密教食 1 ―― 密教食は桐山氏が開発したという嘘 ―― 桐山氏は「密教食」を阿含宗系列の光和食品から販売させています。長年の修行の過程で開発してきたかのような言い方ですが、実は発売の前年に藤本憲幸氏からの発案と企画で作られた商品にすぎません。超能力開発に役立つなどという嘘や、人々の健康のためなどときれい事を並べながら、桐山氏は原価の6倍以上もの値段で売っていたのです。桐山氏は僧侶のふりをして金儲けをする商売人にすぎません。 1.密教食の由来 桐山氏は『密教占星術Ⅰ』の中で密教食を開発した過程について次のように書いています。 資料1.密教食の由来についての桐山氏の文章(文献1.『密教占星術Ⅰ』p.365,p.366) 密教の修行をしている時、仏に捧げられた供物が身体に良い食べ物であると「大変な発見」をして、桐山氏自身がこれを日常に取り入れ、密教食と名付けていたというのです。 同様の説明は講演会でも話しています。 資料2.密教食の由来(文献2.『密教食について』p.5,
p.3) 資料2でも資料1と同様のことを述べています。ただし、両者の資料は四十年近くも前のものですから、最近の阿含宗でどう言われているかを次に示します。 資料3.密教食は桐山氏の創案とある(文献3.『阿含宗報』p.4) 資料3でも、桐山氏が実際に修行して「ご創案」したものであるとあります。これらの桐山氏の密教食の由来についての主張をまとめるなら次のようになります。 ・密教食は密教の供物から桐山氏が発見した。 ・密教の供物を元にして桐山氏が開発した。 ・桐山氏が密教食と名前を付けた。 だが、発見、開発、名付け親は桐山氏ではないことが、発案者本人から示されました。 2.本当は「こうして密教食は生まれた」 資料4.藤本氏による密教食の由来(文献3.pp.22-24) 藤本氏は資料4の著書ではっきりと、 「これをベースに新しい“密教食”を作ることを思いつき、桐山氏に提案した。」 と書いています。 つまり、大豆や玄米を粉末にして食品にするという発想も、「密教食」という名前も桐山氏の発案ではなく、1971年頃に藤本氏の提案と企画によって作られたものだというのです。 密教食の発案、企画から、生産のための工場の紹介、広告パンフレットのための学者への依頼、講演会の設定、テレビ出演の企画まですべて藤本氏によるものです。桐山氏は密教修行者という役柄で出ているだけで、発案から販売企画まですべて藤本氏が行ったものです。 つまり、 ・密教食は密教の供物から桐山氏が発見した。 ・密教の供物を元にして桐山氏が開発した。 ・桐山氏が密教食と名前を付けた。 という桐山氏の主張は真っ赤な嘘で、実際は、 ・密教食は藤本氏が案を出した。 ・藤本氏が「ホツマナ」という健康食品を元にして密教食を開発した。 ・密教食は藤本氏が名前を付けた。 桐山氏は前年に他人が提案してきた密教食を、まるで長年にわたり自分が研究開発してきたかのような嘘を並べてきたのです。桐山氏は密教食について藤本氏の名前を出したことは一度もありません。まるで最初から自分が工夫して作り出したかのように書いています(資料1,2)。 これはあまりに不誠実な態度です。 3.密教食が生まれたのは発売前年 桐山氏の大きな嘘は、密教食を長年の密教修行の中から彼自身が観念工夫して開発してきたかのような書き方をしている点です(資料1~2)。だが、藤本氏は、彼が24歳の時に桐山氏に密教食の提案をしたと述べています。藤本氏は1947年生まれですから、24歳とは1971(昭和46)年ということになります。 密教食が発売されたのは1972年ですから、1971年に藤本氏に提案され、わずか一年ほどで作り出されたことになります。桐山氏の話とはまるで違います。 桐山氏は長年、密教食を作り上げてきた証拠の一つとしてあげているのが、『変身の原理』に書いてある文章です。『密教食について』(文献2)ではこれを根拠として引用しています。では、その文章を『変身の原理』から見てみましょう。 資料5.密教食の話を書いたという文章(文献5.『変身の原理』、pp.453-454) 資料5の文章を読んでもわかるように、これは肉食を否定し、玄米菜食を勧めた内容です。どこにも密教食のような、お供物を粉末にして食べるというような話はありません。密教食を自分が発明したかのように見せかけるために、『変身の原理』に書いた食事の話で錯覚させようとしただけです。 『変身の原理』を書いた時、桐山氏が密教食のアイデアすら持っていたはずはありません。なぜなら、提案者の藤本氏が桐山氏と最初に会った時、桐山氏から『変身の原理』をもらったと書いているからです。本が出た後に藤本氏が桐山氏と初めて会って、その後密教食を提案したのですから、『変身の原理』に密教食の話など載っているはずがないのです。 『変身の原理』は1971年10月20日が初版ですから、二人が会ったのは、どんなに早くても1971年の後半です。藤本氏の提案に基づき、翌年1972年から密教食の販売を始めたとみれば、筋が通ります。 密教食は桐山氏の長年の研鑽の結果できたものなどではなく、他人のアイデアを使い、たった一年ほどの短期で開発された商品です。 桐山氏はいかにも昔からこれを食し、家族や周囲の信者にも分けていたかのような書きぶりですが、こんなのは密教食をそれらしく見せかけるための作り話にすぎず、1972年までは桐山氏ですら、密教食など見たことも聞いたこともなかったのです。 4.