
忘れず心底に置くべき事柄でしょう。
一般社会の仕事にも通底して居ると思います。話を戻しますが
それでは八正道修行を、山本五十六氏の仰るように指導できるお方が居るか?
もしも居るなら世間の至宝とすべきでしょう。そうして
何が何でもお尋ねし、一言を頂戴するべきでしょう、それは
最澄が空海を訪ね教えを乞うたようにです。
桐山師について批判をすることに可否云々を言うのは間違いでしょう、
各々が勝手に言うべきです。
所詮は業界のトップランナーですから目立つ御仁は批判されるわけです。
桐山師が何故その立場に立てたか?理由をいうと師は祈祷の祈願を受ける場合に
絶対に調伏の依頼を全て拒否したからであります。
判り易く言うと人の不幸を祈らずに教団を運営したと知るべきです。
あちこちの祈祷師を見聞きすると人に言えないような祈願を受けて居るものです。
相当な祈祷料金を言われるがままに払わせ敵を倒させると言えばお分かりか?
>桐山師が何故その立場に立てたか?理由をいうと師は祈祷の祈願を受ける場合に
>絶対に調伏の依頼を全て拒否したからであります。
桐山さんは調伏の依頼を拒絶するも何も、調伏する力なんて、
宝生さんと同じでありませんから、引き受けられません。
まるで宝生さんは桐山さんと懇意であるかのように、あるいは霊的な力で
桐山さんを霊視したかのような書きぶりですね。
よくまあ、そこまで嘘を並べるものだと、あなたの厚かましさと
嘘つきぶりには本当に感心する。
世の中にはこういう嘘が平気な輩がいるのは知っているが、
桐山さんや宝生さんみたいな連中を目の前にすると驚く。
二人とも虚言癖があるという意味です。
現実の宝生さんは桐山さんと関わりなんてないし、何の霊能力もない。
全部、ハッタリ、嘘、虚言です。
こういう嘘つきぶりでは一来補さんなど比較にならない。
一来補さんの神通力体験はまったくの空想ではなく、実際に体験したことを
自分の霊能力であるかのように拡大解釈している。
だが、宝生さんの場合、何もない。
正真正銘、本物の嘘です。
あなたが阿含経の捏造をしてみせた時には心底驚いた。
ここまで道徳心の欠落した嘘つきとは予想していなかったからです。
一来補さんも捏造したが、あれは彼の記憶力の悪さや解釈間違いから来ている。
だが、宝生さん場合、何もないのに経典そのものを捏造した。
> それでは八正道修行を、山本五十六氏の仰るように指導できるお方が居るか?
居ないから八正道修行は無意味というのですか?
八正道修行でない桐山さんの、因縁解脱の教えを乞え、と?
それとも桐山さん以外の八正道修行のグールーを求めよ、ですか。
と、いちいち突っ込むのが虚しくなってきた・・・。
>それでは八正道修行を、山本五十六氏の仰るように指導できるお方が居るか?
はい、いますよ。
「宝生さん、ありもしない霊能力で嘘をつくのをやめなさい。
インチキの霊能力で人を騙し、自己顕示欲を満たそうとする行為をやめなさい。
子供騙しの加持祈祷で欲望を増やすのはやめなさい。
経典を捏造するのは大悪業ですから、してはなりません。
釈尊の教法を愚弄するのは大悪業だから、やめなさい。
それらの悪業にはすべて報いがあり、あなた自身の来世に降りかかります」
これが八正道による指導です。
八正道には指導なんていらないのです。
煩悩を減らし、なくすのが八正道ですから、子供でもわかる。
八正道は指導などしてもらわらなくても、誰でもその場で
実践して、その場で効果が出て来る。
指導しましたから、さあ、宝生さんも実践してみなさい。
・・・あ、御霊示が下りてきました、あなたは絶対にやらないで、
指導してみろ、と繰り返すそうです。
> 批判をするのは誠に結構ですが、煩悩と言われる人に纏わる病の治療法や
> 心癖退治の技法を指し示せないなら批判者は、この場合は欠格である。
>>281 :神も仏も名無しさん:2016/02/27(土) 19:14:30.49 ID:XQ+6DEKD
>それでは八正道修行を、山本五十六氏の仰るように指導できるお方が居るか?
また代案病が始まった。
宝生さんはわざと書いているのではなく、あなたは本気でこれを書いているのでしょう?
一来補さんと同じで、新しい知識がまったく頭に入らない。
墓石に撥水剤を吹きかけたみたいな状態で、水をただの一滴も染み込まない。
釈尊は病の治療法も心癖退治の技法も示したことはありません。
あなたの求めている物を釈尊は示したことがないのです。
救済もなければ、祈願も、祈りもない。
その釈尊の教法に病気平癒がないから「欠格」??
無知なのか、恥知らずなのか、両方なのか。
一来補さんもそうだが、よくまあそうやって毎回毎回、
釈尊に向かって罵声が浴びせられるものだ。
シツケの悪い犬が釈尊に向かって吠えているようなものです。
> 心癖退治の技法を指し示せないなら批判者は、この場合は欠格である。
よくまあ、そうやって毎回毎回、釈尊に向かって罵声が浴びせられますね。
宝生さんに釈尊の教法を紹介すると、
>>379 神も仏も名無しさん 2016/01/24(日) 13:20:54.00 ID:+RoI9njZ
>深山センセイの教えは、ホントに黴臭く陰気ですな。
と釈迦仏教を「黴臭く陰気」と罵った。
釈迦仏教は完全な非暴力だと言うと、
>>559 :神も仏も名無しさん:2015/12/05(土) 20:40:06.09 ID:SxS8WdPG
> お前さんは無能力者のざる頭でしかないな。
などと釈尊を「無能力者のざる頭」と罵った。
占いや加持祈祷など釈迦仏教にはないと指摘すると、
>>259 :神も仏も名無しさん:2014/05/01(木) 00:40:34.34 ID:9SvNU2RE
>占いと運命学や持った因縁を乗り越え、幸福を得るのが仏法の在るべき
>目的である。加持祈祷が仏法では無いと言えるならそれはそれは
>人として薄情きわまる宗教である。
釈尊に向かって、薄情きわまる宗教だと罵倒する。
それでいて宝生さんは自分のことは、菩提心を持ち、
>>259 :神も仏も名無しさん:2014/05/01(木) 00:40:34.34 ID:9SvNU2RE
>私の生き甲斐は、人助けです。
と人助けが生き甲斐だと言いながら、
>>15 :神も仏も名無しさん:2014/04/14(月) 19:52:16.65 ID:+Oe8a2FY
>相当頻繁に起きている。その最もな事柄は同性愛者の増加である。
などと露骨に同性愛者への差別発言をする。
要するに、宝生さんの石のように凝り固まった宗教観からちょっとでも外れると、
たちまち理解できなくなり、相手かまわず罵り、罵倒を浴びせる。
釈尊が何を説いたかなんて何の興味も関心もない。
桐山さんと同じで自分がエラクなることしか関心がないからです。
どうしましたか?早く>>153に答えたらどうなんだww
>>26で、勝手な妄想で書いてめでたい奴らだ。
と書いているから、貴方は妄想ではない証拠の書籍等を示しながら解説して
頂けるのでしょうね(^o^)/
まさか例に依って逃げるんじゃないよね(笑)
我々(本物の元信者)に反省しろって言いましたよね。それで
私は、日本で唯一の釈尊直説の阿含経を依経とする阿含宗ということで入門
したけど、全くデタラメだったから退会したことを述べ、何を反省すべきか?
を聞いたけどスルーして逃げましたよね。それについてもお伺いしたいです。
石は水に浮きません。
油は水に沈みません。
病気は治癒しません。
財は得られません。
極悪非道の人間は天国に生まれません。
善行を積んだ人は地獄に生まれません。
これらが物の道理というものです。
みなさん、道理をわきまえませんか?
知恵と理性の宗教です。
>それにしても批判側の仏教の理解は、宗教の枠から出てないね。
>はっきりいって、君等はいつまで経っても万年青年のようだ。
>「ゴータマ・ブッダはこういう火の行者たちの仲間から脱皮して、
>新しい宗教運動を展開したのである。」
>(「原始仏教の思想Ⅰ」中村元、春秋社、35頁)
>仏教を、当時の社会の中で考えることも必要なんだよ。
要するにペテン大作さんは宗教としての視点だけでなく、経済原理的な効果、
卑俗的な表現で言うならば釈尊の商才みたいな着眼点、隙間産業を狙う企画力を言いたいわけか?
だとするならば、それはピントが外れていると思います。
同時にあなたのマーケティングやら営業・企画の際も本質が見抜けず大したことないなあと思います。
釈尊が隙間産業としての商才、企画力を発揮して教団をでかくアピールする才が
なかったことは、いみじくもあなたが引用した以下が証明しています。
>>245 神も仏も名無しさん 2016/02/27(土) 01:26:16.47 ID:P/kP0WiM
>「仏教史に大乗仏教が欠けていたならば、仏教はかなり内容の乏しいものになり、
>またその広がりは、おそらく東南アジアの一隅に限られていたにちがいない。
>そして、はたして、仏教が今日いわれるような世界宗教にまで達し得たかどうかすら、
>いささかの疑問を伴うであろう。
>(『バウッダ[仏教]』中村元・三枝充悳、講談社学術文庫、225、226頁)
釈尊の説いた教えだけでは世界三大宗教になり得なかっただろうという指摘です。
このバウッダの指摘は私もよくわかります。
世界三大宗教と言うからには内容の独自性よりも、普及力、数がモノを言います。
信者を増やすというからには、信者のニーズを満たさねばならない。
信者のニーズは欲望原理から成り立っています。救ってもらいたいとか救いを求める
ことも含めて。しかし釈尊の教えは欲望原理に真っ向から反する。はっきり言って
普及するはずがないのです。だから釈尊は悟りを開いたものの、これを広めることに躊躇した。
どうせ理解が得られないことも予期して。
>願い事をして護摩を焚く人は、願い事が叶わなければ、
>なぜ叶わないんだ?と、さらに高い護摩木を買う人が
>なかにはいることでしょう。しかし、願い事は叶いません。
>パチンコに負けて取り返そうとしてお金を注ぎ込んでしまうのと
>同じように、もっと高い護摩木を買う人がいるかもしれません。
>10万円の次は100万円というように。
>これこそが「煩悩の増大」というべきものです。
あなた護摩についての議論のテーマを理解していませんね。
ここでのテーマは“釈尊は何故護摩を禁じたのか”というものです。
ですから、議論するのならあくまで釈尊の述べられた言葉について考えるべきです。
百円護摩木は釈尊の時代には無かったのだから、それを話題にしてもそれこそ無意味ですw
>釈尊は自らが体得した教えをインド中に広めるにあたって、
>バラモンの象徴である護摩を否定することで、
>自分の教えはバラモンとは違うことを衆生に強く示す必要があった。
>だから護摩を否定した。
釈尊は教団を大きくしてアピールすることに興味を持たなかった。
そりゃ死ぬまでインド中を説法に回って歩いたが、その説法のスタイルは常に対機説法。
釈尊在世時に教典すらも作らない。
サーリプッタとモッガラーナが帰依すると、教団の長はサーリプッタと勘違いされるくらいだった。
また護摩を否定したのはよいが、それに代わる「ウリ」はあるのか?
実は売りなんてものはなく至極地味な話です。内面に光輝を燃やすなんて話は
このスレでも一来補さん、宝生さんたちが単なる道徳と侮蔑するようなものです。
特殊な奇跡的な技術を説いたのではなく日常の自己観察と監視、統御を説いた。
これは実は誰しもしたくない。もっと奇跡的な話こそ追い求めたい。
こういう民衆のニーズを見事に無視して、民衆の嫌がる欲望原理に反する教えを
説いた釈尊が、商才などあったはずがない。
それでもこれを説いたのは、宗教と言うよりも、人の真実の道だけを説きたかったのだ。
嫌われようとも。だから悟りを開いて躊躇はしたものの、この嫌われる道を説くことを
選んだのです。
この辺の経緯、釈尊の本意が読めぬあなたにマーケティングの才があるはずがない。
>要するにペテン大作さんは宗教としての視点だけでなく、経済原理的な効果、
>卑俗的な表現で言うならば釈尊の商才みたいな着眼点、隙間産業を狙う企画力を言いたいわけか?
>だとするならば、それはピントが外れていると思います。
私はそのようなことは言ってません。
釈尊は王族の子だから商才を発揮して事業の拡大などは考えていない。
王子様がそんなことを考える必要はありません。
あくまで自分の創案した仏教を広めるために護摩を禁じたのです。
結果的にそのことが大衆路線から外れたとしても悔いは無かったでしょう。
>釈尊は教団を大きくしてアピールすることに興味を持たなかった。
>この辺の経緯、釈尊の本意が読めぬあなたにマーケティングの才があるはずがない。
そのとおりです。
これには私も同感です。
私の>>214の文章を曲解するようでは、
あなたに欠けているのはマーケティングの才ではなくて
日本語の読解力です。
>釈尊は自らが体得した教えをインド中に広めるにあたって、
>バラモンの象徴である護摩を否定することで、
>自分の教えはバラモンとは違うことを衆生に強く示す必要があった。
>だから護摩を否定した。
>「ゴータマ・ブッダはこういう火の行者たちの仲間から脱皮して、
>新しい宗教運動を展開したのである。」
>(「原始仏教の思想Ⅰ」中村元、春秋社、35頁)
>仏教を、当時の社会の中で考えることも必要なんだよ。
しかし私はあなたとは違った意味で、釈尊が当時のインド社会にアンチテーゼとして
アピールした面を注目しています。
私はもしアゴン宗という妄想に騙される経験がなかったら、釈尊の教えをつまらない
ものとみなしていたかもしれない。未だに。
釈尊のスッタニパータやらダンマパダなどを読んでも、それこそ道徳と嫌ったとも思う。
釈尊の教えが冷たいながらも清水のように心に気持ちよくしみ通ると感じるのは
アゴン宗のようなものに毒された経験あったればこそ、逆説的にも反省をこめて
そうだ!その通りなんだ!人生というものは奇抜ではなくても、それこそが真実であり
それしかないのだ!と共鳴できるようになった。
妄想を妄想と理解したからです。騙されたのはこちらの心に甘いものがあったからだと悟った。
自己否定の悟りとは、こんなに痛快なものであることを知った。
だから釈尊もインド社会を妖かしていたバラモン教などの間違った因襲、考え方に
徹底的にアンチテーゼを示した。
そこから脱皮することこそ真実の道であり、隙間産業とかそんな次元の話ではない。
釈尊の示した数々のアンチテーゼは、実はアゴン宗に対するアンチテーゼも同然だ。
だから私は思う。アゴン宗に注目しなさい。そしてそれに対して徹底的にアンチを
示しなさい。アンチのアンチたる理由を考えなさい。
実はその作業をすると釈尊の仏教がよく見えてくる。
>妄想を妄想と理解したからです。騙されたのはこちらの心に甘いものがあったからだと悟った。
いや、あなたは未だに妄想を妄想と理解していない。
↓
>>268 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR :2016/02/27(土) 12:56:51.60 ID:ROJQUIOA
>ただし誤解しないでいただきたいのは、護摩を焚いて煩悩を増大させたら
あなたは、未だに護摩が煩悩を増大すると信じている。
これは妄想なのだといくら説明しても納得しない。
妄想癖は生来のもので、治し様が無いのかも知れない。
>>298 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/02/08(月) 12:35:40.46 ID:d4GoZ5Op
>ムチャリンダはただ挨拶しただけで、帰依はしていない。
>桐山さんは自分でその経典を引用しながら、ありもしない帰依話を作り上げた。
>ムチャリンダが帰依していないという点に信者さんたちにもっとショックを受けほしい。
ところで、ムチャリンダ龍王が帰依しなかったというのはやはり嘘だったようです。
その話はまた後で。
>私はそのようなことは言ってません。
いいえ、商才、隙間産業とはあまりに卑俗的な表現ではありますが、
しかしあなたが、こちらのことを青年で青いぜと上から目線まで示してみせた話は
宗教的な話ではなく、広く社会事象的に考える、つまり社会において自分の考えを
どれだけアピールできるかという戦略的視点を示したのです。
その証拠が、
>あくまで自分の創案した仏教を広めるために護摩を禁じたのです。
というあなたの解釈です。私はこの説をとらない。
インド社会に自分の考えを強くアピールするために、バラモン教社会の象徴とも言える
護摩を禁止するというアピール、パフォーマンスをしたのではない。
護摩禁止はそんなアピールのための道具ではない。
バラモン教社会の全てを否定しません。よい習慣は肯定します。
例えば祭祀でも先祖を敬い先祖に感謝する祭祀ならば肯定しています。
それはたとえ無意味であっても人の心を不浄にしないからです。
禁止をするからには禁止をする別の理由がある。心を不浄にしてしまうような要素があるからです。
強くアピールするためのパフォーマンスではない。
だから私はあなたの考えを商業戦略的視点としたのです。
ましてやこちらを青いぜと上から目線で罵ってまで。
自分は学生のような青い甘ちゃんではなく、経済社会で活躍する大人なんだぜ、
だから商業戦略、社会アピールという視点だって忘れないんだぜとしたのでしょう。
それ読んで、私はプッと吹き出し、コイツ実社会で仕事できん奴だろうなあと思ったのです。
>あなたは、未だに護摩が煩悩を増大すると信じている。
>これは妄想なのだといくら説明しても納得しない。
護摩が煩悩を増大することがあなたに理解できないのは、あなたが煩悩という単語しか知らず
中身を具体的詳細に想像してみることをしないからです。
だから四禅解脱の時と同じように、自分が使いこなしてもいない単語だけで
学者の論文を極めて狭くしか読み取れていない。
いみじくも
>>257 神も仏も名無しさん 2016/02/27(土) 10:08:31.99 ID:zjQVagj/
>仏教だから煩悩の話が出てくるのは当然なんですが、
>でも実際に煩悩というものをどこまで理解しているのでしょうか?
>これ、そんな単純なものではないですよ。
>簡単に煩悩という言葉を使っているが、批判や擁護に関係なく捉え直しておく必要があると思う。
と書いている人がいる。この人がどういう立場なのかわからないが、実はこの視点って大切です。
特にあなたに対しては。ただし私はこの>>257さんが書いているように単純なものではないなどと
複雑にする気はなく、いたって単純に考えればよいと思う。
煩悩とは、煩い悩むと書くが悩みではない。発している本人は悩んでなんかいない。
夢中になっており、時には快楽に耽ってすらいるかもしれない。
人の健全さを阻害するような心の営みを言います。
むさぼり、おごり、怒り、憎しみ、怠慢、愚痴、恐怖、依存欲求・・などなどです。
これらは身語意の三業において現れるから、心を落ち着かせれば自分でも自覚できるし、
他人の煩悩も手に取るようにわかります。難しい話ではない。
そこで護摩のシーンを想像してみるがよい。これはサトッタリーナさんが想像している。
>>291 サトッタリーナ 2016/02/27(土) 23:22:36.35 ID:ThIO+C6E
>いくら祈っても、いくらお呪いを唱えても、
>石は水に浮きません。
>油は水に沈みません。
>病気は治癒しません。
>財は得られません。
>極悪非道の人間は天国に生まれません。
>善行を積んだ人は地獄に生まれません。
>あなたは、未だに護摩が煩悩を増大すると信じている。
>これは妄想なのだといくら説明しても納得しない。
>>291でサトッタリーナさんが書いたことは、自分が書いた>>234を受けている。
石よ沈むなと念じても石は沈む例の西から来たバラモンが広めた死者を昇天させる
話を村長に自分の頭で考えさせた話ですが、実は護摩だってこの話と全く同じではないか。
焚き火をすれば願い事は叶うのか?関係ないから叶わない。
叶わないとどうする?
もっともっと投資もしてエスカレートだってする。
不当なむさぼりだとわかるでしょうが?
それを示しているサトッタリーナさんに対して、ペテン大作さんは>>293で、
100円護摩木なんて釈尊の時代にない、これはあくまでも釈尊の時代の護摩の話だなどと
トンチンカンなことを言う。
100円護摩木なんてアゴン宗の護摩にちょっと置き換えただけで、これは釈尊の時代の
護摩にだって起こり得た、実際に起こっただろうと想像できる煩悩の話です。
要は簡単な想像力です。少し想像を働かせれば、護摩って煩悩を増してしまうことにも
繋がる危ないゲームだねとわかる。具体的にどんな煩悩がどんな悪影響を及ぼすかもわかる。
ペテン大作さんにはそういう具体的な想像力がない。
学者の論文だけで机上の思考しかできない。専門用語を駆使しても意味がわからないから
言葉のもてあそびにしかならない。
本当の知者は難しい専門用語をひけらかすのでなく、誰でもよくわかる具体的内容を
誰にでもよくわかる言葉で表現できる人を言うのだが。
具体的な煩悩の数々の悪影響を想像する能力すら無い。
深山手機 https://www.youtube.com/watch?v=vX2AeZxuyf4
深山ユビキタス説は、欠陥説です。
岩波仏教辞典の説明を、半端にしか理解していません。だから欠陥なのです。
わたくしが岩波仏教辞典からエキス部分を引用します。しくじりたくない人は以下を暗唱しましょう。
「解脱」→「煩悩から解放されること・・・インドでは輪廻からの解脱を意味する」
「縁起」→「さとりは縁起の滅した世界とされた。大乗仏教に至ってさとりの世界も空・無自性とする縁起説が基盤となった。」
「悟り」→「輪廻の迷いから智慧の力によって解脱しなければならない」
「煩悩」→「煩悩の束縛を脱して真実の認識を得ることが大乗仏教のさとりにほかならない」
「滅」→「苦悩が消滅して業のはたらきが停止した悟りの境地である涅槃は」
以上を暗記することです。経典の一部を読んでもだめです。辞典は学者先生がまとめたものですから全体像がつかめます。
阿含仏教と大乗仏教の違いをわかることですね。
小部経典の餓鬼事経にありますよね。
比丘衆を供養してその功徳を地獄に落ちた霊に回向して、不成仏霊を救う話しです。
ん、これは前にもこのスレにあったね。
水に沈んだ大石は祈っても浮かばない。だから地獄の不成仏霊も祈っても浮かばない、という話しです。が、この話しには比丘衆を供養してその功徳を回向する、という条件が欠けています。ただ祈るだけでは、そりゃあ浮かばないでしょう。
死者成仏を否定する人は、餓鬼事経を知らない人でしょう。
解脱。煩悩から解放されること。
煩悩から解放されることはない。なんでか。
縁起。さとりは縁起の滅した世界、か。
悟り。智慧の力によって解脱、か。
輪廻からの解脱はない。
>死者成仏を否定する人は、餓鬼事経を知らない人でしょう。
>>492 :一来補:2015/08/15(土) 15:05:08.71 ID:nbyUghr1
>餓鬼事経には、餓鬼界に堕ちた亡者に功徳を回向して、天界に生じさせた話があるのです。
一来補さんて読まない、理解しない、そして全く記憶しないのですね。
学習能力の低さには心底驚かされる。
昨今来た信者なら餓鬼事経を出すのもわかるが、上記の492のように、
半年前にも出して、私から反論されたのをきれいに忘れている。
三十年前から知っていたと自慢して、私から小馬鹿にされたことも忘れている。
他人の無知を嘲笑うつもりはありません。
だが、教えられたら、知識くらい少しは記憶したらどうか。
批判側から出されようが、知識は知識なのだから、受け入れたらどうか。
餓鬼事経はすでにこのスレで何度も何度も出て、そのたびに批判側から
反論され、成り立たないことを示されている。
桐山さんでさえも死者成仏の根拠にはしていない。
議論の詳しい内容どころか、否定されたことさえもあなたは記憶できない。
何をどう書かれようが、一来補さんと宝生さんの知識は断固修正されない。
犬や猫でももう少し学習します。
部に属する。即ち第4品第3節に現れるピンガラ王は護法の註釈に従へば、仏滅
後二百年頃スラッタを統治していた。従て此の事実等より察するも、仏滅後かなり
隔たった後の時代に本書の成立を置くこと得る。天上、地獄の思想は、涅槃の思想は
共に、原始仏教時代に併存したものとするも、かかる詩集を遠く古代に遡らしめるこ
とは困難である。」
(南伝大蔵経、25巻、2頁、宮田菱道)
これは餓鬼事経を翻訳した学者の解説です。
「仏滅後かなり隔たった後の時代に本書の成立を置くこと得る」
つまり、釈尊が入滅してからかなり時間のたった後代に餓鬼事経は
作られた、と学者が解説しているのです。
餓鬼事経には入滅後二百年後の王が出てくることから、
どんなに早くても餓鬼事経が作られたのは釈尊入滅後二百年よりも後です。
二百年も後に作られた経典を釈尊直説とは言わない。
阿含経で釈尊の金言と言えるのはアーナンダが聞いて、
伝承として残した部分だけです。
入滅直後に伝えられた伝聞こそが本当の釈尊の言行録です。
二百年もたってから作られた経典に登場する仏弟子が本物なら、
法華経に登場する仏弟子たちも本物ということになる。
一来補さんは何度説明されてもこんな簡単なことも記憶できず、
半年後には議論したことさえも忘れて、批判側を小馬鹿にしながら、
また同じ主張繰り返した。
それを指摘されも、恥ずかしいとも思わず、ただただ
批判側への反発心だけを増大させる。
桐山が何故、因縁が切れていないのか説明をしてくれよ。
アゴン宗の信者は因縁解脱を求めているんだろ?
>岩波仏教辞典の説明を、半端にしか理解していません。だから欠陥なのです。
一来補さんの恒例のご病気ですね。
批判をまったく読まない、理解しない、記憶しないという
三重苦にさいなまれて、道理のわからない犬のように同じことを吠え続ける。
>「解脱」→「煩悩から解放されること・・・インドでは輪廻からの解脱を意味する」
そのとおりで、インドでは輪廻から解脱を意味しました。
誰も反対していません。
解脱が輪廻から脱出するのは当たり前。
しかし、釈迦仏教の解脱の定義は「煩悩から解放」です。
煩悩から解放されるから輪廻からも脱出する。
成績が良いから大学に合格するのであって、大学合格は成績が良いことの
結果にすぎない。
解脱が「輪廻からの脱出」という定義なら、生きている時の釈尊たちの
存在を説明できなくなる。
彼らは解脱したにもかかわらず、輪廻の世界にまだいた。
解脱が「輪廻からの脱出」なら、釈尊たちは解脱していないことになり矛盾します。
これを毎回、一来補さんに指摘しても、あなたは無視する。
自分の説に都合の悪いことは無視しているのでしょう?
>「悟り」→「輪廻の迷いから智慧の力によって解脱しなければならない」
ケチらないで岩波仏教辞典の二版を買いなさい。
この文章は岩波仏教辞典の二版にはありません。
あなたみたいな国語力の低い人たちが誤解する内容だと判断したから、
削除したのでしょう。
>「煩悩」→「煩悩の束縛を脱して真実の認識を得ることが大乗仏教のさとりにほかならない」
ケチらないで岩波仏教辞典の二版を買いなさい。
この文章は岩波仏教辞典の二版にはありません。
また、釈迦仏教だろうが大乗仏教だろうが、解脱は煩悩から解放です。
因縁解脱などというタワケを言っているのは島国のオカルト宗教のみです。
>「滅」→「苦悩が消滅して業のはたらきが停止した悟りの境地である涅槃は」
仏教の業(カルマ)とは「行為」という意味で、桐山さんがいうような、
行為の報いをもたらす潜在力なんて意味はありません。
この文章は煩悩による身口意の三つの行為(業)が停止した状態、つまり
煩悩から解放されたという意味です。
身口意の行為の中に煩悩が漏れていないから、これを煩悩からの解放、
漏尽解脱というのです。
「涅槃とは何か。煩悩の根本といわれる貪欲の滅、瞋恚の滅、愚痴の滅をいう」(相応部Ⅳ-38-4)
このように、滅とは貪瞋癡の煩悩の滅を指すのです。
四諦の苦集滅道の滅も同様で、煩悩から解放されることです。
どさくさに紛れて、業を桐山カルマみたいに解釈したつもりだろうが、
そんな意味は仏教の業にはありません。
>「縁起」→「さとりは縁起の滅した世界とされた。大乗仏教に至ってさとりの世界も空・無自性とする縁起説が基盤となった。」
すでに十年近くも議論しているように、これは一来補さんの国語の読解力の問題で、
上記の説明は部派仏教についての説明で、釈迦仏教の話ではありません。
「初期仏教時代の縁起説は,苦しみ悩む有情(うじょう)が主題となったため,
老死という苦しみの原因を無明(無知)に求める<十二支縁起>(十二因縁)説が
代表的なものであった.
続く部派仏教時代には・・(中略)・・・縁起を超越し縁起の滅した世界とされた.」
これが原文で、あなたが引用した文章は初期仏教ではなく、部派仏教の説明です。
「縁起の滅した世界」と記述している阿含経は存在しません。
アビダルマでも「縁起の滅した世界」など読んだことがない。
さとり、つまり涅槃が縁起の滅した世界なら、どうして大目連は撲殺されたのか?
縁起が滅したのなら、大目連は前世の悪業の報いを受けるのはおかしい。
「前世悪業→殺された」と縁起が成り立っています。
釈尊も「毒キノコを食べた → 食あたりになった」と縁起が成り立っています。
解脱者と言えども、入滅するまではこの世界に留まるのだから、
この世界の法則である縁起に支配されるのは当たり前です。
これらの事例を出されても、一来補さんはどうしてこれが
縁起なのか、理解できないでしょう?
一来補さんは桐山さんと同じで縁起の意味を理解していない。
これが「縁起の法」である。」
(阿含宗報360号、1頁)
「無常というのは常に変化しているということです」
(仏陀の真実の教えを説く[上]、239頁)
仏教では縁起も無常もものすごく重要な概念で、
これなくして仏教は成り立たない。
重要な概念なのに、桐山さんの説明では、両者がほとんど区別がつかない。
信者さんたちは、縁起も無常もものすごく難しい概念なのだと
信じ込んでいるようだが、縁起も無常も、釈尊は道端で無学な人たちに
説いて、しかも、その無学の人たちはその場で理解したのです。
チューラパンタカは知的障害があったと思われるが、
その彼も時間はかかった理解したのです。
だが、桐山さんの説明でチューラパンタカや当時のインドの庶民が
縁起と無常を理解できたと思いますか?
教育を受けた信者さんたちでさえも、両者の区別がつかず、他人には説明できない。
だが、当時の人たちは道端で理解したのです。
つまり、桐山さんの説明がおかしいのです。
これが「縁起の法」である。」
(阿含宗報360号、1頁)
「無常というのは常に変化しているということです」
(仏陀の真実の教えを説く[上]、239頁)
桐山さんの無常の説明は間違っていない。
だが、縁起を桐山さん理解していない。
私がその縁起の説明をして、桐山さんの縁起の説明がどう間違っているか
解説しても、信者さんたちは受け入れない。
だから、今回は桐山さんの縁起がどう間違っているのかは書きません。
信者さんたちに自分の頭が考えてほしいからです。
信者さんたちに、桐山さんのいう縁起を説明してほしい。
ここに書けとは言いませんから、アゴン宗のことを知らない人に
縁起とは何か、無常とどう違いのか、説明するつもりで、
自分の言葉や文章にまとめてください。
仏教を信仰しているのに縁起も説明できないなんておかしいでしょう。
信者さんたちの混乱に拍車をかけると「縁起=因縁」です。
「ガンの因縁」とは「ガンの縁起」です。
アゴン宗では因縁は運命の星のことです。
以上の情報から、桐山さんのいう「縁起の法」と無常とガンの因縁とを
わかりやすく説明してください。
あなたは準シュダオンさんですか?
最近では須陀オンの上位の段階も宣言しておられたようなので、もう聖者の流れに入っている訳ですよね?
須陀オンは修行の最初の段階であり、三結(身見・戒取・疑)を断ずることによって得られる
とのことですから当然、最初の「身見」は無くなっていなければなりません。
ところで、仏教語大辞典の中村博士は「身見」の第一の解釈として、「自己と自己の所有物とがある
と考える見解」と示しておられます。
また、「五取蘊のいずれかの中に我があるという見解」というのもありました。
これらの思いがなくなるとどうして解脱の役に立つのかを考えたことがありますか?
人間は自分の欲と自己の利益の実現を第一とする動物です。人はいつも我(自己)の欲求を満たす
ことを無意識に求められている。そのためには常に世間の事象と我(自己)とのかかわりを把握
していることが必要なのです。
常に我をどこかに見て、そこでとらえた我に関して、我が利が実現することを求めて心を動かしている。
だから、その心の動きがなくなっているのが「身見」なのです。
これは「身見」が本当に無くなったが否かのリトマス試験紙として使えますよね。
この我の思いがなくなれば正見や正知に近づくことが出来るのでしょうか?
我々には理解していないことがまだまだ沢山あるようです。
こいつら家族居ないのか?頭ほんとにいかれている。
阿含宗、桐山憎し怨みに取りつかれている分際でなにが釈迦が説いたのは煩悩解脱だよ!
てめえらが阿含宗、桐山憎し怨みの煩悩まみれのくせに説得力なし!
>>288>>289>>290
深山、ユビキタス基地外を援護しているてめえらも人間のクズ!
桐山密教占星術が27宿の音訳当て字の星とは半分正解だがまだまだ正解ではない!
ユビキタスの馬鹿は国会図書館に行って森田師の密教占星法読んだようだが読み込みがたらんね!
ユビキタスの低脳では、27宿の音訳当て字を桐山が適当に因縁の星にして本に書いた程度の推測がやっと!
桐山がここを見たら「馬鹿者があー」カッカッカと心中笑うだろう。
深山、ユビキタス、>>288>>289>>290こんなレベルだから桐山に騙されるだよ!
自己の反省がなく全部阿含宗、桐山が悪いだけ!
ひとつ桐山密教占星術の秘密を書いてやるお前たちはアホだから因縁の星は23種類しかないと思っているだろ?
桐山密教占星術の本に書かれていない星も沢山あるんだ。
訂正
誤)その心の動きがなくなっているのが「身見」なのです。
↓
正)その心の動きがなくなっているのが「身見」が切れたと言うことなのでしょう。
.
爾時七日後雨止清明。時龍王已見雨止清明。還解身不復遶佛。即化作一年少婆羅門。
在如來前。合掌跪。禮如來足。時世尊七日後從三昧起。即以此偈而讃曰
離欲歡喜樂 觀察法亦樂 世間無恚樂 不嬈於衆生
世間無欲樂 越度於欲界 能伏我慢者 此最第一樂
爾時文驎龍王。前白佛言。我所以身繞如來頭蔭如來者。不欲嬈觸如來。但恐如來身爲寒熱風飄日*曝蚊虻所嬈。
以是故。遶佛身頭蔭其上耳。佛告龍王。汝今歸依佛法。答言如是。我今歸依佛法。是謂畜生中受二歸依。
(大正蔵第22巻「四分律」786頁)
爾時七日後雨止清明。時龍王已見雨止清明。還解身不復遶佛。即化作一年少婆羅門。在如來前。合掌跪。
↓
そのとき、ナーガの王は雨がやんで空が晴れわたったのを見て、ブッダの身体に巻きついていた身をほどき、
魔法によって若いバラモンの姿と化してタターガタの前に現れ、合掌してひざまづき、足もとにぬかずいた。
(『ブッダの教え 初期経典をたどって』アンドレ・バロー著、大東出版社、61頁)
佛告龍王。汝今歸依佛法。答言如是。我今歸依佛法。是謂畜生中受二歸依。
↓
幸いなる師はナーガの王に言った。
「今はブッダに帰依し、教えに帰依せよ」「はい、今はブッダに帰依し、教えに帰依いたします」
動物たちのなかで最初にそのふたつに帰依したのは、このナーガの王だった。(同書62頁)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
釈尊はムチャリンダ樹のもとに赴き、その下で同じく結跏趺坐したまま、七日間、解脱の楽を受けながら座していた。
そのときムチャリンダ龍王が世尊に帰依した。
(『ゴータマ・ブッダ ー 釈尊伝』中村 元著、法蔵館、116頁)
292 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/02/08(月) 12:35:40.46 ID:d4GoZ5Op
ムチャリンダが帰依していないという点に信者さんたちにもっとショックを受けほしい。
私の知るかぎり、ムチャリンダは暴風雨から釈尊を守り挨拶しただけで、
この後、彼が仏教や釈尊を守護したという記述はありません。
つまり、彼は仏教の守護神などではない。
293 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/02/08(月) 12:38:51.53 ID:d4GoZ5Op
桐山さんからムチャリンダが守護神であるかのように教えられ、
龍神が現形したから、信者さんたちはアゴン宗が正しいことを
神仏が証明したかのように思い込んでいる。
だが、ムチャリンダは仏教とは関係ないのです。
暴風雨から守ったのだから、嵐の時に軒先を貸してあげたようなものです。
その家の主人が親切心から軒先を貸してあげて挨拶したらからと言って
釈尊に帰依したことにはならいし、ましてや今後の守護など
約束したはずがない。
こういうムチャリンダを勝手に守護神に仕立てて、
護摩に現形したなんて、なんか話が相当にいかがわしいと思いませんか?
327 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/02/09(火) 12:37:06.78 ID:8fgeDqbt
ムチャリンダが少年の姿に変身したという記述も良く読んでみると違う。
「自分のすがたをかくして、童子のすがたを現わして、」
変身したとは書いていない。
姿を隠してというのだから、大蛇が去った直後に村の子供が来て、
樹木の下に修行者がいたから合掌して挨拶しただけです。
このように経典の記述には現実的な説明がつきます。
↓
龍王は釈尊を守ってあげた後に挨拶したしただけだとか、
龍王が去った後に村の子供がきて挨拶したとか、
もう抱腹絶倒を通り越して読んでいるこちらが恥ずかしくなります。
このウンコ教授は、教団への憎しみをぶちまけることに必死になることで
逆に自分の無知をネット上に曝け出してしまったのです。
>桐山密教占星術が27宿の音訳当て字の星とは半分正解だがまだまだ正解ではない!
>ユビキタスの馬鹿は国会図書館に行って森田師の密教占星法読んだようだが読み込みがたらんね!
>ユビキタスの低脳では、27宿の音訳当て字を桐山が適当に因縁の星にして本に書いた程度の推測がやっと!
>桐山がここを見たら「馬鹿者があー」カッカッカと心中笑うだろう。
そのとおり、半分はまさにピッタンコでしたよ。
しかし全部28宿の星名である必要もない。
どうせ書いたところで誰もわからないだろうと、適当にあてはめればよいのですからね。
要は28宿でもなんでもよいのだ。
それよりも1つでも一致しているのがあれば、あれ?と思うのに、どうして半分も
まるまる一致することに疑問を持たないのですか?
具体的に質問しましょう。
「1 家運衰退の因縁」の星名は「キリキチャ」ですが、これは「1 昴宿」の梵名と一致します。
また「2 中途挫折の因縁」の星名は「ロケイニ」ですが、これは「2 畢宿」の梵名と一致します。
他にもこういう例がたくさんあるのですが、どうしてこういうことが起きるのでしょうか?
どうして家運衰退と昴宿が同じで中途挫折と畢宿が同じなんでしょうか?
全然別の概念ではありませんか?
これについて説明してください。
森田本をどう読めばそんな話になるのでしょうか?
ちなみに私はその日仕事は休みの日でしたが、別の所に行く予定でした。
しかしそれは中止になり、行きたいと思っていた国会図書館に行くことにしました。
アゴン宗とは関係ないことで調べ物があったので、そのついでに森田本も出して
もらいました。一度の受付で図書なら3冊まで出してもらえますからね。
桐山本は持って来ていなかったですし、持ち込めないですし、桐山本も対比作業のために
一緒に出してもらえばよかったですが、他の本来の調べ物もありましたので。
>ひとつ桐山密教占星術の秘密を書いてやるお前たちはアホだから因縁の星は23種類しかないと思っているだろ?
>桐山密教占星術の本に書かれていない星も沢山あるんだ。
「守護神を持て」だかの著者紹介には結核を患ったことも呼吸器系の病気の因縁により
そうなった旨が書いてありましたね。
要は後出しジャンケン的に何でも作ればいいんですよ。
エイズの恐怖で騒がれた時は、これは横変死の因縁だなんて桐山さんは話してましたね。
やっぱり現代語でないと理解しずらいし、著者自身理解してない部分があるようなのでちょっと期待外れだったかな。
ただ、資料をまめに集めてそれをただ、掲載したみたいでした。
もっと、著者自身の解説があってもいいと感じたので星2つ
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4893506838/ref=acr_offerlistingpage_text?ie=UTF8&showViewpoints=1
>>100円護摩木なんて釈尊の時代にない、これはあくまでも釈尊の時代の護摩の話だなどと
>トンチンカンなことを言う。
>>100円護摩木なんてアゴン宗の護摩にちょっと置き換えただけで、これは釈尊の時代の
>護摩にだって起こり得た、実際に起こっただろうと想像できる煩悩の話です。
>要は簡単な想像力です。少し想像を働かせれば、護摩って煩悩を増してしまうことにも
>繋がる危ないゲームだねとわかる。具体的にどんな煩悩がどんな悪影響を及ぼすかもわかる。
>ペテン大作さんにはそういう具体的な想像力がない。
>学者の論文だけで机上の思考しかできない。専門用語を駆使しても意味がわからないから
>言葉のもてあそびにしかならない。
自分等の妄想を信じろと言いたいようです。
まあそれがあなた方の限界なのですよ。
あなたの言っていることには矛盾があります。
想像が許される話なら最初から釈尊の言葉を引用する意味がありません。
釈尊の言葉を持ち出したのはあなた方批判側です。
あなた方は釈尊が護摩を禁じた理由を釈尊の言葉に求めたのですよね。
釈尊の言葉というのは仏教における資料として認められた言わば客観的なものです。
その客観的なものに釈尊が護摩を禁じた理由を求めたのだから、
あくまで客観的な資料である釈尊の言葉のなかに、護摩を禁じた理由を求めなければいけない。
ところがあなた方は釈尊の言葉から逸脱して個人的な感想や妄想を並べている。
それは釈尊の言葉では、護摩が煩悩を増やすことを証明できないからです。
>>100円護摩木なんて釈尊の時代にない、これはあくまでも釈尊の時代の護摩の話だなどと
100円護摩木の無い時代に釈尊はバラモンの護摩を禁じたのです。
だから釈尊が護摩を禁じた理由を説明するのに護摩木は無意味なのです。
護摩を焚くと煩悩が増えることを証明したければ釈尊の言葉を捜すしかない。
釈尊が直接「護摩を焚くと煩悩が増えるから護摩は禁止する」という言葉を探すしかない。
でもそんな言葉など何処にも見つからない。
そこであなた方は色々な理屈を並べては、何とか自説を認めさせようと躍起になる。
ところが自分等は理屈の言い放題のくせに相手の理屈は認めない。
ここにあなた方の生まれつきの我がままで自己中心的な性格が出ている。
でも諦めた方がよい。
残念ながら、あなた方は護摩が煩悩を増やす証拠を釈尊の言葉で見つけることはできない。
いくら理屈を並べても、他所からは妄想であると片付けられてオシマイです。
客観的なものを説明するのに想像や妄想では説得力はありません。
もし真言宗から文句を言われて彼らと争ってもあなた方に勝ち目はない。
だから早く自分等の妄想を訂正して、彼らを中傷したことの詫びを入れたほうが身のためです。
貴方の思いつきではなく、ちゃんと資料を添えて書きなさいね(^o^)/
護摩焚きが なにを意味するのか ?
諸仏・諸菩薩から教えてもらえば とても簡単なことです。
簡単明瞭な 当然中の当然なんですよ。
何らかの理由で 諸仏・諸菩薩へ あなた方の伸ばす手が届かないだけです。
護摩に関して論じるならば まずそこからです。
諸仏・諸菩薩から教えられてある程度理解したうえで、
始めて批判が可能となります。
何もわからなくて 批判されても さてこまりました。
>★★★砂場のウンコ教授はまともに経典を読んでいない(というか読めないwww)★★★
ペテン大作さんは相変わらず視野の狭い人だ。
あなたは漢訳経典のほうだけを見て、パーリ仏典を調べていませんね。
と言うよりも、自分の主張に合った文章を見つけたから、
調べようともしなかったのでしょう?
パーリ仏典が正しいか、漢訳経典が正しいかなんて議論をするつもりはありません。
だがパーリになく、漢訳にある場合、漢訳が付け加えではないかと
疑うのは、学者たちも普通にしていることです。
「だが、じつはちがうのである。パーリ文の律蔵、およびサンスクリット文の阿含経『四衆
経』は、それはムチャリンダ龍王と、二人の商人であるとつたえるのである。」
(『輪廻する葦』91頁)
桐山さんが論拠としたのがパーリの律蔵と四衆経です。
視野の狭いあなたはきれいに忘れているようだが、これを私は前提として批判したのです。
あなたが引用した文章は漢訳の律蔵で、桐山さんは論拠としていない。
また、パーリ仏典には、ムチャリンダが帰依したとはありません。
桐山さんが中村博士の文章を引用したが、あれはパーリ仏典です。
だから、私もわざわざパーリ仏典を元にした。
私は、あなたがどんなつもりだろうが、あなたと仏教について議論して
いるのではなく、桐山アゴン宗について議論しているのです。
あなたは視野が狭いから、桐山さんの書いている上記の前提なんて
きれいに脱落しているのだろうが、私はあなたと違い、桐山さんについて
議論をしているから、上記の文章を引用して、これを前提として批判したのです。
なく晴れわたったのを知って、世尊の身体からとぐろを解いて、自分のすがたをかくして、
童子のすがたを現わして、合掌して世尊に敬礼して、世尊の前に立った。」
(『輪廻する葦』92頁)
パーリ仏典の律蔵にあるのは、これだけです。
また、これが桐山さんが引用した文章で、議論の対象です。
学者の解説もあなたの説もいらない。
ムチャリンダは童子の姿を現し、合掌して敬礼した。
どこにも帰依したとはありません。
あなたは視野が狭いから、何を前提としているのかをきれいに忘れる。
ムチャリンダについて議論しているかのように錯覚しているのでしょう?
アゴン宗の現形について議論しているのです。
桐山さんが示した経典のどこにもムチャリンダは帰依したとは書かれていない。
だが、桐山さんは帰依したと書いている。
しかも、五比丘の話は初転法輪という説法の話であって、帰依ではないのに、
桐山さんは説法と帰依をごちゃ混ぜにして、さも自分こそが何か知っているかのように、
ムチャリンダが帰依したのだと書いた。
だが、桐山さんの引用した経典のどこにも帰依したなどと書いていないと指摘したのです。
漢訳の律蔵を引用して書いたのなら、帰依したという根拠にもなるでしょう。
だが、桐山さん本人が引用した経典にはどこにも帰依などとないにも
かかわらず、帰依したと書いた。
ペテン大作さんの頭ではこんな簡単な矛盾も理解できないのですか?
経』は、それはムチャリンダ龍王と、二人の商人であるとつたえるのである。」
(『輪廻する葦』91頁)
桐山さんの上記によれば、帰依の根拠はパーリ文の律蔵の他に、
阿含経の「四衆経」にあるという。
ペテン大作さんはどうして引用しないのですか?
という皮肉は書かない事にしましょう。
四衆経はサンスクリット文で漢訳はされていないから、我々は読めない。
桐山さんも読んでいるはずがない。
桐山さんがどうして四衆経という名前を引用したかというと、
中村博士がそのように書いているからです(『ゴータマ・ブッダⅠ』中村元、431頁)。
桐山さんはさもそういう経典も読んだかのようなふりをしながら、
まったく根拠のないことを書いている。
パーリの律蔵には帰依なんてありません。
ペテン大作さんがあるというなら、サンスクリット文の四衆経から引用するしかない。
そこに帰依したとあれば、桐山さんの説明は間違っていなかったことになる。
だが、桐山さんが根拠としていない漢訳の律蔵をいくら出しても、
桐山さんは根拠にしていないのだから、無意味です。
くり返すが、ここでの議論はムチャリンダが帰依したかどうかという仏教の
議論をしているのではなく、桐山さんの記述の是非を議論しているのです。
すなわち、タパッスとバッリカという二人の商人であった。」
(『ゴータマ・ブッダⅠ』中村元、437頁)
釈尊が最初の在家帰依者は商人であると述べている。
龍王が出家なはずはないから、帰依したのなら、在家です。
だが、ムチャリンダの帰依は述べられていません。
あなたはこの文言を引用されても、記憶しなかったのですね。
今回の漢訳経典と上記とが矛盾します。
そこで「どうしてだ?」と立ち止まって漢訳とパーリ仏典の
違いに着目してほしかったが、視野の狭いあなたは「深山破れたり!」と
歓喜奉行するばかりで、無理でした。
「「龍王」(ナーガ・ラージャ)というのは、あの猛毒を持つキング・コブラのことです。」
(『仏教かく始まりき』宮元啓一、春秋社、26頁)
前スレの107で龍王の学者解説の中に、この本をわざわざ引用したのもそれが理由です。
他のは辞典だが、これだけは学者の解説本です。
なぜなら、桐山さんの引用した中村博士と同じ、パーリ仏典の解説だからです。
あなたが漢訳経典で引用した「律」に相当する内容を解説したのがこの本です。
南伝大蔵経は入手が困難だし、ペテン大作さんは持っていないだろうし、
一来補さんにいたっては去年まで名前さえも知らなかった。
南伝大蔵経は文章も古くて読みにくい。
だが、上記の本は学者が現代語でムチャリンダの件を訳してくれている。
あなたのことだから、漢訳経典から帰依した文を見つけて、
「深山破れたり!」と大喜びで突撃して、自分からコケたのに、
私がまた激しく恨まれるのでは気色悪いからと、この本をわざわざ引用して
あげたのに、やはり無駄でしたね。
>★★★砂場のウンコ教授はまともに経典を読んでいない(というか読めないwww)★★★
桐山さんはパーリ仏典から引用して、ムチャリンダが帰依したと書いた。
だが、パーリ仏典のムチャリンダは帰依はしていない。
挨拶したとあるだけです。
私はそれを指摘したのです。
少年の件も、あなたは他の和訳を引用して批判していたが、
桐山さんが引用した中村博士の和訳は
「自分のすがたをかくして、童子のすがたを現わして、」
とあるのです。
私は「姿をかくして」を根拠として、学者の大蛇説に賛成だとしてこの件を出したのです。
あなたは変身だと主張して、聞いたこともない人の和訳をさかんに引用していた。
変身と和訳するのはそれぞれの自由です。
だが、桐山さん本人が引用した超一流の学者の和訳に「姿をかくして」と
あるから、それを根拠にしたのです。
聞いたこともないような人の和訳ではなく、金字塔のような学者の和訳を
そのまま用いたのです。
それが「砂場のウンコ教授」?
あなたから見て中村博士は砂場のウンコ教授らしい。
「「龍王」(ナーガ・ラージャ)というのは、あの猛毒を持つキング・コブラのことです。」
(『仏教かく始まりき』宮元啓一、27頁)
ムチャリンダという精霊説を唱えなくても、現実的な解釈が可能だという
述べることが、何かそんなにおかしいですか?
上記の本では、「少年の姿に変身し」とあなたの好きな訳をしている。
だが、同じ宮元氏は、
「・・龍王が変身して、というのはともかくとして、少年が、というは、
本当にあったことなのでしょう。」
(『仏教かく始まりき』宮元啓一、27頁)
と書いている。
中村博士はムチャリンダは実在する大蛇であり、宮元氏は人間の少年が
挨拶したのだと解釈しているのです。
私はこういう学者たちの説をただ紹介したにすぎない。
一流の学者の和訳であり、桐山さんも引用した文章を元に
現実的な解釈が可能だと書いているのに、あなたはその前提を
無視して、どこのだれかわからない人の訳を引用して、
変身したのだと主張していた。
変身したのかどうかを議論したのではなく、学者たちも述べているような、
子供がそこに現れたという現実的な説明でも可能だと述べたのです。
私の文章の単語に咬みつくことばかり夢中で、何を前提として書いているのか、
議論の本筋が理解できないのでしょう?
だから、今こうやって私からあなたの反論のピンボケぶりを指摘されても、
ただ怒り、憎悪を増やすだけで、何を言われているのかわかりませんよね?
>龍王は釈尊を守ってあげた後に挨拶したしただけだとか、
>龍王が去った後に村の子供がきて挨拶したとか、
>もう抱腹絶倒を通り越して読んでいるこちらが恥ずかしくなります。
漢訳経典どおりに帰依したとして、その後の守護の件はどうなったのだ?
私は、ムチャリンダは帰依もしていないし、守護も約束していないのだから、
アゴン宗の護摩に守護神として現れるのはおかしいと指摘して、
次のように書いた。
「この後、彼が仏教や釈尊を守護したという記述はありません。
つまり、彼は仏教の守護神などではない。 」
あなたはわざわざ私のこの文章を引用して、「恥ずかしい」などと
さもこの主張が否定されたかのようなポーズを取っている。
だが、あなたは引用した文章のどこに守護したとあるのだ?
漢訳経典に帰依したとあるのはいいが、守護するとはどこにもない。
帰依と守護は違います。
何の根拠もなく、ただ私の批判を否定したかのように見せかけている。
ペテン大作さんは時々これをするが、狐みたいな真似はしないほうが良い。
もっとも、宗教ペテン師の銀狐があなたの尊敬する師匠らしいから、
それを真似ているとすれば、そっくりです。
>もう抱腹絶倒を通り越して読んでいるこちらが恥ずかしくなります。
勝手な読み違いをして何を抱腹絶倒しているのか知らないが、
あなたの場合、復讐心から自爆しているのだから、報復絶倒です。
恥ずかしいのはペテン大作さんです。
なぜなら、あなたはアゴン宗のムチャリンダの現形を信じている。
ペテン大作さんに確認するが、あなたは
・ムチャリンダは仏教の守護神である、
・ムチャリンダはドラゴンの姿になってアゴン宗の護摩に現形した、
と信じているのですね?
ぜひこの点ははっきりさせたほうが良い。
これまでのあなたの書き方は、そうであるような、ないような、
ウナギのようにヌルヌルと曖昧な言葉で逃げて、話をそらせている。
いかにも卑怯者のペテン大作さんらしい。
細かい屁理屈はいいから、上記の質問にイエスかノーか簡単に答えてください。
卑怯者だから、答えないだろうなんて予想させないでください。
あなたが信じていると表明しても、誰も抱腹絶倒などしない。
あなたには、敵の敵の味方らしいから、私をやっつけるためなら、
アゴン宗の擁護をするしかない。
どうせあなたの頭は生首霊能者や大川仏陀様までいるオカルト満載なのだから、
ムチャリンダは仏教の守護神であり、アゴン宗の
焚火に現形して、挨拶までした、と書いたらどうか。
>もう抱腹絶倒を通り越して読んでいるこちらが恥ずかしくなります。
・ムチャリンダは仏教の守護神である、
・ムチャリンダはドラゴンの姿になってアゴン宗の護摩に現形した、
ペテン大作さんが上記を本気で信じているほど頭が狂っているのか、
それとも敵の敵を味方しているだけの卑怯者なのか、よくわからないのです。
あなたが引用した文章にも、ムチャリンダ仏教の守護神となったという記述はない。
にもかかわらず、あなたも桐山さんと同じで、ムチャリンダは
仏教を守護する龍王だと信じるのですね?
また、その守護神としてのムチャリンダ龍王が、
中国製のドラゴンの着ぐるみを着て、水辺の神なのに、
アゴン宗の火の中に現れたと信じているのですね?
もちろん信じるのはあなたの自由で、私がムチャリンダを実在の
蛇であり、子供が来て挨拶したと信じるのも自由です。
世間の人たちから見た時、ムチャリンダは蛇であり、子供が現れたと
解釈する私と、精霊のムチャリンダが中国製のドラゴンの着ぐるみを
着て、外道のアゴン宗の焚火の中に現れたと信じるペテン大作さんとで、
どちらを「砂場のウンコ教授」だと思うでしょうか。
>>324
資料もなにも秘密秘伝密教占星術をお前らみたいな低能馬鹿にしかも匿名掲示板で明かせるかいな。
そんな事も分からんか?
>全くデタラメだったから退会したことを述べ
それていいだろう!
手前が馬鹿だったから阿含宗に入会してしまった。
それで話終わるだろ?
ネチネチ女の腐ったように阿含宗憎し、基地外深山、ユビキタスの援護している!
自分の異常性に気がつけ!
>想像が許される話なら最初から釈尊の言葉を引用する意味がありません。
>釈尊の言葉を持ち出したのはあなた方批判側です。
>あなた方は釈尊が護摩を禁じた理由を釈尊の言葉に求めたのですよね。
>釈尊の言葉というのは仏教における資料として認められた言わば客観的なものです。
>その客観的なものに釈尊が護摩を禁じた理由を求めたのだから、
>あくまで客観的な資料である釈尊の言葉のなかに、護摩を禁じた理由を求めなければいけない。
>ところがあなた方は釈尊の言葉から逸脱して個人的な感想や妄想を並べている。
読者の皆さん、ご覧ください。
釈尊は物事をはっきりと答えることよりも相手に考えさせる説き方をすることが多かった。
西から来たバラモンが祈りによる先祖の昇天を説いた時でも、釈尊はそんなことは
できないよ、とは説かなかった。村長に対して、石よ、浮かべと念じたら浮かぶであろうか
と質問して自分で気づかせたのです。
気付けるという知性は物事を関連付けて考える常識素養を持っているからです。
自分で考える力のない奴はいつまで経っても自立できない。
釈尊は限定的にしか発言しない。ならば後はこれまでの釈尊の教えと日頃の弟子にあたる
態度、注意、さらに石は浮かばないと同じく常識を働かせて関連付けて考えて結論を
出さねばならないのです。全くの想像ではなく、いろいろな条件が揃っているのです。
ところがペテン大作さんは釈尊の言葉がないと判断できないようだ。
そのくせ煩悩は増大しないと判断してるようだが。
常識から考えると祈祷みたいのに頼ってると依存心(煩悩です)とか育つことは
想像に難くないのに。
ペテン大作は「ニイハオ、私は孔子です」と言ったように、釈尊のエル・カンターレが取り憑いて
「カレ~にして~ね、か~さん♪ハウ~スインドカレ~♪
ナマステー。私は釈迦です。煩悩は護摩を焚くと増えるんだぜ」
という回答がない限り納得しないのだそうだ。
自分の頭で考えられない。批判側が言ったから批判側が悪いんだとか。
子どもか?
>100円護摩木の無い時代に釈尊はバラモンの護摩を禁じたのです。
>だから釈尊が護摩を禁じた理由を説明するのに護摩木は無意味なのです。
金のかかる条件の話ではないのです。
護摩木販売という媒体の有る無しの条件の話ではない。
護摩というものが祈祷であるならば、有料だろうが無料だろうが、護摩に参列したり
願いを託した人は叶おうが叶わなかろうが、どんどんそれに頼り、依存心という
煩悩を強めていくことは想像に難くないことをサトッタリーナさんは語っているのが
わからないか?これも自分の頭で関連付けて考える能力が無いからです。
いや、能力が無いとは思えない。しかしそれをやってしまうと、煩悩の起きやすい
可能性を認めざるを得ないので、必死にそちらには持っていきたくないと
ナマステーのエル・カンターレが発言してくれなきゃ、僕は考えることを拒否すると逃げたのです。
>資料もなにも秘密秘伝密教占星術をお前らみたいな低能馬鹿にしかも匿名掲示板で明かせるかいな。
ぶひゃひゃ。ごまかしとる、こまかしとる。
まるで自分はその桐山秘密密教占星術の秘伝を知っているかのように示してさ。かわいいね。
そもそも桐山さんが秘伝をいつまでた経っても教えてくれないのが悪いというのが
あなたが元信者たる退会理由でなかったか?
>手前が馬鹿だったから阿含宗に入会してしまった。
>それで話終わるだろ?
終わるわけないだろ。なぜアゴン宗の欺瞞を明かして悪い?
この退会したくせに桐山さんを疑おうとすらしない洗脳元信者が。
私、罵りの煩悩が出ないように堪えることができなくなりましたので、ちょっと叫ばせてください。
ばーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーか!
ほ~ら思った通り逃げやがった、桐山にクリソツだな(笑)
な~にが秘密秘伝密教占星術だよwそんなもん無いから出せないだろw
プッ、深山氏やユビキタス氏の擁護などしたことないからね(^o^)/
まず、お前の異常性に気がつけよww
阿含宗憎しで書いたこともないしw
阿含宗のコレっておかしいんじゃないの?って書いているだけだからね(~=~)
例えば桐山の因縁が切れてないとかね(笑)
>須陀オンは修行の最初の段階であり、三結(身見・戒取・疑)を断ずることによって得られる
>とのことですから当然、最初の「身見」は無くなっていなければなりません。
なぜ須陀オンの修行の最初が身見を断ずることなのでしょうか?
再度書きますが、我が利を求める欲の心は、我(自己)と世間との事象との関係をまず見に行きます。
これは自分のものだ、自分自身だ、自分とは関係がない、自分の一部だ、自分がそのものの一部だ、などと見ます。
その事象が「我」と関係があるものである、すなわち「我・我所」を認識できたら、これに対して
自己中心の行動を起こし我が欲を実現しようとします。
貪欲・瞋恚・愚痴など我が利を欲して動く心がなくなるには、我・我所の見が無くならなければなりません。
まず、自己の欲の実現を中心にした心の動きがなくならねばなりません。
だから「身見」を断ずることが最初に必要なのでしょう。
>>328 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/02/28(日) 18:12:05.25 ID:XIEwEAX4
>あなたは漢訳経典のほうだけを見て、パーリ仏典を調べていませんね。
>と言うよりも、自分の主張に合った文章を見つけたから、
>調べようともしなかったのでしょう?
>パーリ仏典が正しいか、漢訳経典が正しいかなんて議論をするつもりはありません。
>だがパーリになく、漢訳にある場合、漢訳が付け加えではないかと
>疑うのは、学者たちも普通にしていることです。
>>317に引用したアンドレ・バローの訳は漢訳経典からではなく、パーリの律蔵からの訳です。
漢訳の四分律の下に並べてあったから、あなたはこれを漢訳経典の訳だと早とちりしたのでしょう。
残念でした。
そのとき、ナーガの王は雨がやんで空が晴れわたったのを見て、ブッダの身体に巻きついていた身をほどき、
魔法によって若いバラモンの姿と化してタターガタの前に現れ、合掌してひざまづき、足もとにぬかずいた。
(『ブッダの教え 初期経典をたどって』アンドレ・バロー著、大東出版社、61頁)
幸いなる師はナーガの王に言った。
「今はブッダに帰依し、教えに帰依せよ」「はい、今はブッダに帰依し、教えに帰依いたします」
動物たちのなかで最初にそのふたつに帰依したのは、このナーガの王だった。(同書62頁)
この二つの翻訳は“ダルマグプタカ派のヴィナヤ・ピタカより”と書いてあります。
ダルマグプタカ派(法蔵部)のヴィナヤ・ピタカ(律蔵)からの翻訳なのです。
律蔵とは、パーリ仏典の三蔵における最初の蔵のことですよね。
つまりバルローの翻訳はパーリ仏典からのものだということになります。
そこには「ムチャリンダ龍王は少年バラモンに変身して釈尊に帰依した」と書かれているのです。
>>328 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/02/28(日) 18:12:05.25 ID:XIEwEAX4
>あなたは漢訳経典のほうだけを見て、パーリ仏典を調べていませんね。
>「だが、じつはちがうのである。パーリ文の律蔵、およびサンスクリット文の阿含経『四衆
>経』は、それはムチャリンダ龍王と、二人の商人であるとつたえるのである。」
>(『輪廻する葦』91頁)
>桐山さんが論拠としたのがパーリの律蔵と四衆経です。
>視野の狭いあなたはきれいに忘れているようだが、これを私は前提として批判したのです。
>あなたが引用した文章は漢訳の律蔵で、桐山さんは論拠としていない。
ところが、その桐山さんが論拠としたパーリ仏典自体に、
ムチャリンダが帰依したと書かれてあるのだから万事休すです。
私は桐山さんの文章を前提に話しているなどという理屈は通用しない。
もう子供ではないのだから、いい加減そういう言い逃れはやめた方がよい。
大体、あなたは桐山さんが大嫌いなんだろう?
そのあなたが何で桐山さんの言う事を鵜呑みにせずに自分で調べなかったのだ?
あなたは桐山さんが嫌いなだけで仏教そのものには興味が無いということか。
自分でパーリ仏典を調べもしなかったのはあなたにすべての責任がある。
誰も責められませんね。
>また、パーリ仏典には、ムチャリンダが帰依したとはありません。
あなたはこのように堂々と宣言してしまった。
「いや、これは桐山さんの文章によるとこう書いてある」では通りません。
「深山という砂場を徘徊する仏教学の教授気取りの男は、実は経典をろくに読みもせず教団批判をしている」
この事実は、このスレが続く限り話のネタになるでしょう。
お疲れ様でした。
×★★★バルローの訳は漢訳経典からのものではない(ウンコ教授またしても失策)★★★
○★★★バローの訳は漢訳経典からのものではない(ウンコ教授またしても失策)★★★
★★★バローの訳は漢訳経典からのものではない(ウンコ教授またしても失策)★★★
>>332 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/02/28(日) 18:31:34.76 ID:XIEwEAX4
>だが、桐山さん本人が引用した超一流の学者の和訳に「姿をかくして」と
>あるから、それを根拠にしたのです。
>聞いたこともないような人の和訳ではなく、金字塔のような学者の和訳を
>そのまま用いたのです。
>それが「砂場のウンコ教授」?
>あなたから見て中村博士は砂場のウンコ教授らしい。
いや、ウンコ教授はあなた一人です。
中村博士も龍王は帰依したと述べていますよ。
別の本ですがw
>>317
釈尊はムチャリンダ樹のもとに赴き、その下で同じく結跏趺坐したまま、七日間、解脱の楽を受けながら座していた。
そのときムチャリンダ龍王が世尊に帰依した。
(『ゴータマ・ブッダ ー 釈尊伝』中村 元著、法蔵館、116頁)
>あなたは桐山さんが嫌いなだけで仏教そのものには興味が無いということか。
そっくり言い換えられるな。
あなたは深山さんが嫌いなだけで仏教そのものには興味が無いということか。
大蛇に守られて座っておられるお釈迦様の像を見ました。
誰もいなかったら 私は ずっとそこに座っていたと思います。
そそくさと去りました。
>釈尊が直接「護摩を焚くと煩悩が増えるから護摩は禁止する」という言葉を
>探すしかない。 でもそんな言葉など何処にも見つからない。
わたしの解釈では、
釈尊は祝術というものを離れて仏道を説いた。
です。
祝術をやっても生・老・病・死の四苦は無くならない。
祝術をやらなくても生・老・病・死の四苦は無くならない。
霊魂があると考える人の生・老・病・死の四苦は無くならない。
霊魂が無いと考える人の生・老・病・死の四苦は無くならない。
釈尊は、上記のような人間が結論を出せないようなことに
あれやこれや述べたところで、生・老・病・死の四苦の
解決につながらないことは、それらは無意味であると考え、
そこから離れて仏道を説いたのだと思います。
ですから、明確に「禁止」の語句がなかったとしても、
釈尊は、池に石を投げ込む喩え、水に油は沈まない喩えなどを
持ち出して、みんなに悟らせたのです。
これは釈尊が命令として護摩を禁止したのではなく、
自主的に中止することを引き出したと解するべきでしょう。
釈尊は、護摩を焚いてもそれは意味の無いことだから、
やめさせようと内心は思っていたかもしれません。
しかし、そこは名教師の手腕
自身が気づいて自身の意思でやめるよう誘導したのでしょう。
前回と同じような繰り返しになりますが、
病気が治りますように・・・と護摩を焚いて祈ったからと言って
病気が治る「道理」が無いのに、なおも祈っているうちに、
心に不満がつのり、ご利益を求める欲求は際限なく続いてしまう。
いわゆる「餓鬼」の状態に陥るわけです。
みんながみんなそうだとは思いませんが、
なかにはそういった人がいるということは想像に難くないです。
これを「煩悩の増大」と呼ぶことに、わたしは違和感はありません。
だから、護摩を焚くことは煩悩を増大するとの見解は的外れなものでは
ないと思います。
阿含宗が阿含経を拠り所としているのに、一方で護摩木を販売するのは、
おかしいと思います。
>ばーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーか!
おいおいw 阿含宗低能批判者のくせに誰かを馬鹿にするなよ。ここ砂場なんだぞ!?
砂場で威張ったら、恥ずかしいだろ?
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>342 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR :2016/02/28(日) 22:46:30.90 ID:jNwXCXLL
>>あなたは桐山さんが嫌いなだけで仏教そのものには興味が無いということか。
>そっくり言い換えられるな。
>あなたは深山さんが嫌いなだけで仏教そのものには興味が無いということか。
言い換えてないだろ。wwwwwwwwww
>471 :神も仏も名無しさん:2014/08/18(月) 19:41:39.62 ID:yFRrBzrD
>書き込みの多さみてみろ こんなことできるのは仕事だからじゃん。
つまり深山は仕事でやってるプロか。その割には 論破されまくりの阿含宗低能批判者だな。w
もう滅茶苦茶だな。コピペ撒きの言い訳も滅茶苦茶だし。w
これは文字に書いていないことを把握、理解する重要性を語ったもので、
行と行の間を読む と表現したものです。
>おいおいw 阿含宗低能批判者のくせに誰かを馬鹿にするなよ。ここ砂場なんだぞ!?
>砂場で威張ったら、恥ずかしいだろ?
これも言い換えられるな。
おいおいw カルト低能批判者のくせにアゴン宗批判者を馬鹿にするなよ。ここ砂場なんだぞ!?
>砂場で威張ったら、恥ずかしいだろ?
国太郎はそもそもカルト批判者なんだそうだ。
カルトなんて低脳がひっかかるものだ。
幸い国太郎は低脳ではなかったらしく、カルトには騙されなかったらしい。
しかし国太郎は思った。カルト信者もカルト元信者も低脳で馬鹿だ。
だったら俺(国太郎)はその低脳な奴らをこの砂場で馬鹿にして欲求不満を解消でもするか。
国太郎にとっても、ここは砂場なんです。
表明されては、如何かと推奨した記憶が在る。
先日、小生の畏敬する作家であり且つ出版社を経営されていた
故山本七平氏の随筆を読み、小生は考えを改める次第となった。
「悪口と自慢話を軸に据えた書物は売れません」なるほど己が自慢と
悪口では世間に裨益すべき内容と教導する宗教として持って居ないわけです。
誠に先達はあらまほしき者であります。
深山氏が悪口を書いているのを見たことがないのだが・・。
どれが悪口なのか教えて頂けないですか?
>これも言い換えられるな。
>おいおいw カルト低能批判者のくせにアゴン宗批判者を馬鹿にするなよ。ここ砂場なんだぞ!?
>砂場で威張ったら、恥ずかしいだろ?
ハイまたまたまたハズレ~www
ホントに能が無いな。
オレのカルト批判は誰も言い返せないぞ? 何故なら隙が無いし正論だから。
相手を負かすためのデッチアゲじゃないから。
で、阿含宗低能批判者は、相手を負かすためのデッチアゲ言ってまたまた揚げ足を取られて終わり。
うける阿含宗低能批判者ww
>だったら俺(国太郎)はその低脳な奴らをこの砂場で馬鹿にして欲求不満を解消でもするか。
はいまたまたデッチアゲの言い掛かり。
自分たちと相手が同じだと思うなよ。っても無理か。
安直だから、自分たちと相手が同じだと思っちゃうよな。素直だな~いや、安直だな~。www
>国太郎にとっても、ここは砂場なんです。
これもハズレ。
砂場は、誰にとっても砂場です。砂場は砂場です。
さあ来年も、砂場で自分より低能をフルボッコする遊びに依存しよう!!
カルト依存の次は、砂場で信者をフルボッコ依存だ。
カルト信者時代も、じつはマスタベイションのくせに正しいと思ってやってた。
そしてカルト卒業後も、マスタベイションのくせに正しいと思ってやってる~www
結局、どこまで行っても、おんなじなんだなあ
オマイらカルト信者って。www
だったらお前もここに来てネチネチ深山氏の悪口書きにくるなよw
アホだなwww
まあ、元カルト信者ですからねえ。w
>351 :だったらお前もここに来てネチネチ深山氏の悪口書きにくるなよw
>アホだなwww
まあ、カルト信者ですからねえ。w
オリジナル深山Tシャツ http://store.shopping.yahoo.co.jp/babayaku/f00036.html
>もし真言宗から文句を言われて彼らと争ってもあなた方に勝ち目はない。
>だから早く自分等の妄想を訂正して、彼らを中傷したことの詫びを入れたほうが身のためです。
いいえ、真言宗などこの手の指摘、批判など昔から当たり前に受けており自覚している
と思います。ただそれに対して屁理屈の弁明しかできないだけで。
桐山さんの密教時代の古い著書で、「変身の原理」と「念力」にこのような話がある。
それが途中で追い出された音羽の護国寺の講伝なのか別の実話なのか、あるいは
全くの作り話なのかわからないが、桐山さんは真言密教のある学術大会に出席した。
司会者は質疑応答の時間にある問題提起をした。「仏教は本来欲望を否定するものである。
然るに密教が加持祈祷をするのは欲望を煽るようなものであるが、この点いかがか?」
すると大会に出席した阿闍梨たちは皆同じように、「たしかにその問題は我々にとっても
耳の痛い頭の痛い問題である。自分で矛盾すらも感じる。しかし密教に加持祈祷 は不可欠だ。
私は加持祈祷は正しい法に誘引するための方便だと考えている」
これを聞いて桐山さんは自分は法の捨て石となって祈ると誓うのだが、それはさておき、
このような指摘、批判は当たり前にあったと思う。ペテン大作さんのように
そんな批判は初耳だ!許し難いことだ!謝れ!と捉える方が一般の常識感覚として
どうかと思います。
護摩は加持祈祷の一手法です。欲望は煩悩です。不当な欲望は煩悩であり
商売繁盛などを祈るのは不当な欲望と指摘され阿闍梨たちは反論できなかったのです。
昔から真言宗においても自覚されていた矛盾を指摘して、どうして文句を言われようか?
加持祈祷と欲望・煩悩を減らしなくすジレンマなど、仏教を少しでも知っていれば、
誰でも気付く話であり、真言宗も馬鹿ではないのです。
ただきちんと反論できず、ごまかしているか開き直っているだけです。
まず自分の見解を捨てて、仏教辞典の説明を素直に受け入れることです、小学生になったつもりで、批判精神は捨てること。
それが我見を断つ第一歩です。
岩波仏教辞典の「煩悩」の語の説明の中に、
「煩悩の束縛を脱することが大乗仏教の求めるさとりにほかならない」とあります。
「悟り」の語の説明の中には、「輪廻の迷いから智慧の力によって解脱しなければならない」とあります。
「解脱」の語の説明には煩悩からの解放と輪廻からの解脱と二つの意味を挙げています。
「滅」の説明の中には、「苦悩が消滅して業のはたらきが停止した悟りの境地である涅槃」とあります。業のはたらきが停止したとは、輪廻をあらしめる力が停止したという意味ですから、この「滅」の説明は阿含仏教(初期仏教)のさとりのことですね。
これらを理解すれば、阿含仏教のさとりは縁起の滅した世界とされた、の意味もわかると思われます。釈尊は輪廻を縁起(因縁)として説明したからです。
釈尊の自説経の「諸々の縁(因縁)の滅尽を知れるがゆえなり」とのさとりの言葉は、勿論、輪廻の因縁の滅尽のことをさしています。
桐山師の因縁解脱とは単に○○の因縁だけではなくて、この輪廻の因縁の滅尽をも意味するわけです。
過ちを改めるに憚ることなかれ。
因縁解脱を理解することは、何時からでも可能です。
>★★★バルローの訳は漢訳経典からのものではない(ウンコ教授またしても失策)★★★
早とちりはあなたのほうです。
ペテン大作さんてどうしていつもそうやって早々と勝利を宣言するのだ?
最近は勝利宣言だけでなく、罵りが増えたのを見れば、
あなたが猛烈に悔しがっているのだけはわかります。
求道心は皆無で、憎しみだけ強く、不思議大好きなオカルト親父らしい。
中途半端な知識を振り回さないで、もう少し丁寧に「この本にはこのように
書いてあるが、どうか」と普通の議論ができないのですか?
そうやって勝利の薄笑いをしながら突撃して、いつも自分で滑って転んで、
大恥を毎回かいても、あなたはいつも忘れ、まったく学習せずに、また同じ事をする。
さらには、どんなに恥をかいても、自分が勝利したのだと宣言する。
今回、またです・・・私はため息が出る。
正しい知識を教えるたびに、あなたは私に感謝するのではなく、
さらに逆恨みするかと思うと、笑う気にもなれない。
現実世界でのあなたや一来補さんや宝生さんの周囲の人たちには心から同情してしまう。
>この二つの翻訳は“ダルマグプタカ派のヴィナヤ・ピタカより”と書いてあります。
ペテン大作さんて、相手が本を持っていないだろうとばかりに、
こういう嘘を平気で書く人なんですね。
違います。
正しくはこの本には次のように書いてある。
「ダルマグプタカ派のヴィナヤ・ピタカより。大正蔵二二巻「四分律」七八六頁中」
(『ブッダの教え』アンドレ・バロー、62頁)
どうして後半を抜いたのだ?
あなたの主張には都合が悪いからですよね?
桐山さんとそっくりで、ばれなければ、自分の都合の悪い部分を削除する。
前半だけならいかにもパーリ仏典らしいが、後半を出したら、
漢訳経典だとわかってしまう。
そこで、前半だけを引用し、後半をカットした。
どうしてこういう悪質なことを平気でするのだろう?
相手をぶちのめすためなら、何をしてもいいというのが、あなたの道徳心らしい。
(『ブッダの教え』アンドレ・バロー、62頁)
『ブッダの教え』の本には青い帯がついていて、次のように書いてある。
「漢訳経典を平易な基本的なフランス語で・・・」
漢訳経典であることをわざわざ強調してあるのに、どこを見ているのだ?
それとも百も承知で無視して、
「バルローの翻訳はパーリ仏典からのもの」
などと嘘をついたのか。
上記の「大正蔵二二巻「四分律」七八六頁中」の大正蔵とは、
あなたが>>317で原文を引用した大正新脩大蔵経のことです。
この原文と、バローの訳した内容がほぼ一致していることに
あなたは奇妙だとは思わなかったらしい。
これだけ明瞭に漢訳経典から引用したと強調してあり、
しかも内容も一致しているのに、
「漢訳経典からのものではない」??
ここまで矛盾点と嘘を指摘されても、あなたはまだ理解できない。
きっと「バローはパーリ仏典と漢訳の両方から引用したのだ」などと
その狭量な脳味噌で屁理屈をまた考えているのでしょう。
それも違います。
あなたの長年の無礼・非礼に、私はこのままあなたを無知と混乱の中に
放置したい誘惑にかられる。
なにせ、議論のテーマ自体がこのスレからすでに外れているのだから、
私があなたに正しい知識を教えるべき義務はない。
あなたは無知が原因で「深山破れたり」と勝利宣言して、
独りでハシャギ、私はあなたの無知と醜態を横目で笑うという選択もある。
だが、私はここであなたや一来補さんや宝生さんのような愚か者と
議論するのが目的ではなく、信者さんの一人でいいから、正しい仏教の知識を知り、
アゴン宗が仏教とは似ても似つかない外道だと気が付いてもらうのが目的だから、
その信者さんのために説明しましょう。
>この二つの翻訳は“ダルマグプタカ派のヴィナヤ・ピタカより”と書いてあります。
>ダルマグプタカ派(法蔵部)のヴィナヤ・ピタカ(律蔵)からの翻訳なのです。
>律蔵とは、パーリ仏典の三蔵における最初の蔵のことですよね。
>つまりバルローの翻訳はパーリ仏典からのものだということになります。
あなたは「ダルマグプタカ派(法蔵部)」が何であるか何も知らないで書いている。
カタカナ文字で上座部だから、パーリ仏典だと思い込んでいるのでしょう?
違います。
彼らこそが漢訳の律の元となったグループです。
法蔵部の持っていた律こそは漢訳経典の律蔵になったのです。
律には主にパーリの南伝、中国系、チベット系に分かれ、
この中国系の律の元となったのが法蔵部の律です。
極端に言えば「法蔵部の律 = 漢訳経典の律」です。
これを理解すればバローが書いた次の引用元の意味も理解できます。
「ダルマグプタカ派のヴィナヤ・ピタカより。大正蔵二二巻「四分律」七八六頁中」
(『ブッダの教え』アンドレ・バロー、62頁)
両者は同じものだから、両方を併記したのです。
そして内容はあなたが引用した大正新脩大蔵経そのままです。
もちろん、パーリ仏典の律とは別物です。
「バルローの翻訳はパーリ仏典からのもの」というあなたの主張は無知から来る嘘です。
「無知」と書いたのは、あなたを弁護してあげたのですよ。
>中村博士も龍王は帰依したと述べていますよ。
だから、何なのですか?
中村博士はパーリ仏典も漢訳仏典も両方読んでいる。
そこから彼の見識として帰依したと書いた。
だが、桐山さんが引用したのは、中村博士のパーリ仏典だけです。
そこには帰依という文字はありません。
私は、桐山さんが引用したパーリ仏典には書いていないと批判しているのです。
あなたを喜ばせてあげると、パーリ仏典の和訳の中にも
帰依したと訳した学者もいます。
理由は省略するが、私は誤訳だとみなしている。
だが、ムチャリンダが帰依したかどうかを議論しているのではない。
あなたは毎回こうやって論点をずらす。
それとも、論点が定まらないくらい脳味噌が拡散しているのか?
あなたとムチャリンダの議論をしているのではなく、
アゴン宗の現形の話をしているのです。
ムチャリンダが帰依したかどうかを議論しているのではない。
「桐山さんの引用した経典にはムチャリンダの帰依などないのに、
帰依したと嘘を書いている」
と私は批判しているのです。
それなのに、どうしてあなたはバローの訳や、中村博士の
解説を引用しているのですか?
どうしても桐山さんを擁護したければ、桐山さんの引用した経典に
帰依の話を探すしかない。
だが、そんなものはない。
桐山さんの引用した文章には帰依などないのに、桐山さんは帰依したと書いている。
明瞭な嘘です。
(『ブッダの教え』アンドレ・バロー、62頁)
信者さんたちに上記を良く見てほしい。
ペテン大作さんは気が付いていないようだが、バローの訳の中に、
とんでもないことが書いてある。
「動物たちのなかで」とある。
つまり、ムチャリンダは動物だと書いてあるのです。
漢訳の律蔵でも「畜生」とあるから、バローの訳は正しい。
信者さんたちはムチャリンダを精霊だと信じていますよね?
蛇の姿から少年の姿に変身するのだから、本物の蛇では無理です。
また、精霊だからこそ、信者さんたちは炎の中に現形したと信じている。
だが、漢訳経典にははっきりと動物であると書いてあるのです。
動物ならムチャリンダは蛇しかありえないが、蛇なら少年に変身できるはずがない。
信者さんたちは精霊と信じたいが、漢訳経典では動物だとある。
この矛盾をどう説明しますか。
無理ですよね。
「宗教なんだから合理的に説明のつかないことはある」というだろうが、
他と矛盾しているのではなく、その宗教の中で互いに矛盾しているのです。
釈尊は知性を説いたのだから、もっと普通に考えたらどうですか。
(『ブッダの教え』アンドレ・バロー、62頁)
精霊だとか、蛇が帰依したとか、変身したなんて考えるからおかしいのであって、
普通に考えれば簡単です。
釈尊のそばに動物の蛇がいて、行き違いに村の子供が通りかかって
挨拶したのだろうと考えれば、何の矛盾もありません。
ムチャリンダは阿含経には二度と出てこないのも説明がつく。
経典の構造をみればもっとよくわかる。
偈と呼ばれる一番短い部分こそが元の姿と言われています。
偈の釈尊の言葉には、生き物への害心がないと述べているだけです。
つまり、蛇などに嫌悪することもなかったと述べているだけです。
だから、蛇のような普通は嫌われる生き物が釈尊の身体の上を這ったのでしょう。
漢訳とパーリを比較すると、帰依する部分だけが後で付加されたのが明瞭です。
ムチャリンダが挨拶して、釈尊が偈を述べるところまでは両者には大きな違い
はないのに、漢訳ではその後に唐突に帰依の話が出てきます。
元の伝承を直すのは恐れ多いから、付け加えたのです。
列車に後で勝手に客車を一両付け加えたような構造です。
こうやって後世になればなるほど話が拡大して、やがて、
東の島国のオカルト教団では、ムチャリンダは中国製のドラゴンの着ぐるみを着て
炎の中に出てくる話にまでなった。
無知と狂信がただの蛇を、オカルト教団を守護する火の中のドラゴンにまでなった。
話に尾鰭が付くように、アゴン宗では蛇に手足が付いて、
「無知リンダ」と「無茶苦茶リンダ」が出来上がった。
>あなたは「ダルマグプタカ派(法蔵部)」が何であるか何も知らないで書いている。
>カタカナ文字で上座部だから、パーリ仏典だと思い込んでいるのでしょう?
>違います。
>彼らこそが漢訳の律の元となったグループです。
>法蔵部の持っていた律こそは漢訳経典の律蔵になったのです。
>もちろん、パーリ仏典の律とは別物です。
そう来ると思っていました。
あなたはバローの本を持っていたのですねw
では、これはどうでしょう。
これも漢訳経典からの翻訳なのですか?
ムチャリンダ(目真隣陀、牟枝隣陀)龍王の守護を伝える資料は多い。
その中で、「仏伝」の第一次資料として、
『ヴィナヤ』(Vinaya)マハーヴアッガ(Mahavagga)一三は、以下の如く伝える。
さてムチャリンダ龍王は、七日を過ぎて後、空も清明で雨も止んだのを見て世尊の身体からトグロを解き放ち、
その本来の姿を捨てし童子の形に化作し、'合掌して世尊に帰依しつつその前に立った。
(bhagavato kaya bhoge vinivethetva sakam paria manvannam abhinnininn bhagavato Puaato atthai anjalko bha namassano.)(Vin,I,P.3)
ナーガ(Naga)考 雲井昭善 file:///C:/Users/user/Desktop/1986_13.pdf
下記の質問には答えない卑怯者だと書いたら、そのとおりで、何も答えない。
質問1.ペテン大作さんはムチャリンダは仏教の守護神であると信じているのか?
質問2.ペテン大作さんはムチャリンダはドラゴンの姿になってアゴン宗の
護摩に現形したと信じているのか?
彼がどうして答えないのだと思いますか。
どちらを主張したほうがより深山をやっつけられるか、判断がつかないからです。
信じると言ってアゴン宗を擁護する立場を取れば、アゴン宗の教義なんて
嘘だらけだから、議論に負けるから、深山をやっつけられない。
信じていないと言ったら、アゴン宗を否定することになり、
批判側と一致してしまい、深山を攻撃できるネタが減る。
彼はその隙間をついて、信じているような、いないような、微妙な言い回しを
しながら、逃げる卑怯者です。
だから、護摩の話も、禁止かどうかではなく、禁止した理由と言う
このスレとは関係ない話を延々と繰り返している。
私が、護摩が禁止である理由を述べたカッサパの言葉を引用しても無視する。
受け入れたら、彼の目的が果たせないからです。
このスレでの議論は、ムチャリンダが帰依したかどうかではなく、
守護神となって証明仏としてアゴン宗にドラゴンの姿で現形したかどうかです。
彼はこの部分では議論すれば負けるのがわかっているから、
ぜったいにその点は触れず、この後も、グチャグチャと関係のない話に
話題をずらそうとするはずです。
彼の目的が、アゴン宗や仏教の議論ではなく、批判側、特に深山を
ぶちのめしたいのが目的だからです。
>もし真言宗から文句を言われて彼らと争ってもあなた方に勝ち目はない。
>だから早く自分等の妄想を訂正して、彼らを中傷したことの詫びを入れたほうが身のためです。
>>213 神も仏も名無しさん sage 2016/02/25(木) 23:30:01.35 ID:vHrcNy1b
>“密教は釈尊が無意味だとした護摩に焚く意義を見出した”
釈尊が欲望を否定したのに対して、密教は欲望を肯定し、逆に奨励もした。
その根拠としたのが、「大楽金剛」思想です。
真言宗の二大根本経典は大日経と金剛頂経だが、もう一つ般若理趣経を加えて
三大聖典とし、日頃の勤行では理趣経を唱える。ちなみにアゴン宗も観音慈恵会時代、なぜかお彼岸には
理趣経を読んでいた。声明梵唄(しょうみょうぼんばい)といって独特の抑揚で
唄うように読む。それはさておき、この理趣経に大楽思想が盛り込まれている。
しかし真言宗では聖典であるはずの理趣経だが、この大楽思想はあからさまに説かない。
読者の方で大楽思想を如何にもごもっともと他を納得させられるように説明できる人はいますか?
私はようしません。
大楽思想は危険を伴います。インドでも性欲肯定の左道密教が生まれ、日本でも真言立川流が
生まれた。かくして密教は堕落した。これは大楽などともっともらしいことを掲げて
結局左道に堕した。煩悩に堕した。煩悩を増大させたのです。
それが密教の祈祷のなれの果てです。護摩もまた祈祷の最たるものです。
護摩祈祷は左道化を生み、やはり危惧したいたように堕落して煩悩を増大させた。
だから真言宗でも理趣経は唱えても一般人に大楽などあまり説かない。
桐山さんは大楽を思想と見るのは間違いであり、大楽はある特殊な技法により
自覚できるものだと、例によって誰にもわかり得ない未公開の特殊技法を出すのだから
これはお話にならない。
しかし釈尊の欲望否定は密教の大楽による欲望肯定という全く逆の道を指向し、結局堕落した。
さてアゴン宗は阿含を名乗るからには、大楽など説く密教ではなく、あくまでも
釈尊の阿含経の方を採用してこそアゴン宗ではないでしょうか?
晩につづく
桐山さんはその類いなのでしょう。2世や二代目に多いです。
>そう来ると思っていました。
おいコラ!知ってて嘘を書いたのか?
このスレは深山さんとあなただけのものではない。
私なんかどうでもいいから、他の読者に謝れ!
他の読者はバロー本を持っていないだろうからあなたの嘘を信じてしまうだろ?
謝罪しろ!
謝罪しろ!バーロー!
このウケないダジャレを入れてこそ、ユビキタスだった。
>だから、何なのですか?
>中村博士はパーリ仏典も漢訳仏典も両方読んでいる。
>そこから彼の見識として帰依したと書いた。
>だが、桐山さんが引用したのは、中村博士のパーリ仏典だけです。
>そこには帰依という文字はありません。
>私は、桐山さんが引用したパーリ仏典には書いていないと批判しているのです。
だから何なのですか?
「輪廻する葦」の参考引用文献の中に、中村元「ゴータマブッダ」法蔵館とあるから
管長はムチャリンダが帰依したことをご存知だったのでしょう。
本には引用しなかったけれどね。
>>370 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/02/29(月) 12:37:54.58 ID:LggucDtA
>ペテン大作さんはいつものように、私の指摘や質問をいくつも無視している(>>335)。
>下記の質問には答えない卑怯者だと書いたら、そのとおりで、何も答えない。
あなたは「私が書いた個人情報とは何か?」という私の質問には
一切答えず無視するくせに、相手には執拗に質問を繰り返す。
別にあなたの質問に答える義務は無いから答えないのです。
また私が答えたことで、それがどんな意味を持つのですか?
でもそんなに知りたいなら今回特別に答えてあげましょう。
質問1に対して。
ムチャリンダは仏教の守護神ですよ。
信じるも信じないも守護神を思わせる遺跡が各地にあります。
ついでに言うと、あの姿はコブラというよりドラゴンですね。
いや、頭が七つあるヤマタノオロチか。http://davidlansing.com/tag/mucalinda/
質問2に対して。
現形写真がムチャリンダかどうかは私には分りません。
今のところは自分には霊視能力が無いからです。
だが将来、修行が進めば分るようになるかも知れない。
期待して待ちましょう。
>ついでに言うと、あの姿はコブラというよりドラゴンですね。
ついでに言うと、現形写真の龍王に似てますね。
新刊本でてました♥
正直な話し、今の桐山靖雄さんに
こんな本書けるのでしょうか?
高齢で認知症
ゴーストライターが書いてるのでしょうか??
>三多摩道場所属の『谷口』という50代の男性幹部信者
この人三多摩道場が連絡所当時受付宗務局に
アルバイトしていた男性会員じゃないでしょうか?
その後三多摩所属の女性会員と結婚し
のちに阿含宗出版局に社員として就職した方だと思いますが?
この方がゴーストライターとして長年、桐山氏になりすまして執筆していますよ。
いろんな教団やら学者説をダンゴのように積み重ね
実現できないSF小説を書きまくり
最後は、死んだら美男美女に生まれ変わり?ハイ御終い?
仏教でもなければ密教でもない。
阿ゴン宗てのはいったいなんなの?何が目的?
金儲けだけが目的なの?
誰が社長いや教団長なの?
てめえらは社会のゴミクズ人間!
匿名掲示板に阿含宗、桐山を恨み書くことしかできない小心者!
>そもそも桐山さんが秘伝をいつまでた経っても教えてくれないのが悪いというのが
>あなたが元信者たる退会理由でなかったか?
俺がいつどこでそんな事書いた?ついに文章も読めず妄想で勝手な文書作るまで精神異常者になったかユビキタス!
逃げたとかまだ俺が桐山密教占星術の本物の内容を知らないで書き込みしていると思っているどこまで、てめえらは二人は知能がドアホなんだ?
知らないのにここに書く意味ないだろうって!
だったら逃げてないで書けよ。嘘だから書けないだろ(笑)
だったら本物だしてみろよ!
反論できないくせに何言ってんだかw
まるで幼稚園児だなw
>あ~、しくじった。 謝罪しろ!バーロー!
>このウケないダジャレを入れてこそ、ユビキタスだった。
おいおいw ウケないダジャレなんて保険かけてんじゃね~よカスのくせにwww
気持ち悪りいw
カスならカスなりに、潔く、笑いの才能もセンスも何も無いと正直に言え
ま、阿含宗低能批判者に潔さなんてあるわけねえよな
正しいと思ったカルト信仰卒業して、今度はそのまま2ちゃんで偽善救世志向か しかしじつは
どちらもマスタベイションwww まったく変わってねえからwww
>367 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR :2016/02/29(月) 12:53:27.42 ID:fqAtt/3J
>このスレは深山さんとあなただけのものではない。 私なんかどうでもいいから、他の読者に謝れ!
wwwwwwwwwwwwww 聖人だねえ、私なんかどうでもいいから、だと。
どんだけ偽善者なんだよ じつは自分のマスタベイションだけが目的で生きてるくせに。
ま、元カルト信者だからそうなるよなw
しかし
>私なんかどうでもいいから、他の読者に謝れ!
これどんだけだよ 砂場で小学生がこの台詞言うなら分かるが、
いい年したジジイが言ってるよ。
ま、こいつら一生一般人未満だからしょうがないのか?ww しかしここまで低能だと、
カルト信者といい勝負だな。あ、元カルト信者だったか。
それじゃしょうがねえwww
しかし毎日毎年よくもまあ。www 凄げえなww
で時々歯向かってくるが、すぐ数倍返しされて・・・・・・ですぐそれを無かったことのようにwww
そうしないと、マスタベイションを続けられないからこその知恵だろ?それ。
www
初期仏教のさとりは縁起の滅した世界とされた(岩波仏教辞典)。
縁起の滅とは、輪廻の縁起の滅のことですね。
この辞典の説明を素直に理解すれば、霧が晴れるように物事が見えてきます。
釈尊の火炎三昧=火界定とは何か?
勿論、現世利益を祈願してるのではないw。
八解脱でいうところの有想無想処の第七解脱の瞑想であろうか。
あるいは住識処の第五解脱あたりであろうか。
いずれにしても、アナゴン以上の瞑想であるから、凡人にはその意義が分かるわけないね。
護摩に現世利益を祈願するのは仏教ではない、との意見がある。八解脱の第二解脱か第三解脱に進めばそう言えるだろう。第三解脱が浄解脱であるから、そこで現世利益を祈るのはおかしいね。だが、色観色あたりの第一解脱では現世利益を祈ることはどうなのだろう。
一足飛びに解脱するわけではない。
子供
そういう子供時を経て大人になるのです。
何時までも玩具に捕らわれたらおかしいがね。
深山ユビキタス説の現世利益否定説は、
この段階を踏んで大人になることを無視してるわけです。
段階を踏んで解脱することを理解できていないのですね。
>“密教は釈尊が無意味だとした護摩に焚く意義を見出した”
桐山さんが密教からアゴン経へと移行する時期の著書が、1976年の「密教入門・求聞持聡明法の秘密」と
1977年の「人間改造の原理と方法」です。後者はアゴン宗立宗直前の内容だとよくわかる。
前年の「密教入門」から根本仏教についてのコメントもあり、密教については
観念宗の批判を書いている。しかし結論としてはまだ密教を前面に打ち出しており、
釈尊の仏教の第三次復興運動として密教を位置付けている。
実はこの視点自体間違っているのだが、それはさておき、あくまでも密教主体だった。
それが人間改造の原理と方法になると、仏教史も出して阿含経の絶対的価値がクローズアップされ
アゴン宗の骨子が固まる。当時私は教団からは離れていたが、著書を通じて外部から
信仰を寄せていた。アゴン宗が立宗した時、「あ!第三次仏教復興運動の密教ではなく
こちらの選択肢で来たか!」と思った。
だからアゴン宗への改宗も抵抗なく受け入れたが、立宗した後からは、アゴン経にしか
成仏法は無いはよいが、密教に限界を感じ、もう密教も仏教ごと捨てようかと思っていた発言は、
いくらなんでも、今までぶちあげていた桐山密教の体得内容が内容だけに、芝居かかり過ぎで
首を傾げたが。
しかし密教の神髄を窮め尽くした上での限界を補うアゴン経によるアゴン密教となった。
どこの部分にアゴンが入っているかなど少しもわからない。
実践内容はそれまでと全く変わらない。強いて言うならば例祭で護摩を焚いて
御宝塔も浄めとやらをする桐山さんの中身が違っているのかなという感じ。
あるいは後に始まる解脱供養により成仏力による霊障除去サービスが始まったということか?
テーゼとアンチテーゼを統合するジンテーゼとしてのアゴン密教とやらだが、そもそも
桐山さんは対立の構図が理解できていなかった。
護摩などの祈祷・呪術は大戒として絶対全面禁止だというテーゼを知らない。
だからジンテーゼとやらは、アンチテーゼの護摩復活を祈祷ごとまるまる認めた。
桐山ジンテーゼとはアンチテーゼの方の採用です。
>“密教は釈尊が無意味だとした護摩に焚く意義を見出した”
昨年の大学野球早慶戦で、人気下火になっている早慶戦に人を集めようと、学生が作った
面白いポスターがあった。
慶應のチアリーダーが挑発する。「早稲田さん、ハンカチ以来ぱっとしないわね」
早稲田チアリーダーも負けじと返す。「慶應さん、ビリギャルという言葉がお似合いね」
私はそのチアコスのJDのポスターを見て思った。
「まあまあ早稲田さんも慶應さんも美味しそうなナイスバディなんだから」
この私の仲裁こそがジンテーゼというもの・・・な、わけないか?
対立する構図を見据えて、両方に共通するものを抽出してこそジンテーゼだろう。
例えるならば大乗経典の観音経は、観音様という外側の神様みたいな存在に
御利益を祈願していては釈尊の仏教に反する。
しかしそこで説く火難とは実際の火事火災ではなく、自分の心に起こる怒りの煩悩の
炎と捉え、これを自己制御努力により消すように説く。
密教の護身法は戒定慧解脱解脱知見の五分法身を説く。浄三業を説く。
これらはそもそもが釈尊の阿含仏教にあったものだ。
これを理由に桐山さんなどは密教は釈尊の仏教に立ち返った証拠と言うが、これは無知な話で
大乗の最後に現れた密教は、大乗の空も唯識も如来蔵も倶舎も全部取り入れて
下手な理論武装をしたのだから当たり前だ。
すると五分法身や浄三業などは護身法の時にさらさらと念じておしまいでなく
日常座臥の中でこそ、戒定慧に励み、浄三業に励むのが、密教からの新たな再発見と
原点への回帰と言えるだろう。それなのに密教の作法ばかり変わらずやっていて
何で解脱や浄三業が体得できようか?
護摩などはジンテーゼで焚いてよいはずがない。
有害な面を示唆しているのに、どうしてアゴンを持ち上げまでしながら、護摩祈祷をするか?
テーゼを知らないで行うジンテーゼなどジンテーゼではない。
単なるテーゼの否定です。
だったら密教を標榜し、阿含経と対立し、アゴン宗など立てるな。
だから、いつまでも現世利益に拘るのはおかしいが、スタート時点は現世利益でよいのです。
腹が減っては戦が出来ない、という。
煩悩の敵との戦にも腹が減っていてはいけないのです。そのための現世利益なのです。
釈尊の説法を聴くのも腹ごしらえをしてからです。有り難い説法も、腹が減っていては耳に入らないわけです。いわば現世利益は腹ごしらえです。腹ごしらえ出来たら説法聞いて実践したらよいのです。
いつまでも腹ごしらえばかりしていたら、それはおかしいがね。
>管長はムチャリンダが帰依したことをご存知だったのでしょう。
>本には引用しなかったけれどね。
あなたの推測など誰も質問していない。
私は、桐山さんが本に引用した経典には帰依などないのに、
あるかのように書いていると批判しているのです。
そして、事実、桐山さんの引用した経典には帰依なんてない。
反論するなら、あなたの推測ではなく、具体的に桐山さんの
引用した経典にある帰依を示しなさい。
できませんよね?
あなたの推測など必要ない。
>ムチャリンダは仏教の守護神ですよ。
>信じるも信じないも守護神を思わせる遺跡が各地にあります。
ペテン大作さんにとっては「思わせる遺跡」が根拠なのですね。
さすがはオカルト大好きで、霊能と聞けば、なんでも信じてしまうだけのことはある。
しかも、ムチャリンダを未だにドラゴンだと主張するのには失笑です。
あなたも学問的な客観的な事実なんて興味がないのですね。
普段は阿含経を引用しながら、実はまったく信じていないのだ。
それがあなたの本音であることは知っているが、露骨に
羞恥心もなしに出されると、こちらが恥ずかしくなる。
阿含経のムチャリンダは龍王であり、蛇です。
守護など約束していないから、守護神ではありません。
あなたの示した漢訳経典でさえも帰依したとしかなく、守護の約束などありません。
帰依と守護は別物だし、ましてや、帰依した程度の動物が、
ある教団が本物であることの証明のために出てくるなんておかしい。
阿含経には証明仏なんて、考えさえもありません。
と、いくら阿含経の事実を書かれても、あなたは興味もない。
これにたいして、一人の阿闍梨が立ち上がってこういう意見を述べた。
――たしかに、加持祈祷は、欲望肯定といわれてもしかたがない要素を持っている。
われわれは、一方において欲望、煩悩を断ちきるようにと説きながら、一方において、
欲望煩悩をかなえてやると加持祈祷をひきうける。非常な矛盾である。自分自身でも
矛盾を感ずることがしばしばである。だが現実問題として、加持祈祷は密教から
きりはなすことはできない。私自身は密教における加持祈祷とは正しい教えにみちびき入れる
ための方便であると考える。そう思って加持祈祷をしている――。
いかがですか?この真言宗の阿闍梨は、欲望煩悩をかなえてやる加持祈祷をひきうけると書いている。
矛盾を感じながらも。護摩が加持祈祷の最たるものであるのも当然だ。
欲望煩悩をかなえてやるとは欲望煩悩に乗じるということです。
つまり煩悩の増大を意味する。煩悩を刺激し、煩悩の追求のお手伝いをする。
ペテン大作さんの説明では護摩は煩悩をなくす修行に無意味・無効力・無関係という話だった。
しかし無関係のはずがない。ちゃんと関係を保ちながら信者の煩悩助長のお手伝いをしているのだから
このことに真言宗の阿闍梨さんも自己矛盾を感じていると言うのだ。
>現形写真がムチャリンダかどうかは私には分りません。
ペテン大作さんはアゴン宗のムチャリンダを信じているのです。
あなたの説では、ムチャリンダは童子に変身したのだから、
中国製のドラゴンの着ぐるみを着て出てきてもおかしくない。
あなたの説では、ムチャリンダは守護神だから、
アゴン宗に証明仏として現形してもおかしくない、ということらしい。
解脱の定義も違い、釈尊が禁止した護摩を焚く教団に
その正当性を示すために現形したとあなたは信じているのだ!
あなたの仏教の理解とはこんな程度ですよね。
ペテン大作さんの信仰の問題だから、蛇がドラゴンになったと信じようが、
守護なんて阿含経になくても、アゴン宗に証明仏として出てきたと信じようが自由です。
あなたが生首霊能者や大川仏陀様の霊能力も信じていることと同じですね。
あなたの頭って、不思議大好きの中高生から何も変わっていないのだ。
ただのオカルト教ならともかく、これだけ桐山さんの嘘を示され、
解脱の定義すらも違う事を知っても、まだ信じている。
あなたにとって阿含経なんて、神通力やムチャリンダの現形などの
オカルトの延長でしかないのだ。
反論などいっさい無視して、針の飛んだレコードみたいに同じ事を
くり返すだけの一来補さん(>>361,>>383-384,>>387)、
アゴン宗と関係のない密教オタクの宝生さん、
そして、オカルトと憎むことで男を立たせているペテン大作さん。
見事な桐山さんのお弟子さんたちがそろいましたね。
>あなたは「私が書いた個人情報とは何か?」という私の質問には
>一切答えず無視するくせに、相手には執拗に質問を繰り返す。
また嘘を書く。
本当に粘着ですね。
私が、書かない、と返事したのが読めませんか?
「また実際書きません。」(>>129)
書きませんとは、私には権利がないから、書くことができないという意味です。
私が知っている個人情報を公開する権利はあなたにも私にもありません。
私がペテン大作さんの情報だと思っていたのを「Aさんの個人情報」とします。
私はAさんをペテン大作さんだと思っていた。
過去に、Aさんが書いた個人情報をAさんの同意をとって、
まとめて書いたことがあるからです。
Aさんは深山をやっつけることに夢中になり、自分が書いたことを忘れていて、
まさか自分がそこまで書いていると思わなかったから、
私から全部並べられて、青くなった。
私はAさんをペテン大作さんだと思っていた。
だが、あなたはそんなことは記憶にないから、別人だと書いた。
十年前のことも忘れずに復讐を始めるほど執念深く、恨みの強烈な粘着質の
ペテン大作さんがこの一件を忘れるはずがない。
つまり、Aさんはペテン大作さんではなかったことになる。
それなら、Aさんの情報を私がここに再度書き込むことはできません。
なぜなら、Aさん本人の同意も得ずに書き込むのはルール違反だからです。
Aさんでもないペテン大作さんにいくら「書いても良い」と同意されても、
あなたにはそもそも同意する権利がないのです。
Aさんの同意を得ていない以上、私も書くことはできません。
>深山さんの本名を書いてもいいですか?
>>314 :神も仏も名無しさん:2016/01/22(金) 13:29:17.06 ID:I/vQflyE
>深山さんの本名を書いてもいいですか?
こういう汚い真似をしたのはペテン大作さんです。
だが、私はこれに同意できる権利や立場にないのです。
なぜなら、あなたが信じている「深山の実名」を私は確認していないからです。
あなたが深山だと思っている人物の名前をBさんとします。
Bさんは実在する人物ですよね。
私は、Bさんが誰なのか、あなたから確認を取っていない。
Bさん本人でないなら、私にBさんの名前を出しても良いと
同意する権利はありません。
Bさんの名前を出しても良いかどうかは、Bさん本人に許可を取るしかない。
私はあなたの上記の要求に同意する権利がそもそもないのです。
Bさん以外に同意を与える権利は誰も持っていないが、
肝心のBさんが誰なのかはあなたしか知らない。
だから、ペテン大作さんが自己責任で「深山の実名は○○だ」と書いてはどうでしょう。
これは繰り返すが、私の許可や同意ではありません。
権利がないのだから、私は許可や同意など出させない。
単に、卑怯で卑劣で憎悪に凝り固まった人物を「書いてみたらどうか」と
からかっているだけです。
>深山さんの本名を書いてもいいですか?
ペテン大作さんが深山をBさんだと思ってここに公開すれば
もちろん社会的なルールにあなたは違反する。
結果も責任もあなたが負うだけのことで、私は関係ない。
ただ、こんなマイナーなスレでBさんの名前を出しても、ペテン大作さんが
訴えられるとか、社会的な制裁を加えられる可能性はほとんどない。
あなたは、魔女狩りの件で、魔女狩りなどなかった根拠として、
自分が追及されなかったことを挙げていましたね。
あなたの知性では自分が追及されないと、魔女狩りもなかったことになるらしい。
まるで目をつむって「何もない」と言っているようです。
だから、Bさんの名前を出しても、あなたが制裁さえされなければ、気にしませんよね?
あなたの視野と道徳心とはそんな程度です。
>しかし無関係のはずがない。ちゃんと関係を保ちながら信者の煩悩助長のお手伝いをしているのだから
>このことに真言宗の阿闍梨さんも自己矛盾を感じていると言うのだ。
無関係と言うのは例えばこういうことを言う。
ラジオ体操をすれば煩悩が減ると考えるなと釈尊は言った。
これは如何に健全なる精神は健全なる肉体に宿るなんて言っても、それで煩悩が減るなんて
考えが甘い。やはり無関係だからです。だから関係あると考えるなと言う。
しかしラジオ体操を大戒で禁じることにはならない。
無関係ではあるが、ラジオ体操は健康増進に役立つから、釈尊の教えとは別にやるのは
よいことだと思う。
ペテン大作さんが癌予防の瞑想を我流にやることに対して、ケチをつけたことはない。
ただ深山さんが我流で瞑想してると、ペテン大作さんの場合、さらに妄念を強くする
危険性もあると注意を促したことがあるだけだ。
しかしきちんとした指導者に従うのなら、釈尊は癌予防など説かなくても
癌予防の瞑想に励むのはよいことだとも思う。
しかし護摩祈祷は違うのです。
常に人の欲望煩悩と仲良くお付き合いしながら、欲望煩悩充足に向けて
お手伝いをする関係にある。
だから無関係ではない。
>深山さんの本名を書いてもいいですか?
この一文があなたの性格を非常に良く表している。
あなたは覚えていないかもしれないが、前にユビキタスさんが
あなたをかなり危険な人物だと評したことがある。
上記を読んでから、私もユビキタスさんの意見に同意した。
あなたは私の実名がわかっても危害を加えたりしないと宣言したが、
私はまったく信じていないし、読者も信じていない。
それはあなたが常にそのように反応するからです。
たとえば、今回のバローの件にしても、明らかにあなたの嘘です。
相手をぶちのめすためなら、嘘でも作り事でも気にしないのがペテン大作さんです。
あなたが仏道や真実を追求しているのではないのが、これを見てもわかる。
仏教の議論などどうでも良く、深山や批判側をぶちのめすのが目的なのがわかる。
あなたはそういう本音を書かなければ他人にはわからないと思っている。
そこはあなたのものすごく愚かな所です。
書かなくても、周囲にあなたが話をしなくても、
あなたの様々な言動から周囲はあなたの本音を読み取っているのです。
だから、「君にはがっかりしたよ」と言われた事が何度かあるでしょう?
だが、あなたは何をどうがっかりされたのか、理解できなかった。
>そう来ると思っていました。
ペテン大作さんは気が付いていないようだが、バローの嘘がばれて、
あなたがどう反応するのか、私や読者が注視していたのです。
あなた自身は「人生の選択の岐路」にいた・・気が付かなかったでしょう?
だが、上記のように、私の反撃は予想外だったのに、さも予想したかのように、
開き直り、逆に相手を追及する道を選んだ。
一来補さん、宝生さんと同じです。
ずっとあなた方はそれを繰り返してきた。
だから、聞かなくても周囲の人があなた方をどう見ているかがわかります。
人生の選択の岐路だけではなく、あなたの瞑想内容がそれでわかるのです。
仏教が煩悩を減らし、なくすことが目的であることを、あなたは同意している。
この点ではまだ一来補さんや宝生さんよりもまともです。
だが、あなたは中身を理解して同意しているのではなく、
単に議論に負けたくないから、認めているだけです。
>あなたは覚えていないかもしれないが、前にユビキタスさんが
>あなたをかなり危険な人物だと評したことがある。
大作さんはなあ、大作さんはなあ、人殺したことあんねんで。(笑)
>そう来ると思っていました。
煩悩を減らすとは、自分のミスを指摘されたら、素直に認め、
あるいは読者に謝罪することです。
三十七道品の四正断です。
だが、あなたはすぐさま、さも予想していたかのような嘘をさらに書き、
私に反撃する道を選んだ。
あなたのこの反応を例えるなら、毎日六法全書を何時間も学んでいると
称する人物が、コンビニに入ったとたん、ためらわず万引きしたようなものです。
いくらあなたが何時間も瞑想している、深山はしていないだろうと侮蔑しても、
あなたの今回の反応を見れば、あなたの瞑想など仏教とは関係ないのがわかる。
仏教の瞑想が何なのかあなたは知らないからです。
仏教の瞑想とは、身口意の三業のうち、二つを機能停止して煩悩を停止させ、
心の煩悩だけに集中して、煩悩を観察し、囚われず、減らし、なくすことです。
こういうことを毎日している人が、今回のあなたのような反応など絶対にするはずがない。
あるいは桐山さんのように、オバサンに嘘つきと言われただけでキレルなんてありえない。
あなたの瞑想は、少なくとも仏教の瞑想ではありません。
もっとも、桐山さんの解説を読んで彼が瞑想をしていると、あなたが
判断したのを見ると、瞑想を本当にしているのかさえも疑います。
癌を助長することもあるかもね。
瞑想というのは瞑想のお時間だけいい子ちゃんしていても意味がなく、
日常座臥が瞑想だからです。
>そう来ると思っていました。
漢訳経典であることに気が付かなかったなら、率直に自分の非を認め、
謝罪して撤回するのが「普通の人」です。
仏教の瞑想すらも関係ないほどです。
だが、あなたはそれを指摘された直後から頭に血が上り、
私が書いた二十分後には、撤回や謝罪どころか、無意味な反論を書き始めた。
これがあなたの「人生の条件反射」です。
どんなに自分の間違いを指摘されようが、屁のカッパなのは、
一来補さんや宝生さんと同じだが、その後が違う。
あなたは自分の非などきれいに忘れて、むしろ、非を指摘されたことに
激しく怒り恨み、復讐の反撃を始める。
自分の失態はきれいに忘れて、五年でも十年でも恨みの心だけ保ち、復讐する。
三人に共通するのは、桐山さんを含めて四人に共通するのは、
絶対に自分の非を認めず、反省など皆無であることです。
もちろん、あなた方の誰一人、仏教を体得どころか、理解さえもしていない。
大乗仏教のさとり→煩悩の束縛を脱する。大乗仏教のさとりは空なので輪廻解脱は否定する。
現世利益から成仏するのは大乗仏教(密教)の思想であること。(岩波仏教辞典)
初期仏教(阿含)のさとりは、煩悩滅と業滅と苦滅と輪廻滅であること。(岩波仏教辞典)
阿含宗は、テーゼとしての阿含仏教と、アンチテーゼとしての大乗仏教を止揚させたジンテーゼとしての仏教である、というのが桐山師の主張です。だから、阿含宗は初期仏教(阿含)や大乗仏教より高度な仏教だというわけです。
初期仏教に欠けているものと、大乗仏教に欠けているものを、それぞれ補った仏教が阿含宗だというわけです。
だから阿含宗は、大乗仏教である護摩を焚くし、初期仏教のさとりである輪廻解脱、因縁解脱を説く、というわけです。
星まつり特集掲載のお知らせ
更新日:2016.03.01
第43回阿含の星まつりの特集が各誌に掲載されます。
・月刊正論(4月号)3月1日発売
・週刊新潮 3月16日発売号
・週刊文春 3月24日発売
星由里子さんが行く「星まつりと開運の旅」レポート掲載!
・The Japan Times 3月25日発売
是非、御一読の程、宜しく御願いを申し上げます。
俺は逃げていない。
てめえら二人は、気違い深山、ユビキタスの援護しかできない負け犬のクズのくせによお!
なにを書けば良い?密教占星術も知らない無知の馬鹿脳のくせに密教占星術の定義言ってみろよ!
俺がまだ適当に書いていると思い込んでいる低レベルドアホ二人くん
おっ擁護さんですか。?なんだワレモンさんか。つまらん。
ねえ、密教占星術ってそんなにいいものなの?
また別著に「南山瞑想録」に暦の解説が有ります。
上は再販あり入手可能、昭和6年発刊の南山は如何ですかね?
ページに金箔を押し装丁が立派な書物です。
戦前は装丁紙質に贅を凝らした書物が出版されていました。
森田龍僊師から実地に教えを受けた方が、近年活動をされていますから
アプローチはそちらからどうぞ。
小生の様な貧道より引替え誠に感嘆の至りで御座います。
>現世利益に拘るのはおかしいが、スタート時点は現世利益でよいのです。
>腹が減っては戦が出来ない、という。
>煩悩の敵との戦にも腹が減っていてはいけないのです。そのための現世利益なのです。
>釈尊の説法を聴くのも腹ごしらえをしてからです。有り難い説法も、腹が減っていては耳に入らないわけです。いわば現世利益は腹ごしらえです。腹ごしらえ出来たら説法聞いて実践したらよいのです。
仏教は煩悩を減らすことを目的としますが、飯を食うなとまでは説きません。
腹が減ったら飯を食えばよい。飯を食う金が足りなかったら勤勉に働けばよい。
皆誰でもそうしていることをすればよい。
働くということはなかなか辛いことではあるが、皆辛抱もしながら励んでいることなので
わがままを言わずに勤勉努力すればよい。
「飯を食う」ということは例え話であることはわかってますよ。
しかし煩悩を減らすという修行は如何なる条件下でもそれなりに即実行可能です。
最初から完璧を求めない。できることから始めればよいし、無理をするのも考え物だ。
しかし護摩祈祷はどうだろうか?日本人だろうがインド人だろうが、それなしには
生活が成り立たないものだったろうか?
普通はそれ無しにご飯も食べられる。
それなのに、護摩祈祷で何を求めるのか?
それは欲張りというものではないか?
生活必需品を断てという話ではない。
欲張りなことをしなければよいだけだ。
生活に必要ではない護摩を断つなんて簡単です。
それを断てないのは欲張りだからであり、欲張りを離したくないのです。
そんな奴は一生煩悩を減らす修行なんかできるはずがない。
仏教なんか捨てて煩悩を追い求めてなさい。
ただし煩悩を追い求めることを仏教だなんて言うな。
>なにを書けば良い?
とりあえず、家運衰退の因縁の星名が、どうして二十八宿の昴宿の梵名と一致するのか、
中途挫折の因縁の星名が、どうして二十八宿の畢宿の梵名と一致するのか書いて。
やめんか!これには深いわけがあるのじゃ!みたいなゴマカシは無しね。
逃げないのだったら書いてみ。
いやー、占いとか好きじゃないんですよ。
それ以前にですね、護摩などの占いに頼らない阿含経をしますよと、
阿含宗に鞍替えしたのに、なのに、占いをするというのが変じゃないですか。
丁寧な解説を有難うございますが、いくら立派な書物だからって言っても・・・。
わあい月刊正論だあ。誰が何と言おうと正しい正論の論客ぞろいの雑誌に桐山さんが載っているぞお(棒読み)。
屁理屈こねてすねるだけだ。
馬鹿は釈迦でも救えない。
勝手な仏教論で勝手に生きなさい。
因縁解脱を理解している現役阿含信者は、
因縁解脱を実感しつつ、楽しく人生を歩み続けているのだから(わたくしが見本です)深山ユビキタス説など、哀れにしか感じない。
早く無駄なレスは止めて、因縁解脱の意味を理解することですな。
誤りを改めるに憚ることなかれ。
因縁解脱を理解することは何時からでも可能です。
>>392 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/03/01(火) 12:14:18.47 ID:CxkVYMem
>書きませんとは、私には権利がないから、書くことができないという意味です。
>私が知っている個人情報を公開する権利はあなたにも私にもありません。
>私はAさんをペテン大作さんだと思っていた。
>だが、あなたはそんなことは記憶にないから、別人だと書いた。
>十年前のことも忘れずに復讐を始めるほど執念深く、恨みの強烈な粘着質の
>ペテン大作さんがこの一件を忘れるはずがない。
>つまり、Aさんはペテン大作さんではなかったことになる。
>私が知っている個人情報を公開する権利はあなたにも私にもありません。
などど、人に説教する資格はあなたには無い。
Aの個人情報は私のものではなかったということは、
私が魔女狩りに強烈に反応する理由も無ければ、実名をばらすとあなたを脅す理由も無くなる。、
以下の書き込みは全部嘘だったことになる。
あなたは自分の間違った推測を基に話をでっち上げる人であることを証明したのだ。
↓
445 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/01/27(水) 12:23:22.88 ID:GVyleFjY
>>435 :神も仏も名無しさん:2016/01/27(水) 02:27:30.37 ID:jVTDF5Lp
>私が果たして本当に信者であるかどうかまでは誰にも分からない。
宗務局が魔女狩りをしているなんてペテン大作さんは考えもしなかった。
十年たってまだ「魔女狩りは嘘だった」なんて
何の根拠もない否定を必死に書いているのを見れば、当時あなたが
かなりショックを受けたことはあなた自身が証明している。
どうでも良いことなら、十年もたってから唐突に出す必要はないどころか、
普通の人なら覚えてもいない。
だが、あなたは強烈に私への憎しみと一緒に記憶した。
魔女狩りが嘘かどうかなんて誰もわからない。
あなたは情報など何もないまま、ただ否定している。
どうでもいいことなら、必死になってなんだって否定しているのだ?
目を吊り上げて「魔女狩りなんて嘘だ!」と何度も叫ぶ。
魔女狩りが自分に関係ないなら、十年前に否定すれば良かっただけです。
ましてや今は魔女狩りの話なんて誰も出していないのだから、
あなたに関係のない話なら、出さなければ良い。
誰も話題にしていないのに、あなたが私を脅迫することで話題にした。
魔女狩りという言葉に強烈に反応するのは、信者だからです。
ペテン大作さんは信者とも信者でないとも書いていない。
だが、魔女狩りという言葉に強烈に反応し、十年たっても
その時の気持ちを忘れないほどに印象に残っている。
魔女狩りとはペテン大作さんに垂らした試薬です。
今日までの反応を見れば、当時のあなたの立場がどうであったか、
あなたが言わなくても、読者は全員推測できる。
↓
>>452 :神も仏も名無しさん:2016/01/27(水) 13:20:46.21 ID:jVTDF5Lp
>元信者であっても悪い奴を見つけたら放っては置けない。
ペテン大作さんが追及したいのは魔女狩りの件ではない。
十年前、あなたの個人情報を集められ、しかも、あなたの許可を取って
スレに書かれた時のショックへの復讐です。
この件ではあなたは自分が許可を出しているので追及できないから、
魔女狩りに置き換えて、そこをしつこく追及している。
江戸のカタキを「横浜」で討とうとしている。
信者でなかったなら、どうして魔女狩りの件をそんなに気にする必要があるのだ?
本音は十年前、あなたが大恥をかいたことへの逆恨みの復讐をしたいからですよね。
だから、あの時、私があなたの同意を取ったように、
あなたは私にわざと実名公開の許可を求めた。
私がやったのと同じ手法で復讐してやろうとしたのです。
桐山さんと同じで、本当に根性が悪い。
桐山さんと同じで、本当に執念深い。
しかも、私から簡単に見抜かれてしまい、失敗です。
威張り腐っているわりには、どうしてそんなにいつもドジなのだ?
ほお。右よりの雑誌ですねえ。
(棒読みよりやや感情入った)
「律(パーリ語)の原文」
Full text of "Vinaya Pitaka Pali"
https://archive.org/stream/2.Pcittiyappi/Vinayapi%E1%B9%ADaka/3.%20Mah%C4%81vaggap%C4%81%E1%B8%B7i_djvu.txt
こちらは、その英訳
Full text of "The Book of the discipline : (Vinaya-pitaka)"
http://archive.org/stream/bookofdiscipline14hornuoft/bookofdiscipline14hornuoft_djvu.txt
英訳のこの部分を読めば、フンコロガシの話が嘘であることがわかります。
↓
Then Mucalinda, the serpent king, at the end of those'
seven days, having known that the sky^ was clear and without
a cloud, having imwoimd his coils from the Lord's body, having
given up his own form and assumed a youth's form, stood
in front of the Lord honouring the Lord with joined palms.
>阿含宗は、テーゼとしての阿含仏教と、アンチテーゼとしての大乗仏教を止揚させたジンテーゼとしての仏教である、というのが桐山師の主張です。だから、阿含宗は初期仏教(阿含)や大乗仏教より高度な仏教だというわけです。
>初期仏教に欠けているものと、大乗仏教に欠けているものを、それぞれ補った仏教が阿含宗だというわけです。
弁証法の定義の一般論など書いても意味ありません。
テーゼたる釈尊の仏教は護身祈祷を否定して大いなる戒として禁止したのです。
当然在家が関わっていいはずもありません。極力避けるべきです。
ましてや出家と自称する集団が在家に護身祈祷をサービスすることなど破戒以外の
何物でもない。
これだけはっきり否定と禁止の価値観を示したものをアウフヘーベンなどと
わけのわからん屁理屈で、欠けているから補うなんて理屈は通りません。
護身祈祷は補ってはならず欠かせておけとしたのですから。
>ペテン大作さんにとっては「思わせる遺跡」が根拠なのですね。
>さすがはオカルト大好きで、霊能と聞けば、なんでも信じてしまうだけのことはある。
>しかも、ムチャリンダを未だにドラゴンだと主張するのには失笑です。
>あなたも学問的な客観的な事実なんて興味がないのですね。
>阿含経のムチャリンダは龍王であり、蛇です。
>守護など約束していないから、守護神ではありません。
ムチャリンダは仏教の守護神です。
学問的な根拠が無ければ、人は守護神とは認めません。
また、その姿は蛇と言うよりはドラゴンに近いですね。
新興宗教の落ちこぼれ)に過ぎないフンコロガシさんが何を言っても世間には通りません。
https://www.google.co.jp/search?q=Mucalinda&espv=2&biw=1280&bih=675&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwjA19rJhp_LAhXLHJQKHQgTB08QsAQIGg#imgrc=_
>たとえば、今回のバローの件にしても、明らかにあなたの嘘です。
>相手をぶちのめすためなら、嘘でも作り事でも気にしないのがペテン大作さんです。
それはお互い様です。
あなた>>416にあるように、
445 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/01/27(水) 12:23:22.88 ID:GVyleFjY
487 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/01/28(木) 12:04:10.23 ID:sRKshGQ8
に書いたことはすべて嘘です。
あなたは私をぶちのめしたくて嘘を書きました。
>>401 名前:深山 ◆lDoupiXSYZNC [] 投稿日:2016/03/01(火) 12:45:26.89 ID:CxkVYMem [10/10]
>>369 :神も仏も名無しさん:2016/02/29(月) 12:37:09.85 ID:v7HRwx8y
>そう来ると思っていました。
>漢訳経典であることに気が付かなかったなら、率直に自分の非を認め、
>謝罪して撤回するのが「普通の人」です。
>仏教の瞑想すらも関係ないほどです。
>だが、あなたはそれを指摘された直後から頭に血が上り、
>私が書いた二十分後には、撤回や謝罪どころか、無意味な反論を書き始めた。
いや、それは違います。
私が漢訳経典に気付いたのは、>>345を書いた直後です。
それをあなたから>>365で指摘されたから
>そう来ると思っていました。
と書いたのです。
最初から漢訳経典であることを知っていたわけではありません。
まあ、あなたは信じないだろう。
それでも結構だが、一応説明しておきます。
だが、漢訳j経典であろうとパーリ語経典であろうと、
あなたの解釈が嘘であることに変わりありません。
>ペテン大作さんは気が付いていないようだが、バローの嘘がばれて、
>あなたがどう反応するのか、私や読者が注視していたのです。
>あなた自身は「人生の選択の岐路」にいた・・気が付かなかったでしょう?
あなたは何処まで阿呆なんですか?
読者が見ているのは私の反応ではなくて、
バローの訳が漢訳かどうかだけです。
結果だけしか見ていない。
いや、それすらも関心ないかもしれない。
ここを何処だと思っているのですか?
阿含宗を議論する場ですか?
ちがいます。
ここはね、公園の砂場です。
その砂場であなたや私の様な教団の卒業生が、
青春時代を過ごした教団を思い出しては砂の掛け合いをしている所です。
そうすることで感傷に耽っているのです。
それ以上の意味はありません。
勘違いしないように。
「元信者」というハンドルの現信者と思われる人(^o^)/
貴方はあまり頭が良く無いのかな?もう一度書くよ。記憶してね(無理か?)
私は深山氏やユビキタス氏の擁護は一度もしたことはありません。
>なにを書けば良い?
はぁ、貴方が>>379でまだ俺が桐山密教占星術の本物の内容を知らないで
書き込みしていると思っている・・。と書いているよね。
だから、その桐山密教占星術の本物の内容を書いてみろって言ってんの。
嘘だから書けないんだろ(笑)
教えてやろうか?桐山靖雄直伝の密教占星術奥伝は他人の本のパクリ(笑)
しかも九星術の中伝。
>あ~、しくじった。 謝罪しろ!バーロー!
>このウケないダジャレを入れてこそ、ユビキタスだった。
おいおいw ウケないダジャレなんて保険かけてんじゃね~よカスのくせにwww
気持ち悪りいw
カスならカスなりに、潔く、笑いの才能もセンスも何も無いと正直に言え
ま、阿含宗低能批判者に潔さなんてあるわけねえよな
正しいと思ったカルト信仰卒業して、今度はそのまま2ちゃんで偽善救世志向か しかしじつは
どちらもマスタベイションwww まったく変わってねえからwww
>367 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR :2016/02/29(月) 12:53:27.42 ID:fqAtt/3J
>このスレは深山さんとあなただけのものではない。 私なんかどうでもいいから、他の読者に謝れ!
wwwwwwwwwwwwww 聖人だねえ、私なんかどうでもいいから、だと。
どんだけ偽善者なんだよ じつは自分のマスタベイションだけが目的で生きてるくせに。
ま、元カルト信者だからそうなるよなw
しかし
>私なんかどうでもいいから、他の読者に謝れ!
これどんだけだよ 砂場で小学生がこの台詞言うなら分かるが、
いい年したジジイが言ってるよ。
ま、こいつら一生一般人未満だからしょうがないのか?ww しかしここまで低能だと、
カルト信者といい勝負だな。あ、元カルト信者だったか。
それじゃしょうがねえwww
しかし毎日毎年よくもまあ。www 凄げえなww
で時々歯向かってくるが、すぐ数倍返しされて・・・・・・ですぐそれを無かったことのようにwww
そうしないと、マスタベイションを続けられないからこその知恵だろ?それ。
www
大深山グラウンド http://www.richade.co.jp/yakyuu.html
>密教占星術も知らない無知の馬鹿脳のくせに密教占星術の定義言ってみろよ!
>>425さんと違った視点から答えると、三元九星が密教占星術奥伝のはずがありません。
三元九星はそもそも高度な運命学と占術である密教占星術をマスターする前の準備として
勘を養うトレーニングとしての位置付けでした。
だから因縁を割り出す高度な運命学の桐山密教占星術は別にあるはずなんですが、
密教占星術奥伝なんて命名したのは我々ではなく、教団の方です。
しかしその桐山建て前の桐山因縁を割り出す桐山密教占星術自体作り話であると断言しています。
宿曜経を基にした宿曜占星術はあるが、桐山さんも知識として名前を知ってるだけで
マスターすらしていないでしょう。
そもそも桐山さんは自分や他人のガンの因縁とか刑獄の因縁を、密教門で修行するより以前、
観音慈恵会を打ち立てる以前に割り出せていた。自分でそう書いているのだから。
密教占星術はおろか密教のミの字も知らなかった頃です。
密教に初めて触れるのは、著書によると飯縄の術の宗家を訪ねた時なんだそうだ。
密教門に入らずとも宿曜経を読んで独学で宿曜占星術を学ぶことも可能だったかもしれない。
しかし桐山さんは幻だった密教占星術を古い文献を渉猟し、実験して独自に編み出したのだという。
観音慈恵会よりも前にそこまでしたはずもない。
観音慈恵会前に因縁を割り出せたならば、それは密教占星術ではなく四柱推命などの占いでしょう。
ならばどうしてそれを教えないのか?
結局は全部が作り話だからです。
だから他人のパクりの三元九星で止まっている。
>いや、それは違います。
>私が漢訳経典に気付いたのは、>>345を書いた直後です。
ならばどうして、その気付いた直後に訂正を書かないのか?
書けるタイミングと書けないタイミングがあるのはわかる。
しかし深山さんがレスするまでにはかなり時間差があった。
深山さんは今回たまたまあなたの出したバロー本を持って読んでいた。
だからすぐにあなたの勘違いはバレたが、深山さんが読んでおらず、調べるまで時間が
かかっていたら、あなたはそれまで間違いを表明せずそのままにして様子を見る気だったのか?
そうではないにしても深山さんがレスしたタイミングで、深山ではなく読者の皆さんに
間違いを謝罪すべきでなかったか?
ちなみにバーローは1972年頃一時的に流行ったバカヤローの省略言葉だが。
丹下段平も泉谷しげるも使っていた。
あなたも
>>424 神も仏も名無しさん sage 2016/03/01(火) 23:39:20.31 ID:AtHX9DU/
>読者が見ているのは私の反応ではなくて、
>バローの訳が漢訳かどうかだけです。
と書いているのだから、勘違いに気付いたら、なるべくすぐにそのミスリードして
しまったことを表明し、訂正すべきです。深山さんレス後ならばミスリードを詫びる責任がある。
ここは深山さんとあなただけの会話ルームではないのだから。
>ここはね、公園の砂場です。
>その砂場であなたや私の様な教団の卒業生が、
>青春時代を過ごした教団を思い出しては砂の掛け合いをしている所です。
卒業とは、あなたはやはりもう事実上の退会者だったか。それはさておき砂場というのは国太郎が我々批判側を評したものです。
低能カルトに騙された元信者も所詮低能に過ぎず、単に現役の低能信者に対して
砂場で教授気分で教えを垂れて自慰をしているに過ぎないと。
私はこの国太郎に対してこの件に対しては否定も肯定もしないことにしている。
そう見るならばどうぞ勝手にしてください。それよりもアゴン宗に対する批判内容に
ついて反論されたことは一度もなく、彼の主張は単にそれだけなんだから、なんなら
肯定だってしてやってもよい。砂場の構図で上等だと思う。
要はその砂場を閲覧する人にどういう影響を与えるかです。
我々が桐山さんに怨みの気持ちだけ強く、毎日その怨念を気持ち悪くも綴っているのだとする。
しかしこちらの動機がどうあれ、書いた批判内容こそが読者にとって興味のあることであり
影響力は大きいと言える。事実この砂場での議論の中からアゴン宗欺瞞をきちんと
読み取り退会すら果たした人もいる。
だから私も深山さんも実はペテン大作さんも一来補さんも宝生さんも眼中にはなく
単なる道具に過ぎず、寧ろここには直接書かずともロムしている現役信者含めた読者への
影響を睨みながら書いているのだ。
砂場だろうがなんでもよい。
二つのものを否定するのではなくて、二つのものを融合させて、二つとも生かすのです。
だから阿含宗=阿含経仏教ではない。
阿含宗>阿含経仏教、という理屈ですね。
分かりやすいのが輪廻転生瞑想法です。
阿含仏教のさとりは輪廻解脱だから、輪廻転生はさとりではない。
しかし、大乗仏教のさとりは空だから、輪廻転生も空であり、さとりです。
だから大乗仏教では仏様も菩薩として現世へ輪廻転生して来るのです。
阿含宗のさとりは、輪廻解脱の場合もあるし、輪廻転生の場合もあることになる。
それがアウフへーべンということです。
だから阿含宗の場合、二百年後の第五代管長が桐山師の転生であった、となる可能性があります。チベット仏教のラマでもあるしね。
釈迦のさとりは、輪廻解脱。
わたくし(桐山師)のさとりは、輪廻転生。
とか、おっしゃっているとおりです。
本当のほら吹きどんどんが、ここにいますなぁ。
御利益取引信仰をさんざんしてさ、失敗してさ、懲りてさ、その反動でさんざんの非難レスを阿含宗にしているわけよね、○○さんは。
そういう心理は見透かされているのです。
世間ではそういうのを逆恨みという。
わたくしのように、取引信仰は一切なくて、供養するものには後悔など一切ないわけです。
また、聖者の焚く護摩の火炎にはブッダの思念を感じることもある。
慢心のバラモンが護摩を焚くと煩悩が宿り、
聖者が焚く護摩にはブッダの思念が宿る、
ということでしょう。
火界定のブッダの思念が宿るというべきか。
そういうことでしょう。
>Aの個人情報は私のものではなかったということは、
>私が魔女狩りに強烈に反応する理由も無ければ、実名をばらすとあなたを脅す理由も無くなる。
個人情報についてのあなたの主張は上記の二行らしいが、
何回読んでも、意味不明です。
議論している私でさえ理解できないのだから、読者は誰も理解できない。
あなたは視野が狭いから、私の文章を並べれば、誰が読んでもあなたの頭で
出したたった一つの解釈しかありえないと思い込んでいる。
だが、その解釈は他人はわからないから、丁寧に説明するしかないのです。
でも丁寧には説明できないのでしょう?
なぜならあなたの悔し紛れの屁理屈であり、論理的に成り立たないからです。
>>416に引用した私の445も、>>417に引用した私の487もそのまま成り立ち、
あなたが異様に執念深く、しかもバローの件を見れば、あなたはとても
ドジだと私は今でも思っている。
個人情報の後半の話の流れは次のようなものです。
私はペテン大作さんをAさん(>>392)だと長年思い込んでいた(>>417の487)。
だから、あなたから違うと言われて驚き、疑った。
そこで、ペテン大作さんには関係のない情報なのだから、
公開してもあなたにとってはかまわないのかと質問した。
あなたは構わないと答えた。
つまり、あなたがAさんでないことが確定したわけだ。
それて終わりです。
ご覧のように何の矛盾もありません。
なぜなら、あなたのように後で取って付けたような嘘の言い訳などしないからです。
>Aの個人情報は私のものではなかったということは、
>私が魔女狩りに強烈に反応する理由も無ければ、実名をばらすとあなたを脅す理由も無くなる。
ペテン大作さんはAさんの情報を公開しろ、公開しろとしつこく迫った。
要求すること自体おかしい。
どれほどあなたが社会常識に反することをしているか、自覚がなかった。
その点も私から逆手に取られた。
Aさんという他人の個人情報を公開しろなんて普通の人は言わない。
自分がどれほど非常識な要求をしているか、自覚したほうが良い、
と助言しても無駄なのは知っています。
当たり前のことだが、私は公開しないと答えた(>>129)。
なぜなら、Aさんという全然関係のない人の個人情報を
本人の同意も得ずに公開するのは、あなたと違い、私の社会道徳に反する。
だが、これでも終わらないのがペテン大作さんです。
あなたは私の返事を読みもしないで、あなたの質問を無視したなどと嘘を書いた(>>375)。
普通、自分が読み飛ばして誤解して、相手を批判したら、
詫びるのが常識だが、もちろんあなたにはそんなものはない。
詫びるどころか、読み飛ばしたことを指摘されて、もっと怒り狂い、
「砂場のウンコロガシ」と罵りを返してきた。
いかにもペテン大作さんらしく、下劣な反応です。
読者は私の説明で、ペテン大作さんがどれほど下劣な人間かを理解できた。
相手に反論して、自分の主張をする時は、読者にも理解できるように、
こうやって丁寧に説明することです。
>深山さんの本名を書いてもいいですか?
>>314 :神も仏も名無しさん:2016/01/22(金) 13:29:17.06 ID:I/vQflyE
>深山さんの本名を書いてもいいですか?
この件はどうなったのだ?
ペテン大作さんが深山の実名を公開することを擁護側は期待している。
私はあなたから実名を確認していないから、許可や同意をする権利はない。
なにせ「深山の実名」を知っているのはペテン大作さんだけなのだから、
誰も許可など出しようがない。
あなたの自己責任において、公開したらどうか。
こういう社会ルールに反するようなことを書いて
他人を脅かすような、性悪な男だと自分から表明してはどうか。
「私は深山が言うように、性格が歪んでおり、根性が悪く、恨みで
夜も眠れないほどで、憎しみが激しすぎて、社会ルールに違反しようが
なんだろうが、深山を脅迫したかったのです。
でも、ヤツはなんともない顔をしてやがるばかりか、切り返してきやがった。
深山が目の前にいたらぶん殴ってやりたい!悔しい、悔しい、悔しい」
と、どこかの議員のように号泣しながら告白するってのはどうですか?
こんなふうにあなたがこの件を出せば出すほど、私はあなたの
からかいのネタに使うだけだが、あなたは絶対にやめない。
いつも、読者がそろそろ飽きたのを見て、私が沈黙して、
それでもあなたは吠え続けて勝利を宣言して終わる。
>英訳のこの部分を読めば、フンコロガシの話が嘘であることがわかります。
議論の焦点をそらそうと必死ですね。
あなたのその手は他人には有効でも、私には使えない。
「桐山さんは本の中で、ムチャリンダが帰依したと書いたが、
彼が根拠として引用した経典には帰依したとはない」
これが私が書いた事であり、あなたはこれに反論している。
ムチャリンダが帰依していない、なんて私は書いていないし、
そんな事は議論のテーマにしたことはありません。
ムチャリンダが漢文経典では帰依したとあるし、
パーリの律の和訳でも帰依したと翻訳している学者もいるから、
そんなことは書いていません。
桐山さんが書いたことが嘘だと批判しているのです。
桐山さんの本で引用した経典のどこにムチャリンダが帰依したとあるのだ?
反論したければ、それを示してみなさい。
なく晴れわたったのを知って、世尊の身体からとぐろを解いて、自分のすがたをかくして、
童子のすがたを現わして、合掌して世尊に敬礼して、世尊の前に立った。」
(『輪廻する葦』92頁)
これが桐山さんの引用した中村博士の訳で、パーリの律です。
この後、釈尊は偈を述べるだけで、どこにも帰依なんてない。
桐山さんは根拠となる律を引用しているが、その中には帰依とは書いていない。
私はそれをただ指摘しているだけです。
パーリの律にあると述べているのに、
帰依するとは一言もないパーリの律を引用しながら、
帰依したというありもしない結論を出している。
私のこの批判の何かおかしいですか?
だが、あなたはすぐに話を拡散させて、パーリの律に帰依があるかどうかという
議論に焦点を移そうと必死です。
私は、パーリの律で帰依したと訳している学者もいると認めているのですよ。
そんなことは知った上で、桐山さんの引用と結論は間違っていると批判しているのです。
ムチャリンダではなく、桐山さんの主張の間違いを指摘したのです。
>英訳のこの部分を読めば、フンコロガシの話が嘘であることがわかります。
ペテン大作さんは英語が得意らしいが、私は普通の日本人なので不得意です。
出すなら、英訳でなく、和訳を出したらどうか。
中村博士は「パーリ→日本語」に訳している。
あなたの引用では「パーリ→英語→日本語」と訳することなる。
翻訳は繰り返すほど正確さが落ちる。
直接的な和訳があるのに、なんのためにわざわざ英語にいったん訳するのか意味不明です。
西洋の学者の本を出すなど、もしかして、外国コンプレックス、英語コンプレックス?
専門の学者が翻訳してこそ意味があるのであって、素人が手をつけて
何とかなるなら、学者はいらない。
「パーリ→英語」が仮に専門家の訳でも、「英語→日本語」は素人の訳ですよね。
私がしばしば中村博士の訳を引用するのは、学者の中でも信頼度が高いからです。
ネット上の翻訳など参考にはするが、信用度は低い。
「天空に一片の雲もなく晴れわたったのを知って、世尊の身体からとぐろを解いて、自分のすがたをかくして、
童子のすがたを現わして、合掌して世尊に敬礼して、世尊の前に立った。
そこで世尊はこの意義を知って、そのとき次の詠嘆の詩を唱えられた。」
(『ゴータマ・ブッダⅠ』中村元、432頁)
これは中村博士の元の訳です。
桐山さんの引用とほとんど同じです。
もちろん、ムチャリンダが帰依したなんてどこにもない。
>学問的な根拠が無ければ、人は守護神とは認めません。
学問的な根拠がなければ認めない???
阿含経のどこに龍神の守護があるのだ?
ムチャリンダは守護など約束していない。
漢訳経典にさえも、守護なんてありません。
どさくさに紛れて、よくまあこういう口から出まかせを書きますね。
鏡を見れば、あなたは、学問的な根拠のないムチャリンダを
守護神だと信じている男を目撃しているではないか。
ムチャリンダのどこに学問的な根拠があるのだ?
釈尊時代からの蛇信仰、龍王信仰が仏教に入り込んだにすぎない。
学問的な根拠なんてありません。
蛇信仰にすぎないものを、ドラゴンだと思い込んで
拝んでいる無知な人たちたちがいるだけです。
無知だけならまだよい。
蛇だと教えられても、まだドラゴンだと言い張る愚か者もいるようです。
学者の誰がムチャリンダをドラゴンだと認めたのだ?
学問的にも、仏教の龍王(ナーガ)とは蛇です。
>私が漢訳経典に気付いたのは、>>345を書いた直後です。
よくまあ、こんな見え透いた嘘の言い訳を書きますね。
こういう嘘の言い訳をペテン大作さんは実生活や仕事でもしているのでしょう。
自分の事なのだから、他人にはわからないと思っている。
そして、周囲があなたの屁理屈に沈黙するのを見て、
自分の嘘の言い訳が通用したと思い込んできた。
そうやって次々と信用を失ったことにあなたは気がついていない。
もちろん、付き合いの長い私はあなたの上記の言葉などまったく信用していない。
339の直後に気が付いていたなんて、何の説得力もありません。
339 :神も仏も名無しさん:2016/02/28(日) 22:38:38.35 ID:jafMTDDk
この339の直後にあなたは気が付いたというなら、どうして修正しなかったのだ?
あなたは339の後も341まで書いている。
真夜中でもないし、修正する時間は十分にあった。
漢訳経典をパーリだと書いたのだから、あなたの主張は嘘だということになり、
これほど大きなミスをすれば、私から反撃されることは目に見えている。
翌日の昼に私が反論するまで十分すぎるほど時間があったのに、
どうして書かなかったのだ?
「339は間違っているので撤回します」とたった一行書き込めば
とりあえず済んだはずです。
あなたの嘘の言い訳は何の説得力もないばかりか、
ペテン大作さんてこういう見え透いた嘘が平気な人間なのだと
読者にわざわざ実証してみせてくれた。
読者の信用を失ったら、どんな偉そう事を書いても無駄です。
>あなたの解釈が嘘であることに変わりありません。
なにを逆に書いているのだ?
漢訳経典をパーリだと嘘を書いたのは私ではなく、あなたです。
私は解釈など議論していない。
パーリの律の議論さえもしていない。
勝手にあなたがそういう議論だと決めつけて、
パーリの律だと思い込んで、漢訳の律を出したのです。
自分で作った舞台で自分からコケタ。
ムチャリンダの帰依が議論であるかのように、
なんとか焦点をずらそうというだろうが、無駄です。
私はそんなこと議論していない。
桐山さんが引用した経典に根拠のないことを書いていると批判したのです。
あなたが勝手にその議論を作り上げて、独りで
「深山破れたり」と叫びながら、舞台の上で転んで、
馬鹿恥をかいても、まだ懲りずに、こうやって嘘の言い訳を並べて、
さらに恥の上塗りをしているだけです。
擁護派はどうしてこうも醜悪な連中が多いのだろう。
>護身祈祷が戒なんて、在家の五戒のどこにも出てこない。
釈尊の教えは実は出家も在家も変わらず共通です。
しかし在家は生活上の制限があるから出家ほど厳しくない。徹底の度合いが違うだけです。
しかし共通の教えなんだから在家も出家が大戒としていることくらい、戒律には
しなくても理解して守って欲しい。
在家も午後は食事をするななんて話ではない。
在家が護摩祈祷に参列して祈るなんて、もともと必要でもないやらなくて済むことなんですから
護摩に関わらないなんて簡単です。
>わたくしのように、取引信仰は一切なくて、供養するものには後悔など一切ないわけです。
護摩に因縁解脱を祈るのは取引信仰です。
あなたが祈らなくても教団が因縁解脱に護摩での浄化は不可欠で必ず月に1回
例祭の護摩に参加せよと取引信仰を指導 しているのだから、あなたの個人的なことなど
どうでもよい。
>最初から漢訳経典であることを知っていたわけではありません。
>まあ、あなたは信じないだろう。
いいえ、そのとおりだろうと思っていますよ。
だから、何度もあなたの視野が狭いと指摘してきた。
あなたは漢訳経典だと気が付かなった。
目の前に漢訳だと帯に書いてあり、引用の所にもあるのに
あなたの目には見えなかった。
それがペテン大作さんなのです。
視野が狭い上に、憎悪と自惚れという色眼鏡までかけているから、
見ても見えず、聞いても聞こえない。
あなたも一来補さんも、さらには桐山さんも、結論が先にあるのです。
本をあるがままに読むのではなく、自分の主張に合った所だけを
読み、そのように解釈するから、メチャクチャです。
一知半解で、単語や文言をつなぎ合わせ、自分の主張に合わせて解釈する。
だから、あなた方の主張は元の本を見ないでは何一つ信用できない。
これだけなら、視野が狭い、読解力が低いだけだが、
あなた方の特徴はこれだけではない。
>最初から漢訳経典であることを知っていたわけではありません。
>まあ、あなたは信じないだろう。
あなた方のもう一つの特徴は、自分のミスから絶対に学ばないことです。
自らの非を認めるなど、死ぬほど嫌いなのは、
今ペテン大作さんが必死に自分の間違いの言い訳をしているのを見れば十分です。
あなたは今回ものすごいドジを踏んで大恥をかいた。
実は、そのこと自体は大したことではない。
誰でも読み違い、記憶違い、思い違いなどある。
あなた方が普通の人と違うのは、自分の非を絶対に認めず、
さらにそのミスから学習しないことです。
反省し、学習しないから、毎回、同じ間違いをする。
あなたは十数年間、今回と同じような間違いを何度も繰り返していることに
気が付いていない。
なぜなら、自分のミスを絶対に認めないからです。
盂蘭盆経の学者の論文も、学者の結論とは逆の意味にとった。
今回と同じように、自分の結論を証明する道具に使おうとして、
文章をそのまま読もうとしないからです。
だか、今回もこの件を蒸し返しても、あなたは自分のミスなど
なかったと書いていましたね。
自分の間違いを反省どころか、記憶から消した。
だから、また同じ間違いをした。
これまでも、またこれからもあなたは同じ間違いを繰り返します。
>最初から漢訳経典であることを知っていたわけではありません。
>まあ、あなたは信じないだろう。
ペテン大作さんはここでこういう間違いをするだけでなく、
人生でずっとそれを繰り返している。
「自分のミスを絶対に認めない → 反省しない →
学習しない → 同じミスを繰り返す」
これがあなたと、桐山さん、一来補さん、宝生さんの人生です。
また、それをしている内は決して仏教を理解できない。
事実、目の前にあるのに、四人とも仏教を理解できないでいる。
人間に生まれたのは宝クジにあたったようなラッキーなのです。
今の日本人に生まれたということは、現代語訳で
釈尊の言葉をそのまま聞けるという素晴らしいチャンスに恵まれた。
法華経や密教など偽仏教だと知っており、阿含経こそが本物だと知っている。
これだけの恵まれた機会を得たのだから、仏道を少しでも歩むべきなのに、
あなた方四人は、なんとそれにツバを吐き掛け、罵っている。
そしてオカルトのアゴン宗や密教などの外道を信じている。
すごい光景です。
阿含経を読む限り、人間に生まれるチャンスは珍しく、
悪業を為した者が人間に戻る可能性はほとんどない。
あなたもこういう阿含経の記述を他人事だと思っているのでしょう?
自分の来世は最低でも人間だろうと思っているのでしょう?
>青春時代を過ごした教団を思い出しては砂の掛け合いをしている所です。
>そうすることで感傷に耽っているのです。
ペテン大作さんのこういう書き方を「キツネの酸っぱいブドウ」というのです。
キツネはブドウが欲しかったが、届かず、手に入らなかった。
悔しいから、あのブドウは酸っぱくてマズイに違いないと自分に言い訳をした。
あなたとそっくりですよね?
ここであなたは私を徹底的にやっつけるつもりだった。
大上段に振りかざして、実名公開などで斬りかかったが、私から逆に、
おまえが公開してみろと切り返され、何も言えなくなった。
ムチャリンダについて、私の文言に咬みついて、やっつけたつもりだった。
深山が持っていない外国の学者の本に、ムチャリンダの帰依を見つけて、
「深山破れたり」と大喜びしながら、ここに書きこんだら、簡単に足払いを食った。
足払いというよりも、自分から思いっきりコケタ。
あなたは、さらし者になり、私からからかわれ、怒りの憎しみで
沸騰して、いろいろと言い訳を並べても、歯がたたない。
そこで、酸っぱいブドウだということにしたのが、上記です。
あなたは深山に斬りかかったが、舞台の上で思いっきりコケテ、
「最初から、おれは別に深山をやっつけようなんて気は
なかったのさ。ちょっと砂の掛け合いをしただけさ」
と自分に言い訳をして、ポーズを取ってみせた。
読者は私のこの解説を読んで、あなたの汚さに鼻をつまみながら、笑っている。
だが、安心しなさい。
議論はいつもペテン大作さんが勝利した。
なぜなら、同じ主張をあなたは執念深く繰り返すが、私は読者が
飽きていることを察知して、レスをつけなくなる。
すると、あなたはいつも勝利宣言をした。
針の飛ぶレコードみたいな恥知らずの連中に普通の人間が勝てるわけがない。
ペテン大作、ケチョンケチョンwww
>>428 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2016/03/02(水) 08:13:27.91 ID:tnUQmYaa
ペテン大作の論理、ハチャメチャなカオス状態じゃんwww
不思議なもので、ハチャメチャな論理でカオスなのは深山偽教授でなくて私の方だと思う人もいるのです。
ところがその偽教授は、バローの件にばかり噛み付いてくるが、>>369の雲井昭善氏の文章についてはノーコメントです。
何故なのかは言うまでも無く彼には反論できないからです。
そこでバローの件やら、個人情報やらに集中的に噛み付いて、私への中傷を並べ、読者の目をそちらに向けさせておいて、
自分にとって都合の悪い内容を隠蔽する。
何しろ彼は非常に口の旨い男ですから、こんな芸当はお手の物です。
今まで彼はそうやって砂場の砂かけっこで大将になった気分を味わってきた。
だが、彼の書き込みをじっくりと検討すれば、そこには何ら論理性の無い妄想しかないことが分かります。
327 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/02/09(火) 12:37:06.78 ID:8fgeDqbt
ムチャリンダが少年の姿に変身したという記述も良く読んでみると違う。
「自分のすがたをかくして、童子のすがたを現わして、」
変身したとは書いていない。
姿を隠してというのだから、大蛇が去った直後に村の子供が来て、
樹木の下に修行者がいたから合掌して挨拶しただけです。
このように経典の記述には現実的な説明がつきます。
↓
「そしてムチャリンダ龍王は七日過ぎてのちに、世尊が瞑想から出られ、天空が一片の雲もなく晴れわたったのを知って、
世尊の身体からとぐろを解いて、自分のすがたをかくして、童子のすがたを現わして、合掌して世尊に敬礼して、世尊の前に立った。」
(『輪廻する葦』92頁)
上の文章は、桐山さんが本の中で引用した中村博士の和訳です。
偽教授は、この文章を読んで、ムチャリンダが自分の姿を隠した後、何と「村の子供」がやって来て樹下の修行者に挨拶したのだと言った。
こんな無茶苦茶な解釈をして恥ずかしく無いのか?
上の文章の中で「童子のすがたを現わしたのは誰でしょう?」と訊かれれば、まともな大人なら即座に「ムチャリンダ龍王だ」と答えられます。
「ムチャリンダ龍王」が「童子のすがたを現わして」の主語であること位、誰にだって理解できる。
ところが、この偽教授はそんなことすら理解できない。
これが「あなたは国語の読解力が無い」と口癖のように相手を非難する男の読解力なのです。
まともな読解力を持つ読者さんは、偽教授のことを哀れみを込めて笑ってあげましょう。
>>333 名前:深山 ◆lDoupiXSYZNC [] 投稿日:2016/02/28(日) 18:38:10.52 ID:XIEwEAX4 [13/16]
>「・・龍王が変身して、というのはともかくとして、少年が、というは、
>本当にあったことなのでしょう。」
>(『仏教かく始まりき』宮元啓一、27頁)
>と書いている。
>中村博士はムチャリンダは実在する大蛇であり、宮元氏は人間の少年が
>挨拶したのだと解釈しているのです。
>変身したのかどうかを議論したのではなく、学者たちも述べているような、
>子供がそこに現れたという現実的な説明でも可能だと述べたのです。
この宮元氏の説が偽教授の唯一の根拠なのです。
自分で仏典を調べたのではなく、他人の唱えた説の受け売りです。
パーリ仏典を自分で翻訳するのは素人では不可能なので、それも止むを得ませんが、
日本語よりも英訳の方が原語の性質からして翻訳には相応しいです。
(パーリ語はアーリア系言語でありインド・ヨーロッパ語族です)
ここに二種類の英訳を並べてみます。
3. And at the end of those seven days, when the Naga king Mukalinda saw the open, cloudless sky, he loosened his windings from the body of the Blessed One, made his own appearance disappear,
created the appearance of a youth, and stationed himself in front of the Blessed One, raising his clasped hands, and paying reverence to the Blessed One.
(Vinaya Texts, Part I (SBE 13) - Mahavagga - First Khandaka) http://www.sacred-texts.com/bud/sbe13/sbe1312.htm
>>420で引用した英訳
Then Mucalinda, the serpent king, at the end of those'seven days, having known that the sky^ was clear and without a cloud,
having imwoimd his coils from the Lord's body, having given up his own form and assumed a youth's form, stood in front of the Lord honouring the Lord with joined palms.
(Full text of "The Book of the discipline : (Vinaya-pitaka)") http://archive.org/stream/bookofdiscipline14hornuoft/bookofdiscipline14hornuoft_djvu.txt
上の英文
made his own appearance disappear, created the appearance of a youth, and stationed himself in front of the Blessed One, raising his clasped hands, and paying reverence to the Blessed One.
下の英文
having given up his own form and assumed a youth's form, stood in front of the Lord honouring the Lord with joined palms.
ご覧のように、二つとも、龍王は若者に変身してブッダの前に立ち合掌したと訳しています。
人間が他所から突然やってきて挨拶したのではありませよん。
これを見れば、偽教授の説はやっぱり偽(ニセ)であることがはっきりします。
というユビキタス先生のレスを目にした。
ユビキタス先生なら何を求めるのかね?
それは個々人のレベルによるだろう。
桐山師の場合は、常に願文を読み上げていますよ。
ついでに書いておくが、世間福と出世間福のことね。いつぞや深山先生が経ではこれこれこうなっている、桐山説は誤りだ、というようなレス
深山先生がいつぞや書いた世間福と出世間福のことだがね、桐山師は当然、ご存知でしてね、分かりやすく、総合的に説明したのです。
修行者座右宝鑑に書いてあるよ、随煩悩の説明の後にさ、ブッダは善業を福と呼んだとね。
善業は人に幸福と利益をもたらすから福と呼んだのだそうです。不善業を非福と呼んだそうです。だから供養する善業は福なのです。
ではボランティアなどの善業と福田供養の善業とは、何が違うのか?同じなのか?
そのあたりを説明したのが桐山師なのです。
深山先生は、あちこちしか目に入らないから桐山師の説明を見落としているのです。
そういう場合、ユビキタス先生はお仲間ですから指摘してあげたら親切だと思います。
>途中で書き込んだ、失礼。 深山先生がいつぞや書いた世間福と出世間福のことだがね
またまたそうやってすぐに喜んで喰い付くなよ みっともない。
欲しいんだろ?
欲しくてたまらないんだろ?
低能なんだろ?
低能だから、
ここでのモグラ叩きに夢中なんだろ?
だから何十年も、
ここに常駐するのだろ?www
そんな細かいこと言う前に、センセイは現実に困った人を助けましょうね。
祈って助かる、良い医師にご縁が生じる、良い縁談が舞い込む、とにかく
助かれば何でも良いのである。最終的に精神的な救いである菩提を求めて当人が
神仏に祈る様になるのが理想である。
この菩提を得る事が最も強欲な人間最終の願望ではあるまいか。
深山センセイに一言、龍に蛇の鱗(うろくず)在るが如し。
似ているからと言って混同してはいけませんな。
昔し、宮中の神泉苑にて雨乞いの祈祷を行い、その都度、間違いなく効験があり
雨の僧正と名声が広まった、小野の仁海僧正の伝記を読みたまえよ。
修法檀の近辺、池の水より龍神が舞い上がったと記録にある。
多くの人が見聞した伝承の実話と小生は受け止めている。
なぜか?それは先祖が原因で解脱供養10万円ださなければ助からない。
相談者からみれば首吊り人の足を引っ張る行為である。
とにかく助かりたければ金がいる。
すなわち詐欺師、騙し仏教である。
護摩祈願もしかりである。
お経通りにしないといけなんだ。
無反応な人間となる、ロボコップを目指すわけですね。
それが解脱か。
初期仏教って気が狂いそうな世界ですね。
>護摩祈祷で何を求めるのか?
>というユビキタス先生のレスを目にした。
>ユビキタス先生なら何を求めるのかね?
>それは個々人のレベルによるだろう。
>桐山師の場合は、常に願文を読み上げていますよ。
何を祈るかではなくて、そもそも釈尊の仏教では祈らないのです。
目標に向かって勤勉に現実努力することは説きます。
しかし祈らない。ましてや焚き火をしてまで祈らない。
そもそも護摩がなければ死んでしまうなんて人がいるか?
飯を食わねば、眠りをとらねば、死んでもしまうが、護摩が無いから死んだ奴は
1人もいない。
これを否定するのなら、あなたが死んでみなさい。
いや、是非とも死んでくれ。お願いだから死んでくれ。殺すために護摩でも焚こうか(笑)
じゃあ護摩に頼らない連中はどうしているかと言うと、懸命に生きている。
人間は懸命に生きればいいのだ。
祈りたい気持ちになるのも人情として理解もできるが、しかし問題を解決しようと
思ったら、祈る暇があったら必死に現実努力するしかない。
護摩にすがる弱い心を克服して、強い心を持たねばならない。
アゴン宗では星まつりの願文にあるような諸願成就も説いて、さあ祈りなはれ祈りなはれと
弱い心を育てることをボダイ心などと勘違いをしている。
あとよその密教教団にもない因縁解脱だが、これには護摩の力が必須です。
千座行時代から月例祭の護摩にはかならず参列し、御宝塔を浄めなければならない。
護摩に参列しないと因縁の垢が積もってしまうと説くわけです。
つまり護摩なしでは生きていけないと言うか、因縁解脱できないのです。
因縁解脱できないと横変死の因縁とかガンの因縁とか悪い因縁を持った連中は
その因縁のために死んでしまうのです。
アゴン宗だけは護摩がないと死んでしまう。
あってもガンなどで死ぬけどね。
>>415 :神も仏も名無しさん:2016/03/01(火) 22:17:49.84 ID:AtHX9DU/
>Aの個人情報は私のものではなかったということは、
>私が魔女狩りに強烈に反応する理由も無ければ、実名をばらすとあなたを脅す理由も無くなる。
>個人情報についてのあなたの主張は上記の二行らしいが、
>何回読んでも、意味不明です。
>議論している私でさえ理解できないのだから、読者は誰も理解できない。
理解できないのではなく、理解したくないだけだろう。
ならば、誰にでも分るように書いてあげる。
>私はペテン大作さんをAさん(>>392)だと長年思い込んでいた(>>417の487)。
>だから、あなたから違うと言われて驚き、疑った。
>そこで、ペテン大作さんには関係のない情報なのだから、
>公開してもあなたにとってはかまわないのかと質問した。
>あなたは構わないと答えた。
>つまり、あなたがAさんでないことが確定したわけだ。
>それて終わりです。
終わりではないだろう?
つくづく嫌な人だね、あなた。
あなたは、10年前にAという人物の個人情報を本人の許可を取って書いた。
そのAという人物を、あなたはずっと私だと思い込んでいた。
そして最近になって、私から名前を書いていいかと言われたことで、
あなたは、これはきっと10年前に個人情報を書かれたことの復讐に違いないと邪推した(>>416
そして、>>417にあるように私を散々に罵った。
>桐山さんと同じで、本当に根性が悪い。
>桐山さんと同じで、本当に執念深い。
>威張り腐っているわりには、どうしてそんなにいつもドジなのだ?
ところが、私から、私の個人情報とは何かとしつこく追求されたことで、
あなたは、やっと自分の間違いに気付いた。
Aと私を取り違えていたのだ。
あなたこそ、何でそんなにドジなんだろう?
さあ、それで、私がAでないことが確定してこれで終わりだと?
邪推をもとに私を罵ったことについては何も言うことは無いのか?
こういうところに、あなたの人間性が出るのです。
あなたには、他人の間違いを追求する資格などない。
あなたの様な卑しい性根の持ち主が語る言葉にはいつも汚物の臭いが漂っている。
いくらご高説を披露したところで報復絶倒されるのがオチだ。
深山峡谷中的大型猛禽 http://www.xcar.com.cn/bbs/viewthread.php?tid=13885724
あのね、何のためにアウフへーべンの話しをしたのかね?護摩に祈るのは釈尊の仏教ではないですと?
あたり前でしょ、そんなこと。だから桐山師は阿含宗立てるときに、阿含密教いま、の本で釈尊の仏教と大乗仏教を統合するアウフへーべンの話しを書いているのです。
もう40年近くも前の話しですよ。
釈尊仏教以外は嫌いな人は、阿含宗の立宗時に退会しなければ理屈に合わないわけです。
少なくとも、阿含密教いま、を読んだら退会しなければおかしいよね。それなのに何年も阿含宗信者を続けてから、突然気がついたように、護摩がどうのこうのというwおかしいよ。
密教は、大日経は煩悩さえ肯定する経だから、釈尊仏教でないのはあたり前だな。
大日如来仏教だもの。
今頃、まだ騒ぐのはおかしいでしょ。
比丘衆に説いたことを、深山ユビキタス先生は混同しているわけですね。
>邪推をもとに私を罵ったことについては何も言うことは無いのか?
罵ったとは、これのことですか?!
>桐山さんと同じで、本当に根性が悪い。
>桐山さんと同じで、本当に執念深い。
これはおもしろい。
読者の皆さんは見てごらんください。
毎日のようにウンコ教授、ウンコロガシと他人を根拠もなしに罵り続けて
いるペテン大作さんが、自分が罵られたとして、これを謝れと言っている!?
さすがは桐山さんの「弟子」だけあって、自分が他人を傷つけることには
超鈍感で、自分が傷つけられると何十倍にも痛みを感じるらしい。
>>299 神も仏も名無しさん 2016/01/22(金) 00:27:02.15 ID:I/vQflyE
>深山さんの本名を書いてもいいですか?
>>314 :神も仏も名無しさん:2016/01/22(金) 13:29:17.06 ID:I/vQflyE
>深山さんの本名を書いてもいいですか?
>>603 :Klingo~n:2007/08/05(日) 12:34:55 ID:taBn/oxc
>私も多くの掲示板を見てきたが、相手に個人情報を要求した人は見かけたことがない。
>匿名スレで個人情報を求めるなんて最低限のルールもわきまえていないんですね。
上記の293=308=603=ペテン大作さんです。
個人情報を求めるなど非常識だと言った人が、十年前の怨みから実名を
公開して良いのか私を脅かし、その姿を執念深くて根性が悪いと言われると、
これを謝れという。
このエゴイストぶりに桐山さんの愛弟子の称号をあげましょう。
>邪推をもとに私を罵ったことについては何も言うことは無いのか?
書いたままで、撤回する必要はありません。
お気に触るならちょうど良い。
あなたは現実世界では直に言われたことがないようですね。
では、あなたの周囲の人たちの本音を私が代わりに言ってあげましょう。
あなたは根性が悪く、異様に執念深い。
ペテン大作さんは、
・十年前の魔女狩りの件を逆恨みしている → 執念深い、
・その件を理由に「深山の実名公開」と脅迫した → 根性が悪い
・実名公開で深山を脅かしたが効果がなく、逆手に取られた → ドジ
という構図です。
Aさんの個人情報の件とは関係なしに、あなたは十分に執念深く、根性が悪く、
バローの件を含めて、勝利を宣言しながら突撃して、自分の作った舞台で
スッテンコロリンと転ぶのだから、いつも大ドジです。
あなたが執念深く根性が悪いという事実はAさんの件があろうがなかろうが、
何も変わらないばかりか、なんなら、執念深く、根性が悪く、底意地が
悪いわりにはドジだという事実を、実例を引き合いに何度でも書いてあげます。
過剰に反応するところを見ると、少しは自分でも自覚があるのですか?
>邪推をもとに私を罵ったことについては何も言うことは無いのか?
魔女狩りが嘘だという根拠が、何と自分の所に追及がなかったからだという。
子供でもそんなマヌケな主張はしません。
しかも、執念深く逆恨みにしてここに十年前の怨念を書き連ねる。
それをあなたは当たり前だと思っているのですよね?
それが異様なのです。
455の書き込みもあなたは当たり前だと思っている。
だが、異様なのです。
これだけ私を罵り、毎日のように罵声を繰り返すあなたが、
自分が批判されたことに腹を立てて、謝れると言っている。
あなたの心はますます恨みと執念深さがひどくなっている。
それがあなたの罵声です。
ウンコ教授、ウンコロガシ、こういう罵声は十年前はなかった。
ここでこういう子供じみた罵声を繰り返すのは一来補さんや「元信者」さんです。
あなたは前はなかったのに、今回から始まった。
なぜかわかりますか?
あなたの脳が老化しているからです。
当たり前だが、誰でも脳は老化して、理性のブレーキが効かなくなる。
煩悩を減らし抑えるように努力していないペテン大作さんや一来補さんは
脳が老化すれば、理性が効かなくなり、罵声を抑えられなくなる。
認知症の老人に暴言が多くなるのはこれが理由です。
今あなたは、深山の実名がわかっても危害を加えることはないと言う。
だが、今でも危ないのに、この先、あなたの脳が老化して理性の
ブレーキが効かなくなったらどうなるのだ?
>いくらご高説を披露したところで報復絶倒されるのがオチだ。
今回、抱腹絶倒されたのは私ではなく、ペテン大作さんです。
バローの件は抱腹絶倒ではなく、あなたの汚い嘘に苦笑いした。
もちろん、漢訳経典だと気が付かなかっただろうと思いますよ。
視野が狭く、一知半解で自分の主張に合わせて捻じ曲げた。
だから、知っていて嘘をついたとは言わない。
あなたの嘘はその後で、
>私が漢訳経典に気付いたのは、>>345を書いた直後です。 (>>423)
という言い訳です。
気が付かなかったら、率直に読者に謝罪すれば済むものを
何とか誤魔化そうとさらに嘘を並べた。
執念深く根性が悪いだけでなく、桐山さんと同じで、あなたは嘘つきだ。
そんな見え透いた嘘をついて通用すると思っているのですね?
必死になって、なんとか誤魔化してやろうと考えた末の嘘が、
こんなバレバレの嘘。
嘘をつくにしてももう少し工夫はないのか。
深山をやっつけたくて憎しみで凝り固まっていることを、
私が解説すると、それに合わせて、あなたが実演してくれている。
間違ったことを主張して読者に謝罪することもしないで、
開き直り、新しい嘘をついた。
これを指摘されても、あなたは恥ずかしいという気持ちがありませんね?
恥ずかしいのではなく、深山への激しい憎悪と恨みを感じるだけです。
こういう嘘と憎しみが凝り固まったペテン大作さんが
どんな御高説を唱えようが、大半の人は苦笑いするだけです。
>いくらご高説を披露したところで報復絶倒されるのがオチだ。
バローの本で私をやっつけてやろうとして、怨念で凝り固まり、
視野が狭くなり、逆に愚かなミスをしてコケタ。
しかも、あなたはこれが初めてではなく、盂蘭盆経など毎回です。
目の前の文字が見えなかったという視野の狭さを認めるか、
それとも、知っていたが、嘘を書いて騙そうとしたか、
あなたはどちらかを選択するしかなくなった。
念のために言うが、その危機的な状況を作り出したのはあなた自身であって、
私はいっさい関係ない。
あなたのその憎しみと復讐心があなたをその状況に追い込んだのです。
と説明されても、恨みの心しかないあなたが理解できるはずもない。
前門の虎後門の狼状態になり、選択の余地なく前者を選んだ。
だが、自分のミスで窮地に追い込まれたことが悔しいから、
気が付いていたなんて、さらなる嘘を書いた(>>423)。
これを見た時、あなたがここまで愚かなことに、私はため息が出た。
わざわざ、私に嘲笑いのネタをさらに提供した!
バローの本を出して自分で自分を窮地に追い込んで、これだけでも
大変なのに、さらに嘘を書いて、もっと状況を悪化させた。
あなたは私から簡単に反論されると思わなかったし、
まだ「嘘ではない。直後に気が付いていた」と主張するのでしょうね。
だが、直後に修正をしなかったばかりか、私から指摘されるまで
十二時間も何もしなかったという事実は、どんな屁理屈を並べようが、
何の説得力もないばかりか、見苦しい嘘の言い訳にしか見えない。
あなたは読者がそんなこともわからないほどバカだと侮っているのか?
桐山さんもあなたも世間を小馬鹿にしているのですね。
>いくらご高説を披露したところで報復絶倒されるのがオチだ。
あなたは自分の事は自分にしかわからないのだから、
適当に嘘を書いても、誰も嘘だとは証明できない、と思っているのでしょう?
視野が狭く、自分を見れば自分しか見えず、他人を見れば他人しか見えず、
自分を見ている他人、という二者を同時に見ることができない。
普通の人があなたみたいな見え透いた嘘を書かないのは、
自分を見ている他人が見えるからです。
私は、あなたがそうやって嘘をついても人を騙せると本気で
信じて、しかも実行する点で、人間性を疑うのです。
と言うか、人として信用していない。
自分の思い込みから来た恨みや復讐のためなら、なんでもするタイプの人間です。
だから、私の実名を知ったら、あなたは私に危害を加えようとするだろうと
予想しているのです。
余談だが、あなたが周囲の人が自分に敬意を払っていると思っているのは誤解で、
あれはあなたの復讐を恐れて、慇懃な態度を取っているのです。
一来補さんが同じような誤解をしていて、
優れた自分に敬意を払ったと勘違いしていたが、嫌われているだけです。
一来補さんは嫌われ、ペテン大作さんは恐れられているから、
周囲は二人とは関わりたくなく、慇懃に距離を取るのです。
一来補さんにこれを教えても鼻先で笑った。
だが、ペテン大作さんに少しでも知性があるなら、
職場でそういう目で相手の反応を観察してごらんなさい。
>いくらご高説を披露したところで報復絶倒されるのがオチだ。
今回、ペテン大作さんの御高説で最も抱腹絶倒は、龍神の件です。
私の>>370の質問はあなたがどう信じているのかを確認するためのものです。
幸い今回あなたは>>375で答えてくれた。
阿含経にはどこにもムチャリンダは守護神だとはないが、
あなたは「守護神を思われる遺跡」があることを理由に守護神だと主張した。
釈迦仏教の常識や学者たちの説を否定した。
信仰は各人の自由だから、あなたの信仰をあれこれ批判するつもりはありません。
議論しないという意味です。
だが、阿含経に基づくのではなく、遺跡に基づき、龍王が仏教の
守護神だと主張することに、あなたは何の羞恥心も感じないことに驚いている。
あなたは遺跡が根拠だという自分の主張が通用すると思っているのでしょう?
UFOの写真があるから、宇宙人がいると主張するような、子供じみた発言です。
あなたの信仰とは阿含経などの文献や、論理的な知性に基づくものではなく、
私が予想したように、自分が信じたいように信じるという
知性の低い信仰だということがわかった。
くり返すが、あなたの信仰を議論しているのではない。
阿含経は振り回すだけで何も学んでおらず、あなたの信仰がイワシの頭だと
わかったという意味で、イワシの頭を信仰するのはあなたの信仰の自由です。
>いくらご高説を披露したところで報復絶倒されるのがオチだ。
>>370の質問2は、あなたがアゴン宗を信じているらしいことを確認するためです。
くり返すが、信仰は自由であり、あなたの信仰を批判しているのではなく、
あなたの信仰の知的レベルを知りたかったのです。
ここでの議論が、阿含経や正当な仏教に基づく、知性的な理性的な議論なのか、
それとも、私の予想どおり、それらを道具に使い、単に深山憎しで
やっつけることが目的なのか、確認したかった。
あなたはただの深山憎しでここに来るのは知っているが、最近、あなたが
漏尽解脱を認めたことに驚いたのです。
もしかして、あなたにも本当に仏教を知りたいという求道心が
芽生えたのかと期待した。
だが、質問をしてみてやはりそうでないことがわかった。
蛇が中国製のドラゴンの着ぐるみを着て現形したと信じているのだ。
相変わらず、頭の中は桐山オカルトが満載されているオカルト親父ですね。
「青春を過ごした教団の思い出」と書いているが、
あなたの頭の中はまさにそうで、不思議大好きな中高生から一歩も出ていない。
そういえば、あなたはアゴン宗は完全仏教だと評価したんでしたね。
十数年、ここで批判を読み、釈迦仏教の解説を読んで、
それでもアゴン宗が完全仏教だと擁護することに何のためらいも
羞恥心もないペテン大作さんの知性には失笑しました。
>いくらご高説を披露したところで報復絶倒されるのがオチだ。
これを読んでいる他の信者さんたちは、このスレで本当の
仏教とは何かを知る機会を持ったのは前世で何か為したからです。
だが、それはチャンスを与えるにすぎない。
仏縁など釈迦仏教にはありません。
単にチャンスがあるだけで、掴むかどうかは本人の選択です。
一来補さん、宝生さん、ペテン大作さんのようにツバを吐き掛けるのも自由です。
だが、他の信者さんたちだけでも、この三人の愚か者の真似をせずに、
せっかくのチャンスなのだから、本当の釈尊の教法とは何なのかを
理解だけでもしてはどうか。
信仰しろとは言わないから、せめて理解することです。
なぜなら、時間があまりないからです。
信者さんが二十歳なら、六十年以上も時間があるよう見えるが、
明日死なないという保証のある人は誰もいない。
七十すぎている一来補さんなど、平均寿命からいったら十年ない。
しかも今でも十分に脳が老化しているから、理解できる時間は少ししか残されていない。
今生の寿命の限界だけでなく、来世は阿含経に巡り合う機会が
あるとは限らないし、ましてや人間に生まれてくるとは限らないのですよ。
釈尊は人間に生まれて来た今を大事にして教法を体得するように説いている。
ちなみに、ここにいる三人には次はありません。
>あのね、何のためにアウフへーべンの話しをしたのかね?護摩に祈るのは釈尊の仏教ではないですと?
>あたり前でしょ、そんなこと。だから桐山師は阿含宗立てるときに、阿含密教いま、の本で釈尊の仏教と大乗仏教を統合するアウフへーべンの話しを書いているのです。
だから桐山さんがアウフヘーベンなんて知ったかの用語なんて使おうとも
釈尊の仏教と密教の護摩などはアウフヘーベンなどできないのです。
桐山さんがやったのは単なる足し算です。
泥棒してはいけないよという教えと万引きをする教えをアウフヘーベンをしたとは
結局万引きをしたのです。で、その実桐山さんは泥棒するなに相当する釈尊の阿含経は
看板だけで何も加えていないのだから、この足し算は0+10となり、もともと
やっていた万引きに 相当する護摩だけが残り、足し算すらも成立しない。
泥棒するなと万引きのテクニックは両立しないのです。
しかし、因縁は切れていないよね(^p^)
深山裡的廢都 http://bbs.fengniao.com/forum/4898542.html#
それなのになぜ阿含信者を続けたのか?
その理由は御利益が欲しかったからです。
深山くんが正直に公言したね、御利益求めてさんざん取引信仰したと、ね。
ユビキタスくんも本質は深山くんと同じです。
本当の仏教なんて本当はどうでもいいのです。
本当は御利益が欲しかった、それが深山ユビキタスくんの本音なのです。
だから煩悩無くすなんて本当は関心なくて、非難レスという煩悩を撒き散らしているのです。
深山ユビキタスくんの理屈ならば、阿含信者を騙されていることから救うなんて、そういう願望を持つこと自体が煩悩のわけです。
ところがそういう大義名分=煩悩、で非難レスを繰り返している。支離滅裂ですねw。
>修法檀の近辺、池の水より龍神が舞い上がったと記録にある。
>多くの人が見聞した伝承の実話と小生は受け止めている。
UFOを多くの人が目撃したら、宇宙人が来ていることになるのですか。
ここで今何を議論しているのか、宝生さんの頭では理解できないのですね。
龍神がいるかどうかなんて議論していない。
アゴン宗の龍神現形はインチキだと批判しているのです。
桐山さんは阿含経にあるムチャリンダがアゴン宗の正しさを
証明するために護摩の中にドラゴンの姿で現形したと主張している。
これが真っ赤な嘘だと批判しているのです。
それなのに、あなたの引用した目撃例が何の役に立つのだ?
宝生さんの頭って本当にピントが定まらない。
「龍王、龍神と、ヘビはなんら関係ないのである。」(『輪廻する葦』94頁)
桐山さんはムチャリンダを蛇ではないと断言した。
だが、ムチャリンダは蛇です。
「龍王」(ナーガ・ラージャ)というのは、あの猛毒を持つキング・コブラのことです。」
(『仏教かく始まりき』宮元啓一、春秋社、27頁)
ムチャリンダの図像をネットで検索してごらんなさい。
ブッダの後ろに首がたくさんある蛇が守護している図像がたくさん出てくる。
中には、顔がドラゴンのように装飾されているから、日本人は
頭からこれはドラゴンなのだと決めつけて見るが、あれは蛇です。
(『仏教かく始まりき』宮元啓一、春秋社、27頁)
阿含経の蛇が、なんでアゴン宗ではドラゴンなのですか?
桐山さんの無知です。
桐山さんは龍王(ナーガ)が蛇だという仏教の基本知識すらもない。
多くの日本人が仏教の守護神にドラゴン(龍)がいると頭から信じているように、
桐山さんもそう信じ切っていた、というか、今でも信じている。
素人の日本人ならかまわない。
だが、彼は万巻の書と仏典を渉猟したと自称する男です。
現実は、ごらんのとおり、こんな基本的な事も知らない。
万巻の書を読破したどころか、仏教を普通に学んだこともないのは
彼の経歴を見れば十分です。
だから、因縁切りなんて新興宗教の教義を取り入れている。
だが、桐山さんの場合、単なる無知で話は終わらない。
「龍王、龍神と、ヘビはなんら関係ないのである。」(『輪廻する葦』94頁)
桐山さんは現形した姿を見ており、霊視する力を持ち、
ムチャリンダから御霊示をもらったという。
これも嘘だとわかる。
宝生さんと同じで、インチキ霊能力です。
蛇のムチャリンダをどうしてドラゴンだと見間違えるのですか?
蛇とトカゲが違うことは子供でも知っている。
ところが、霊能力を持ち、龍神の姿を霊視できる桐山さんは
蛇がトカゲに見えたという!
上記の文章は桐山さんの霊能力自体が嘘だという証拠のようなものです。
>取引をする信仰が何故にいけないのかなあ?
あなたの好きな創価と同じ取引信仰や御利益信仰の何が悪いと言いたいいのですね。
アゴン宗の教義を全然知らない宝生さんらしい発言です。
批判側が言っているのではなく、桐山さんが昔言っていたのです。
「然し、観音慈恵会に於いては、会長先生の御性格からして、おかげ話と
いう様のものをあまりお好きではないことと、それから、
これは重大なことですが、しばしば体験談というものが、家庭や、
家族間の秘事、秘密につながることが多いのです。」
(千座の歩み、1965年、98頁)
「密教は、神や仏をおがんで、そのおかげや御利益をいただいて幸福になろうとか、
なにかうまいことにありつこうとか、安心やなぐさめ、さとりや休息を得たい
などとはいっさい考えないのである。」
『密教超能力の秘密』280ページ
「わたくしたちの教団は、いわゆる「おかげばなし」というものをあまり好まない。」
(『人間改造工学』12頁)
「だいたい、「ごりやく」「功徳」とはなにかといいますと、それは「よいこと」がある。
「うまいこと」がある。「とく」をする、ということでしょう。
しかし、まずそういう心を捨てるところから、因縁解脱が始まるんじゃないですか?
そういう、うまいことにありつきたい、とくをしたいという心からはなれるところから、
仏の教えはスタートしているはずではありませんか?」
(『一九九九年カルマと霊障からの脱出』1981年、90頁)
仏の教えはスタートしているはずではありませんか?」
(『一九九九年カルマと霊障からの脱出』1981年、90頁)
桐山さんは露骨なおかげ話はしないし、それを売り物にはしないと宣言していた。
そればかりか、上記のように御利益信仰、取引信仰を批判している。
どうしてだと思いますか?
「バカをいっちゃいけません。
どんなによい「ごりやく」をいただいたって、どんなによいことがあったって、因縁解脱し
なければ、なんの足しにもならんのですよ。かえって苦しみを増すばかりだ。」
(『一九九九年カルマと霊障からの脱出』1981年、90-91頁)
「因縁さえ切ってしまったら、わたくしには常人にない非凡な星がたくさんある。」
(『一九九九年カルマと霊障からの脱出』1981年、95頁)
桐山さんは、因縁が切れないかぎり、どんな御利益も無意味だと説いたからです。
桐山ゲイカによれば、彼はものすごい才能をいくつも持っていたが、
悪因縁があるために全部つぶされて、先祖のせいでムショに入るという
悲劇的な人生を歩んだ。
もし、因縁さえ切れば、桐山ゲイカの才能をもってすれば、
たちまち芥川賞でも直木賞でも取れるような大作家になれる!
と言うわりに、因縁を切った後の彼の小説はどれも同じパターンで
全然おもしろくない・・・なんて話はさて置いて、
この桐山ゲイカの主張は、御利益を正面から唱える創価などの愚劣な信仰を
真っ向から嘲笑っていて、格好が良い。
皮肉を言っているのではなく、私は実際に信者時代そう思っていた。
御利益信仰や取引信仰など低劣、愚劣、レベルの低い信仰であり、
そんなことに惹かれて集まる信者など餓鬼レベルの連中であり、
アゴン宗は真の仏教だから、あんな連中とは違う!と誇りにしていた。
今から振り返ると、自分も因縁切りを仏道だと信じ込んだ餓鬼の一人に
すぎなかったのだが、桐山ゲイカの御利益に対する決然とした
姿勢には大いに共感していた。
だが、桐山さんは1980年代後半になると、このポーズを取り切れなくなった。
必ず望みごとをかなえてくれるのだ。」(アラディンの魔法のランプ、1993年、3頁)
仏舎利は呪文を唱えると御利益をくれるというのです。
私はこれを読んだ時、かなりショックだった。
すでに桐山さんへの疑問は風船のように膨らんでいた時期とは言え、
御利益をここまで露骨に書かれると、梯子を外されたようなショックを受けた。
これでは創価と同じではないかというショックです。
宝生さんは創価と同じで御利益信仰が大好きな人だから、
何がショックなのかわからないでしょう。
桐山さんが御利益信仰を侮蔑的に見ていたのに、方針転換をしたのは、
仏舎利を輸入して積徳行による解脱を出した頃からです。
これ以降は、創価顔負けの露骨な御利益信仰、取引信仰を宣伝文句にして今日に至る。
方針転換した理由は簡単で、信者が減り始めたからです。
そこで千座行という厳しい修行をやめて、御利益で釣ることにした。
普通の新興宗教がたどる道を桐山さんもたどっただけです。
>あのね、何のためにアウフへーべンの話しをしたのかね?護摩に祈るのは釈尊の仏教ではないですと?
>あたり前でしょ、そんなこと。だから桐山師は阿含宗立てるときに、阿含密教いま、の本で釈尊の仏教と大乗仏教を統合するアウフへーべンの話しを書いているのです。
桐山護摩には祈祷護摩と開発護摩があります。
もっとも開発護摩なんて名ばかりで、実際には祈祷護摩しかありませんが。
釈尊の否定禁止した護摩と、密教がヒンズー教からとり入れてしまった護摩との
アウフヘーベンを考えるにあたり、祈祷護摩は神への依存を否定して自立を説いたことに
反するので認めるわけにはいかない。
しかし、開発護摩とやらはどうか?という視点について考える。
しかし考えるよりも前に意味がないことがわかる。
それは開発護摩など実は名ばかりで実体は無いのもそうなんだが、仮にあったにせよ
結局祈祷護摩を取り止めておらず、しっかり祈祷護摩をしている事実がある。
密教がヒンズー教の護摩を取り入れるにあたり、そのままの趣旨ではまずいので
せめて仏教流に定義を変えようと考えた屁理屈が「仏の智火により護摩木に見立てた煩悩を焼き尽くす」
ということであるが、内面を浄めるには内面努力しかなく外面をどう体裁作ったところで
変わりないのは既に説いたところだ。しかし子供だましみたいな見立てだけならまだしも
しっかりと願い事も叶う側面を残しているのはどういうことだ?
煩悩を焼き尽くすことを目的にするならば祈願なんて叶えてはならないだろ?
煩悩も込めて祈願を書いた。ならば祈願ごと焼き尽くし、祈願などは見事に叶わず
諦めもさせてこその煩悩を滅する見立てだろうが?それがちゃっかり祈願だけは叶うなんて
ムシがよすぎないか?叶ってしまったらまた煩悩を育ててしまう。
臭い芝居にすらならない。密教の作者が如何に煩悩を単なるコトバでしか捉えず
その実体を考えていなかったのかわかる。
護摩木に書いた施主・願主の煩悩の部分だけ焼き尽くされ、祈願だけは叶ってしまう
御都合主義です。桐山さんもそっくりそのままそれを残している。
とんでもない宗教犯罪を為した。
それが三福道です。
積徳行の正しさをオシャカに保証させるために三福道を捏造した。
御利益経典を捏造して、さもオシャカも人集め、金集めを奨励して、
その見返りに解脱を約束したかのように見せかけた。
三供養品に、三善根と三福道の二種類の経典があるかのように
漢文経典まで捏造して、本に載せた。
「ここでは、徳薄く福少ない者であっても、福徳を身につけて成仏に向かうことのでき
るという下根の成仏法が説かれた、『増一阿含経・三供養品三福道』と同内容で異訳
本の『増一阿含経・三供養品善根』(以下「三善根」)を講義いたします。」
(『社会科学としての阿含仏教』227頁)
信者さんたちは良く見てください。
阿含経の三供養品には二種類あるのだと書いている。
これが真っ赤な嘘だとここで批判されて、桐山さんは次のように誤魔化した。
「わたくしはこれを「三福道」と命名しました。」
(『仏陀の真実の教えを説く[中]』93頁)
信者さんたちは良く両者の文章を比較してください。
前は阿含経に二つあるかのように書いて、漢訳経典まで引用したが、
ここではその三福道は自分の造語であることを認めている。
異訳経典があるなんて、真っ赤な嘘です。
アゴン宗の在家信者の信仰の基本、土台、大黒柱の三福道は桐山さんの
捏造であり、阿含経にはありません。
信者さんたちの信じている因縁切りも御利益も三福道が元になっているが
それは桐山さんの捏造です。
つまり、因縁切りどころか、御利益さえも根拠がない。
経典捏造の犯罪はこれだけではありません。
「また、「自須陀オン至阿那含断五下分結」の十三句は、のちに述べる通り
の理由により、同意の他の阿含経から取り入れた。」
(『末世成仏本尊経講義』255頁、1986年)
信者さんたちが読誦している「自須陀オン至阿那含断五下分結」
は元の阿含経にはなく、桐山さんが付け加えたものです。
阿含経に勝手に文言を付け加えたのですよ。
私は信者さんたちの中でこの事実に慄然する人がいると信じている。
一来補さん、宝生さん、ペテン大作さんはこの桐山さんの宗教犯罪を見ても、何も感じない。
彼らは嘘が何ともないから、桐山さんの経典捏造の何が悪いのかわからない。
法華経など大乗経典は偽経典だと激しく批判した桐山さんが、自ら、釈尊直説の
金言である阿含経に書き加えるというとんでもないことをしたのです。
桐山さんの道徳心を疑いませんか?
だが、彼は自分は無限の道徳心を持っていると自称しているのですよ。
三福道の捏造と、この書き加えの捏造はここで盛んに批判された。
三福道の捏造は半ば認めたが、書き加えについては更なる嘘をつく道を選んだ。
それが次です。
を断ず」と同経に記されている。」
(『輪廻転生瞑想法Ⅱ』335ページ、2012年)
同経とは三供養品のことです。
その経典に「須陀オン自り阿那含に至りて五下分結を断ず」
と記載されているというのです。
もう一度、桐山さんの昔の本を見てください。
「また、「自須陀オン至阿那含断五下分結」の十三句は、のちに述べる通り
の理由により、同意の他の阿含経から取り入れた。」
(『末世成仏本尊経講義』255頁、1986年)
1986年には「取り入れた」とは桐山さんが書き加えたことを認めていた。
自分が書き加えたことを三十年前は認めていたのに、
書き加えを批判されても、どこ吹く風で、2012年には最初から阿含経に
あるかのように開き直りの嘘を書いた。
三十年前は正直に自分が加えたことを認めていたのに、
その宗教犯罪をごまかすために新たな嘘を書いた。
インチキをごまかすためにさらなる嘘をついた。
これが仏陀の智慧と無限の道徳心を持つと信者さんたちが信じている聖者様の
正体です。
>取引をする信仰が何故にいけないのかなあ?
信者さんたちが御利益信仰をしようが、取引信仰をしようが自由だが、
その根拠となっている三福道は、経典そのものが桐山さんの捏造であり、
なんら阿含経に根拠がないという事実をまず確認することです。
何を信じるのも自由だか、釈尊は桐山三福道など説いていない。
三福道の宗教犯罪の中で、私は一番やってはいけないと思うのは、
供養によって解脱への道を歩めるという嘘です。
三供養品の三善根とは、無貪・無瞋・無癡であり、
煩悩から解放されれば涅槃に至るという当たり前の経典です。
どこにも供養の功徳の御利益でアナゴンまでなれる、なんて説いていない。
釈迦仏教のどこにもそんな話はありません。
御利益が得られると嘘をつくことと、解脱が得られると嘘を
つくことでどちらが罪が重いか、信者さんたちも良く考えることです。
法華経や大日経など偽経典を元にして解脱を説いたら、インチキだとすぐにわかる。
だが、阿含経に書いてあるかのように、本物の釈尊が
説いたかのように経典を捏造し、ありもしない三福道を捏造するなら、
その罪は極めて重く、釈尊に向かって石を投げつけるに等しい。
これがアゴン宗と信者さんたちのしていることです。
>取引をする信仰が何故にいけないのかなあ?
信者さんたちはもっと因果応報を学び、これを恐れるべきです。
悪業を、それも如来への悪業を為したら、どうなるか。
悪業を為した者が人間に生まれ変わることはほとんどないという。
ましてや、如来の教法を歪めるなどしたら、人間に生まれ変わることはできない。
>>19のような罵倒でさえも、餓鬼から畜生界に堕ちて、人間には戻れない。
彼は自分では不還(アナゴン)だと思っているが、実際は三悪道から
人間には戻れない「逆不還」です。
まだ報いが来ないからと>>478でのんびりしていられる。
アゴン宗のしていることは>>19のような単なる罵声だけではない、もっと重罪です。
それを何のために、わざわざ手伝うのだろうか?
アゴン宗の三福道の正体は三悪道だと早く気が付いたほうがいい。
>あのね、何のためにアウフへーべンの話しをしたのかね?護摩に祈るのは釈尊の仏教ではないですと?
>あたり前でしょ、そんなこと。だから桐山師は阿含宗立てるときに、阿含密教いま、の本で釈尊の仏教と大乗仏教を統合するアウフへーべンの話しを書いているのです。
それでは桐山開発護摩とやらについて、それはあるものだとして、アウフヘーベンとして
護摩の新たな価値として認めてよいか?という論考に移る。
その桐山開発護摩とは深層意識へのアプローチ、開発技術なのだという。
古い原始の時代、人は火を持つことにより他の動物と区別をつけて進化した。
炎は一定の形を持たずユラユラと揺れて人の心に同調しやすい。
護摩の炎を焚く時、人は原始太古の時代、炎を見つめながら寒気から身を守り、
外は吹きすさぶ風の音を聞き、獣の吼える声を聞くとか、文芸物書きの桐山さんは
自分の表現に酔うかのように詩文を「変身の原理」にてしたためた。
太古の遺伝記憶が呼び覚まされ、太古から受け継がれた深層意識を呼び起こす引き金となる。
私はこの詩文を読んだ時、それが詩文であるがゆえに、そんなに単純なものだろうか?
と感想を抱いた。
私も星まつりの現地などにいる時、ドンドコ鳴る太鼓のリズムと炎に、山の上という
自然の景観とも相俟って、原始時代に回帰したように感じた。
しかし原始回帰などと私も詩文を表現したが、本当だろうか?
単にドンドコ太鼓のリズムにのっているだけではないか?それに原始時代などと
その実記憶すらもないものを結びつけただけではないか?
ドンドコ太鼓のリズムなんて原始野蛮人が祭で行い気分を昂揚させただけではないか?
こんな気分の昂揚程度が深層意識のアプローチ、引き金、開発?
違うのではないか?それは単に催眠効果ではなかろうか?
釈尊は在家にも飲酒を禁止した。その理由は、理性と自制心を失うからである。
また出家には歌舞音楽に興じることも禁じた。これは煩悩を増すと言うよりも、
要は常に冷静に自分を観察していなければならないのである。音楽にうつつをぬかしてはいけない。
このような冷静な道に激しい炎の揺らめきは必要だろうか?
>あのね、何のためにアウフへーべンの話しをしたのかね?護摩に祈るのは釈尊の仏教ではないですと?
>あたり前でしょ、そんなこと。だから桐山師は阿含宗立てるときに、阿含密教いま、の本で釈尊の仏教と大乗仏教を統合するアウフへーべンの話しを書いているのです。
ちなみに真言密教では五戒のうちの不飲酒戒を設定せず、代わりに不邪見戒を設け、
アゴン宗の五戒もこれに倣っている。だから桐山さんも法務局の坊主型職員も酒を飲む。
密教が酒を禁じないのは、なるほどとわかる。
理性など麻痺した方がよいからだ。
それで狭い暗闇で護摩でも延々と焚けば、幻覚だって視てくれて都合がよいのです。
つまり護摩なんてものは催眠効果を期待するようなものだ。
ユラユラと激しく燃える炎を見て失い、鈍り、麻痺するものは冷静な理性と知性です。
釈尊が自らの煩悩と常に対峙し、観察せよと指導した自制、自省の道に反する対極のものです。
桐山さんは自分が護摩を焚いている時、その脳波はアルファ波を超えてシータ波では
なかろうかなどと適当な空想を書いていたが、そんなことはあるまい。
明らかに荒々しいベータ波のはずで、このような状態で冷静な観察などできるはずがない。
つまり護摩による深層意識の改革なんてできません。
単に一時的に理性が解放されるだけに過ぎない。そんな飲酒や歌舞に似た手法は
釈尊は認めていない。反する道なんです。
サンユッタ・ニカーヤにある「木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな」と
書いてあるが、これは実は護摩の祈祷面については述べてすらいないことは前に私が書いた。
内面の改革です。内面の改革は常に冷静で自分を見失わない自分の理性による観察と
努力によって得られる。
護摩という外部の手法によって内面への補助とできるのは、内面の混乱に過ぎず、
改革、浄化などはできない。
ゆえに祈祷護摩だけでなく、桐山開発護摩もアウフヘーベンとしての存立は無理な相談だ。
>釈尊仏教と大乗仏教をアウフへーべン出来るか出来ないかは、人それぞれ見解が別なのであって、出来ないと思う人は阿含密教いまの本を読んだ時点で退会しなければ理屈に合わないわけです。
>それなのになぜ阿含信者を続けたのか?
>その理由は御利益が欲しかったからです。
>深山くんが正直に公言したね、御利益求めてさんざん取引信仰したと、ね。
>ユビキタスくんも本質は深山くんと同じです。
因縁解脱とは実は御利益信仰の取引信仰ですから、因縁解脱を志した人は
私も深山さんも等しく取引の御利益信仰をしていたのです。
そしてあなたは未だに取引の御利益信仰をしているのです。
それから私は「阿含密教いま」の桐山アウフヘーベンを否定しているが、この著書が出て、
買って読んだ時には、私はそれを受け入れたのです。
だから疑問になど思わず、その当時は事情あって教団を離れていたが、その後再入行もするわけです。
しかしこれは私の釈尊の仏教に対する無知、不勉強のせいであり、反省しなければ
ならないことです。これは深山さんにしても同様です。
あなたに至っては未だに不勉強で無知なわけです。反省しなさい。するわけないか?
そもそもアーガマ文献、釈尊の仏教では護摩を禁じていたという事実をあなたはその当時
知っていたか?これはアゴン宗の現役信者でも未だに知らない人もいるのではなかろうか?
釈尊は護摩を焚かないが、桐山靖雄は護摩を焚く。それは護摩を焚く時が遺憾なく成仏力を
発揮できるからなんだと言う。しかし釈尊は護摩を焚かなかっただけでなく禁じていた
ということを今アゴン宗の信者の中でどれだけいようか?
釈尊は呪術を禁じたことは知ってました。しかし治毒呪とか治歯呪などは使用するようになった。
これが発展して密教になったという説を桐山さんは否定し、呪術はどこまでも呪術であり
宗教たり得ない、釈尊の成仏法が密教に形式だけ継承されたかのように、形式だけ
復活したのだというのが、桐山さんの考えです。しかしはっきり護摩を否定し、禁止した
ことは当時の私も無知・不勉強にして知らなかった。
だから桐山アウフヘーベンなんか受け入れられたのです。
>釈尊仏教と大乗仏教をアウフへーべン出来るか出来ないかは、人それぞれ見解が別なのであって、出来ないと思う人は阿含密教いまの本を読んだ時点で退会しなければ理屈に合わないわけです。
>それなのになぜ阿含信者を続けたのか?
>その理由は御利益が欲しかったからです。
桐山さんは信者には2つのタイプがあると話したことがあります。
一つは桐山さんが説く理念やら理論理屈やらをよく理解して受け入れて信仰に励むもの。
もう一つは、これはオバチャン信者に多いのだが、桐山理念も理論理屈もよく理解していないが、
とにかく桐山ファンで教祖の言ったことは無条件に受け入れるタイプ。
私は昔から前者であることを自負してきました。
だからあなたよりも遥かに正しく桐山理念と理解理屈を語れます。
そんな私が阿含密教いまのアウフヘーベンを受け入れられないのに、そこのところは
ごまかして単に御利益を得たいあさましさだけで再入行なんかするはずがない。
その当時無知にして不勉強だから間違った認識をしたから、アウフヘーベンも受け入れて
再入行だって果たしたのです。
このように人間というものは最初から完璧なんて人は稀で、失敗をしながら成長していくものです。
大切なことは自分が失敗したことを認める勇気です。
これを持たない人が案外に多い。自分の失敗を認めたくないからアゴン宗なんか
未だに続けている。
自分の価値観が間違っていたと悟り、しかしすぐにそこから脱し改めようと考えることは
実に痛快であることを私は中年になってから知った。
欺瞞を知ったら、悟ったら改める、捨てて路線変更をする勇気が人生には必要です。
そうでなければ人間には進歩というものが何一つない。
例えばオウムのサリン事件実行犯の井上嘉浩などは洗脳解けると徹底して自分を含めて
教祖批判、教団批判をした。もちろん今更批判をしたところで彼の罪も悪業も消えない。
しかしそれを承知の上で、残る余生の生き様を変更する。
あなたは井上の教祖批判を認めませんでしたよね?
ならば井上は一生麻原を支持していればよかったのか?
あなたが桐山さんを地獄の底までも追うように。
に精を出されてたんですよね。 カルト辞めて、その空いた心の穴を、ここで埋めてるんですかね?
なんだ。そもそもカルト入信も、そんなところだったのでしょう。 結局いつまで経っても同じじゃないですか。アンタら。www
東京深山賞櫻趣 http://tokyo.thenote.com.tw/news/detail/622/
だから阿含宗信者とオウム真理教信者は似て非なるもの、真逆なのです。真逆だからオウムの洗脳が溶けたらまともですが、阿含宗の洗脳が溶けたら馬鹿になるわけです。
阿含経仏教と大乗仏教をアウフへーべンしたものにすべきではないか、と提言したのは増谷文雄先生なわけです。
桐山師はその言葉を受けて、理論を展開しているのです。ジンテーゼとしての阿含宗を理解すれば、批判派の批判なんて、おかしいだけなのです。
上手い批判を書き込む算段を年がら年中思い詰めているその身分とは
某教団の専従者。是だけの何月を費やし書き込んでからにと言っても
発表すべき己が信条を軸に為す宗教を世間に問う程のものではない。
某大学野球チームの万年補欠選手みたいなものか。
う~む、貴君はベンチで残念賞が関の山。
も少し弘法大師の文献を読まれると幅が広がるはずだ、院政期の
覚鑁上人もナイス!金岡秀友先生も御立派な阿闍梨である。
青山社、法蔵館、高野山出版などの資料も用いるとなお一層、筆が滑って
冴えるな~と思われるですよ。
お釈迦様が護摩を規制されたと一つ覚えに振りかざすのは余りに芸無し。
<参考図書、「護摩の歴史的研究 山喜房出版」をじっくり読みたまえ。
この著は桐山師が重要な参考文献として引用されている。>
その規制とは真言派の文献ですっかり解除されているので引用し論ずるのは
余りにも煩瑣である。要点は事作法の
火炉に火を熾す前に深い火界瞑想を成就せよである。
だが、密教は三十七道品を三十七尊の仏様に祭り上げて、礼拝の対象にしてから力を失ったと桐山師は説く。密教は様式化して力を失ったというわけです。
だが、力を失ったとはいえ、それは力がゼロというわけではない。密教は修行法を様式化して力を失ったとは、正確には修行法を簡略化して力が弱くなってしまったということです。
修行法がゼロになったわけではないよね。
密教には、あれこれを
>>366 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/02/29(月) 12:23:31.49 ID:LggucDtA
>中村博士はパーリ仏典も漢訳仏典も両方読んでいる。
>そこから彼の見識として帰依したと書いた。
>だが、桐山さんが引用したのは、中村博士のパーリ仏典だけです。
>そこには帰依という文字はありません。
>私は、桐山さんが引用したパーリ仏典には書いていないと批判しているのです。
>ムチャリンダが帰依したかどうかを議論しているのではない。
>「桐山さんの引用した経典にはムチャリンダの帰依などないのに、
>帰依したと嘘を書いている」
>と私は批判しているのです。
>どうしても桐山さんを擁護したければ、桐山さんの引用した経典に
>帰依の話を探すしかない。
>だが、そんなものはない。
>桐山さんの引用した文章には帰依などないのに、桐山さんは帰依したと書いている。
>明瞭な嘘です。
>>437 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/03/02(水) 12:14:57.16 ID:M3KhmAwp
>彼が根拠として引用した経典には帰依したとはない」
>これが私が書いた事であり、あなたはこれに反論している。
>ムチャリンダが帰依していない、なんて私は書いていないし、
>そんな事は議論のテーマにしたことはありません。
>ムチャリンダが漢文経典では帰依したとあるし、
>パーリの律の和訳でも帰依したと翻訳している学者もいるから、
>そんなことは書いていません。
>桐山さんが書いたことが嘘だと批判しているのです。
>桐山さんの本で引用した経典のどこにムチャリンダが帰依したとあるのだ?
>反論したければ、それを示してみなさい。
つづく
↓
確かに、桐山さんが「輪廻する葦」に引用した中村博士の訳には「帰依」という文字は無い。
ところが、博士自身はこの訳からムチャリンダが帰依したと解釈したのです。
桐山さんの引用した博士の訳は、『ゴータマ・ブッダⅠ』中村元選集11、春秋社)に出ています。
「ムチャリンダ竜王は、天空に一片の雲もなく晴れわたったのを知って、
世尊の身体からとぐろを解いて、自分のすがたをかくして、童子のすがたを現わして、
合掌して世尊に敬礼して、世尊の前に立った。」(432頁)
ところが、これと同じ本に博士はこう書いている。
パーリ文『律蔵』によると、・・・・・・
釈尊はムチャリンダ樹のもとに赴き、その下で同じく結跏趺坐したまま、
七日のあいだ解脱の楽しみを受けつつ座していた。
そのときムチャリンダ竜王が世尊に帰依した。(423頁)
“パーリ文『律蔵』によると” というのは、432頁にある訳のことを指している。
つまり、博士は432頁にあるパーリ文律蔵について、「ムチャリンダ竜王が世尊に帰依した。」
と書いたことになります。
自分で翻訳したパーリ文について書いているのだからこんなに確かな証拠はありません。
★★★パーリ文『律蔵』によると、ムチャリンダ竜王は世尊に帰依した★★★
これが博士の見解なのです。
つづく
↓
>ムチャリンダが帰依したかどうかを議論しているのではない。
>「桐山さんの引用した経典にはムチャリンダの帰依などないのに、
>帰依したと嘘を書いている」
あなたが言っているように、ムチャリンダが帰依したかどうかとか、
或いは、合掌して世尊に敬礼して、世尊の前に立ったことが帰依を意味するのかどうか
パーリ仏典の中に帰依したことが書いてあるかどうかとか
そんなことは議論の焦点ではない。
桐山さんの引用した博士の本にはムチャリンダは世尊に帰依したと書かれている。
桐山さんはこれに従っただけなのです。
日本を代表する仏教学者の説に従ったまでです。
桐山さんが引用したのは、『ゴータマ・ブッダⅠ』中村元選集11、春秋社)であることは
「輪廻する葦」の引用参考文献の中に、この本の名前があることから間違いありません。
あなたは、桐山さんが引用した中村博士の本“『ゴータマ・ブッダⅠ』中村元選集11”を持っていませんね。
だが持っていないのなら書店なり図書館で調べれば良かったのです。
そうすれば、こんなヘマはせずに済んだ。
私がバローの訳を漢訳ではなくパーリ原典からだと間違って書いたことも含めて、あなたは私を散々に罵倒し笑い者にした。
(>>428~>>436、>>438~>>441、>>459~>>467)
ところが、あなたのやったヘマはそれ以上だ!!!
桐山さんの引用した本について十分に調べもせず、ありもしないことをでっち上げて桐山さんを嘘つき呼ばわりしたのだから。
議論の出発点から事実とは異なる嘘を書いたのです。
あなたはこの事態を一体どう収拾するつもりですか?
つづく
↓
>>445 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/03/02(水) 12:45:10.17 ID:M3KhmAwp
>あなた方のもう一つの特徴は、自分のミスから絶対に学ばないことです。
>自らの非を認めるなど、死ぬほど嫌いなのは、
>今ペテン大作さんが必死に自分の間違いの言い訳をしているのを見れば十分です。
>あなたは今回ものすごいドジを踏んで大恥をかいた。
>>446 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/03/02(水) 12:49:05.60 ID:M3KhmAwp
>ペテン大作さんはここでこういう間違いをするだけでなく、
>人生でずっとそれを繰り返している。
「自分のミスを絶対に認めない → 反省しない →
>学習しない → 同じミスを繰り返す」
>これがあなたと、桐山さん、一来補さん、宝生さんの人生です。
では、あなたの人生はどういうものか?
読者は固唾を呑んで見守っています。
密教にはあれこれ観ぜよ、という観想という修行法があるね。だから力がゼロというわけではない。阿含経の三十七道品を修行した桐山師に言わせると、密教は様式化して力を失った、というわけです。教えだけの前期大乗仏教よりは、密教ははるかに力があることになる。
だから東密にしろ台密にしろ、三十七道品の本来の修行法を取り戻したら、それは阿含経仏教と大乗仏教をアウフへーべンした高度な仏教になるというわけです。
それが桐山師の主張ですね。
それは、四禅や八解脱という瞑想法とはまるきり違うのです。
テーラワーダは祈りも否定するほどです。
テーラワーダは、祈りをおねだりと勘違いしているようです。
祈りの本来の意味は、密教の入我我入観のことです。
>阿含経仏教と大乗仏教をアウフへーべンしたものにすべきではないか、と提言したのは増谷文雄先生なわけです。
誰がアウフヘーベンの試みそのものを否定したか?
私は大乗仏教にも釈尊の仏教と融合できるものもあり、例えばの具体例として、
観音経の説く七難を災害から守る御利益祈願ではなく、怒りの火難、欲に溺れ流される水難などの
克服とかも掲げている。
事実、私が中学時代に読んだ松原泰道の「観音経入門」もそういう視点の記述もある。
これもあれも否定なんかしません。
アウフヘーベンとして釈尊の仏教と密教の護摩とは、祈祷護摩であれ、開発護摩であれ、
水と油の関係で融合させることは無理で、阿含宗を名乗って護摩を焚くことなど
認められないと書いたのです。
>桐山師とオウム真理教と混同するところからして、ユビキタスくんらは、レベルが低いのですよ。
私が今回オウムの井上嘉浩の話を出したのはアゴン宗とオウムの比較ですらありません。
人が間違ったことに対して悔い改めをする材料として出したのです。
そりゃ井上嘉浩はあれだけのことをして今更改めたところで情状酌量で罪を軽く
してやる気持ちもないし、彼はこのやってしまった悪業に対して、地獄に堕ちる報いは
避けられないと考える。
しかしそれでも彼は悔い改めを表明した。
それはあまりに遅過ぎたかもしれないが、しかし未だに悔い改めすらしない奴
よりはマシで、皆悔い改めるべきだと思う。
その悔い改めも自分が悪かったと自分だけを責めるのは潔いようでいて
実はこれは正しくない。
やはり自分を指導した指導者、教祖を真っ向堂々と批判できてこそ、世の中に対する
お詫びと、このようなことが二度と起きないように、社会への影響力を考えて
発言することは、彼ならばこそやってもらいたいことです。
それを一来補さんは潔くないかのように否定したことがある。
ならば一度悪事に身を染めた者は教祖を批判などをしてはならずずっと擁護
しなければならないのか?沈黙しなければならないのか?
組織の論理が優先されるのか?
組織の論理優先で個人の良心による発言を封じるのは体育会系と言ってしまうと
語弊があるので、かつての日本の軍隊の考えです。
上官の命令には間違いだと思っても遂行しなければならない。
釈尊はそのような軍隊思考を否定しました。自分の頭で考えて自分の言動をする。
>桐山師とオウム真理教と混同するところからして、ユビキタスくんらは、レベルが低いのですよ。
同じじゃねえのかW
阿含宗は念力で生木に火をつけたことを売り物に稼ぎまくり
オームは空中を跳んだことを売り物に人を集めて稼ぎまくり
どちらも騙し、詐欺、犯罪じゃねえかW
世間は、まったく同じにしか見ていないのが事実だ。
>桐山師とオウム真理教と混同するところからして、ユビキタスくんらは、レベルが低いのですよ。
詐欺の片棒、泥棒の見張り番が、いまだに存在しているのが洗脳の恐ろしさだ。
>密教にはあれこれ観ぜよ、という観想という修行法があるね。だから力がゼロというわけではない。阿含経の三十七道品を修行した桐山師に言わせると、密教は様式化して力を失った、というわけです。教えだけの前期大乗仏教よりは、密教ははるかに力があることになる。
>だから東密にしろ台密にしろ、三十七道品の本来の修行法を取り戻したら、それは阿含経仏教と大乗仏教をアウフへーべンした高度な仏教になるというわけです。
「力」って何ですか?
仏教には力なんて言い方はしない。煩悩を減らしなくすのが解脱であり、
解脱は得るものであり、あるいは道を成す、成道がこれにあたる。
さて、その力だが、桐山さんはその密教の観法の修行を以て観念宗と批判している。
その観念宗、つまり観念の遊戯に過ぎないと批判するにあたり、「小公女」を出してまで
本当は貧乏な娘が空想のお城で空想のおべべを着て、すっかりお金持ちのお嬢様になる。
真言密教の観念観想など、この小公女の夢想、妄想に過ぎないことを痛烈に指摘している。
「密教入門・求聞持聡明法の秘密」に書いてあるから探してご覧なさい。
三十七道品の修行と言うが、そもそも37種類も特殊な修行法があるのですらない
ことも知らない。この37という無意味な数字と、密教の金剛界曼荼羅に描かれた
37尊の関係も中村元博士など学者も指摘しているが、実はそれ自体密教の作者が
何もわからず適当に数字だけ揃えただけとわかる。釈尊の阿含経の修行になど
回帰すらしていない。
ましてやホトケ様に祭り上げてしまい、観法とはそのホトケになりきることです。
印を組み真言を唱え、我ホトケなりと念じて、ホトケになりきることによって
煩悩も断じたホトケ様に変身してしまったのです。
子どもがウルトラマンの着ぐるみを着て、ウルトラマンごっこをするのと変わりない。
小公女の夢想・空想・妄想と変わりないのが観念宗の批判です。
釈尊の説いた修行法に戻るとは観法ゴッコではない。
実際の日常生活において常日頃から釈尊の教えを実践することです。
密教の観法なんて修行にすらならないのです。
大乗の六波羅蜜の実践の方が遙かに有効です。
>テーラワーダの気づきの瞑想法は、阿含仏教の一部分の瞑想法に過ぎません。
>それは、四禅や八解脱という瞑想法とはまるきり違うのです。
前にも書いたようにテーラワーダ仏教協会でも実践している気づきのヴィパッサナーは
あの協会のオリジナルですらなく、釈尊の経典に書いてあることをそのまんま実践
しているだけです。
そしてあなたが出す四禅だの八解脱だのだが、これは禅定の深さを
表します。八解脱の八番目は滅尽定です。
もう心に何も感じなくなる意識の遮断状態です。
ここまで禅定に上達すると、たしかに滅尽定にある間だけは煩悩が起こりようもありません。
目の前に戦車が通っても何も見たり聞いたり感じたりしないのだから、そりゃ当たり前だ。
しかし一生滅尽定なんてことはない。それは死人です。
滅尽定から解けてまた普通の生活に戻ったらまた煩悩はむくむくと沸いてくる。
ところが仏教の解脱とはこんな一時的な解脱を体験するのではなく、永続的に
解脱を続けていなければならない。
実は四禅だの九次第定だの滅尽定なんてのは釈尊の考案ですらなく、釈尊以前に
インドにあった瞑想の技法です。釈尊もアーラーラ・カーラーマなどに師事して
これを習い、完全にマスターした。免許皆伝です。しかしそれでも解脱は得られなかったと
釈尊は述べて、離れている。
そのような釈尊が考えたのが常日頃からありのままの自己観察を怠らないヴィパッサナーです。
これにより四六時中煩悩の起きないように注意し、起きても流されないようにする。
深い瞑想だってするが、瞑想の深さなんかよりも常日頃の観察制御の大切さを説いたのです。
ましてや密教の自分はボンノーも断じたホトケに変身してしまったのだぞなんて
小公女夢想とは全然別物です。
小公女は実は夢想、妄想で煩悩を増やし、密教の観法も然りで、釈尊の瞑想修行に
丸反対の道です。
アウフヘーベンなんて無理ですな。
>テーラワーダは祈りも否定するほどです。
>テーラワーダは、祈りをおねだりと勘違いしているようです。
>祈りの本来の意味は、密教の入我我入観のことです。
祈りを否定するのはテーラワーダ協会だけでなく釈尊その人です。
密教の入我我入観なんて認めてません。
入我我入はブラフマンとアートマンの合一、梵我一如から来ている。
しかし釈尊はアートマンなど否定する無我を説いた。
我なんてものは五蘊が仮合したものに過ぎないのです。
諸法無我を説いた釈尊がどうして梵我一如や入我我入を認めるか?
それなのに阿含宗信者を続けたのは御利益が欲しかったからです。本当の仏教云々というのは後付けの理由です。テーラワーダが本当の仏教だと思うならばそちらへ行けばよい。
なんでこんな場所で無駄な時間を弄すのか。
それは本当の仏教などに本当は関心がないからです。
本当は、御利益が欲しかったののです、深山ユビキタスくんはね。
あたり前です。御利益が欲しいのはあたり前の人です。果報と言ってもいい。
釈尊も仏教を修行すれば果報を獲る、と説いて人を導いたのですからね。
果報のない正しい仏教よりは、果報のある邪教の方がありがたいわけです。
だが、そういうことはない。
果報がないから邪教というわけです。
>だからアウフへーべンが無理だと思うならば阿含密教いま、の本を読んだ時点で退会しなければ理屈に合わないわけです、深山ユビキタスくんの場合はね。
やっぱり他人の書いた内容を読んでねーでやんの。
一来補さん個人とは対話不可能だね。
>あ~、しくじった。 謝罪しろ!バーロー!
>このウケないダジャレを入れてこそ、ユビキタスだった。
おいおいw ウケないダジャレなんて保険かけてんじゃね~よカスのくせにwww
気持ち悪りいw
カスならカスなりに、潔く、笑いの才能もセンスも何も無いと正直に言え
ま、阿含宗低能批判者に潔さなんてあるわけねえよな
正しいと思ったカルト信仰卒業して、今度はそのまま2ちゃんで偽善救世志向か しかしじつは
どちらもマスタベイションwww まったく変わってねえからwww
>367 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR :2016/02/29(月) 12:53:27.42 ID:fqAtt/3J
>このスレは深山さんとあなただけのものではない。 私なんかどうでもいいから、他の読者に謝れ!
wwwwwwwwwwwwww 聖人だねえ、私なんかどうでもいいから、だと。
どんだけ偽善者なんだよ じつは自分のマスタベイションだけが目的で生きてるくせに。
ま、元カルト信者だからそうなるよなw
しかし
>私なんかどうでもいいから、他の読者に謝れ!
これどんだけだよ 砂場で小学生がこの台詞言うなら分かるが、
いい年したジジイが言ってるよ。
ま、こいつら一生一般人未満だからしょうがないのか?ww しかしここまで低能だと、
カルト信者といい勝負だな。あ、元カルト信者だったか。
それじゃしょうがねえwww
しかし毎日毎年よくもまあ。www 凄げえなww
で時々歯向かってくるが、すぐ数倍返しされて・・・・・・ですぐそれを無かったことのようにwww
そうしないと、マスタベイションを続けられないからこその知恵だろ?それ。
www
>手元足元に阿含教団の資料を山と寄せ集め、何やら蟹やらムカデやら
>上手い批判を書き込む算段を年がら年中思い詰めているその身分とは
>某教団の専従者。是だけの何月を費やし書き込んでからにと言っても
また宝生さんの御病気が再発しましたね。
某教団なんて書かないので、あなたの守護神の観音様からの御霊示どおりに、
「深山は創価の専従者」と断定したらどうか。
一来補さんと同じで、相手の反論を無視して、同じ事を何度でもくり返す。
他に何もあなたの頭には思い浮かばないのでしょう?
よくまあ、こういう根拠のないワンパターンを繰り返しますね?
私は前、宝生さんは信者ではなく、信者だったこともないとからかったが、
あなたはああいうことを言われて、どんな気持ちでしたか?
もちろん、鈍重な宝生さんは何も感じなかったのでしょう。
ただ、あなたと違い、私は同じネタを使うことにためらいがある。
読者が飽きて、もう笑ってくれないからです。
>>516
同じ内容を繰り返す一来補信者。
単なるコピペマシーンの国太郎。
似ていると言えば似てるかもしれない。
いよっ!お似合いだぜ!低能兄弟のご両人!
><参考図書、「護摩の歴史的研究 山喜房出版」をじっくり読みたまえ。
芸無しとまで他人を罵倒したのだから、よほど面白い根拠を示すのかと
思ったら、これがあなたの反論ですか??
読みなさいではなく、そこに何と書いてある事が、
釈尊の護摩禁止を否定することになるのか、あなたが説明するべきです。
でも、できませんよね?
ろくに読んでもいない。
あなたが出来るのは本の題名を引用して、さも深山に反論して、
論破したかのように錯覚することです。
あなたは本の中身さえもろくに理解していない。
あなたが本の中身を理解していないことは聞かなくてもわかる。
なぜなら、中身を理解したら、護摩など釈迦仏教とは関係のない外道の
生業だとわかるからです。
何も具体的には反論できないから、本の題名だけを出しただけです。
そういうのをハッタリというのです。
桐山さんといい、宝生さんといい、どうしてそんなにハッタリだけなのだ?
たまには中身のあることを書いてみたらどうか。
>>447 返信:深山 ◆lDoupiXSYZNC [] 投稿日:2016/03/02(水) 12:52:15.26 ID:M3KhmAwp [13/13]
>だが、安心しなさい。
>議論はいつもペテン大作さんが勝利した。
>なぜなら、同じ主張をあなたは執念深く繰り返すが、私は読者が
>飽きていることを察知して、レスをつけなくなる。
>すると、あなたはいつも勝利宣言をした。
>針の飛ぶレコードみたいな恥知らずの連中に普通の人間が勝てるわけがない。
そのようなことを言っても負け惜しみとしか受け取られません。
自分を批判する擁護側に対して、いつも大量のレスをつけて来るあなたが、
実は読者のことを考量していたとはとんだお笑い種です。
もし、話題に飽きたら読まなければいいのであって、投稿者がそこまで読者に配慮する必要はありません
あなたは読者が飽きているからレスを止めたのではなく、反論できないからレスを止めたのです。
四禅のときもそうでしたね。
仏教の素人のくせに知ったかぶりをして、いい気になって自論を展開していたのが、
突然仏教学者の言葉を出されて反論できなくなった。
だが、プライドの高いあなたは自分が負けたと見られるのは死ぬより辛いことです。
そこで、「な~に俺は反論できるのだが沈黙したのだ。どちらの主張が正しいかは読者が判断することだ」
などと判断を読者に委ねたかたちでレスを打ち切った。
しかし、実際は反論できないことで敗北したというのが真相です。
実人生では、いつもそうやって自分の非を認めず、言い逃れを繰り返してきたのでしょう。
そんなあなたには誰もついて行かない。
あなたはとても孤独な人だと思います。
以前、もし教団側から訴えれられたとしても、資料は揃っているし、証言者もいるとハッタリをかましていたが、
当てにした証言者はみんな逃げてしまい、あなたは一人法廷に取り残されることになるでしょう。
>>466 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2016/03/03(木) 12:05:44.11 ID:XsRDA2W0
>あなたは根性が悪く、異様に執念深い。
>ペテン大作さんは、
>・十年前の魔女狩りの件を逆恨みしている → 執念深い、
>・その件を理由に「深山の実名公開」と脅迫した → 根性が悪い
>・実名公開で深山を脅かしたが効果がなく、逆手に取られた → ドジ
>という構図です。
あなたの思い描いた構図はとっくに崩壊しているのにまだ気付かないとは呆れた脳細胞の持ち主です。
あなたが理解するまで繰り返し説明してあげましょう。
・あなたは、十年前に某批判側の個人情報を本人の許可を取って書き込んだ。
・あなたは、それをずっと私の情報であると思い込んでいた。
・ところが、あなたが書いた個人情報は私のではなくAさんのものだった。
・あなたもそれを認めた。
ということは、
・十年前に私が個人情報を書かれて強いショックを受けたというのはあなたの作り話だったことになり、
・ショックが原因で、私が魔女狩りに対して異常に反応したというのも作り話になる。反応した理由はそれがデマだからです。
・ショックの復讐に、深山の実名を公開するぞと脅したのも嘘。脅迫したのは復讐ではなくただの挑発だった。
これらが、最終的に何を意味するかというと
「宗務局は書き込みが誰なのか魔女狩りをしている」というのは、深山偽教授の考え出したデマだったということ。
私は、個人情報を書かれたことが原因で魔女狩りに反応したのではなくて、それが根拠の無いデマだったから反応したのだ。
その証拠に今まで宗務局に特定された信者がいるとは聞いたことがない。
もしこれが子供じみた理屈だと言うのなら、批判側の言う
「阿含宗に超人がいないのが阿含宗の教えが駄目な証拠だ」というのも子供じみた理屈になる。