桐山氏の販売戦略 桐山氏も密教食を売るために商売人としての努力をしました。虚構の宣伝を作り上げることにかけては桐山氏はたいへん才能を持っています。いかにも長年の密教修行から編み出したかのような話を作り上げていきました。その一つが『密教食物語』(資料5)です。 資料5.密教食の宣伝冊子(文献6、文献7) 『密教食物語』の著者は鶴見次郎となっていますが、これは桐山氏のペンネームです。桐山氏以外の人が書いて、客観性があるかのように見せかけるためと、桐山氏を文中で持ち上げて自画自賛するためです。 50頁ほどのこの小冊子では、超能力の宣伝と、それを獲得するためには密教食を食べなければならないと結びつけています。しかし、これらの宣伝にもかかわらず、密教食を食べて頭が良くなった人や超能力を獲得した人は未だに一人も出てきません。 冊子では、密教食に含まれる漢方などを紹介しています。現在の密教食もこれと似たような成分を表示していますが、実際にどの程度含まれているかは企業秘密としていっさい公開されていません。だから、密教食の成分の99%までが麦焦がしであっても、かまわないことになります。 5.独占販売権50万円 桐山氏の密教食販売作戦は、いかにも深山幽谷で密教行者が開発したかのような錯覚を与えるだけでなく、販売方法にも工夫が見られます。まず、最初期の密教食の広告をごらんください。 資料6.最初期の密教食の広告 密教修行者は密教食を一日2袋、一般人は一日1袋とるように書いてあるのが笑えます。一袋でも多く消費させるために、超能力がほしい者は2袋食べるように釣ったのです。桐山氏のこの作戦に釣られた信者はたくさんいたことでしょう。もちろん、何袋食べようが、超能力など得られるはずはありません。 「登録商標済」、つまり密教食という名前は登録商標であると強調しています。実際は藤本氏の発案にすぎないのに、他人に盗まれまいとするのはいかにも桐山氏らしい態度です。 この広告では、「大日山金剛華寺、日本根本密教道場の名にかけて、原材料を厳選・・・」とあります。つまり、今と違い、まだ光和食品ができておらず、宗教団体が販売していたのです。 このパンレットが最初期でものであろうと推測できる一番の理由は密教食の値段です。「一ヶ月分 1,500円」とあります。この後、比較しますから、この値段を記憶してください。 資料7.密教食の広告(文献6.『密教食物語』) 資料7は初版の『密教食物語』の表紙裏にある密教食の広告です。ここでも販売は大日山金剛華寺になっています。また、値段が2,200円に上がっています。このことから、資料6の広告は、資料7よりも前に出たことになります。 資料7の中段に「普及指導員」とい見慣れない言葉ができます。その内容について、第二刷の『密教食物語』の広告(資料8)を見てみましょう。 資料8.密教食の広告(文献7.『密教食物語』) 藤本氏からコネを作ってもらい、この時代からテレビなどマスコミを巧みに利用している桐山氏の商才はさすがです。 資料8では、「密教食F・L・C普及指導員」という言葉が出ています。FLCとはFood
life consultantの略で、全国を115の地区に分けて、その地区の密教食の独占販売権を50万円で売るというものです。 桐山氏の文章では、修行によって得られ、要望があるからお分けするという控えめな口調ですが、実際は販売権まで売るというのですから、積極的な商売です。 FLCの具体的な内容については週刊誌で桐山氏の説明が紹介されています。 資料9.FLCの内容(文献8.『週刊新潮』p.41) 資料9は、『週刊新潮』が密教食を批判的に取材した記事です。この中で桐山氏は独占販売権を50万円でなく30万円だと言っています。両者はほとんど同時期なので、どちらが本当かわかりません。いずれにしろ、1970年代の30~50万円というのは決して安い金額ではありません。 桐山氏の口調は、月に200個売れとか、売れなければやめてもらうとか、その際、お金はほとんど返さないなど、宗教家というよりも商売人そのものです。 FLCと似たような名前を今でも阿含宗は使っています。ALC(Agon
life consultant)という阿含宗の相談係です。こんなふうに桐山氏の発想は今も昔も変わっていません。 密教食を売るだけでなく、独占販売権でさらに儲けようとするのが坊主さんだというのだから、週刊誌の批判を待つまでもなく、生臭坊主です。 6.学者の了解も取らない 週刊新潮の記事では、密教食を推薦したという学者たちを取材しています。 資料10.密教食を推薦した学者たちの言い分(文献8.p.41) 杉靖三郎氏は、自然のものを取り入れるのはいいという一般論を述べただけで、密教食を推薦したのではなさそうです。もう一人の元教授は「メイワクだ」というのだから、桐山氏は本人の同意もとらずに宣伝に利用したようです。 いかにも桐山氏らしいやり方です。おそらく二人の学者は密教食を社交辞令からその場で誉めたのでしょう。桐山氏はさっさと宣伝に使ってしまい、後は野となれ山となれで、苦情が来なければそのまま使い続けるという大胆不敵なやり方です。 7.密教食の値上げ 資料8と資料9では、密教食の値段は2,800円になっています。そこで次の資料11をごらんください。 資料11.密教食の広告 資料11は資料6と同じような紙一枚の広告で、内容もよく似ています。二点大きく違う点があります。一つは、資料6では大日山金剛華寺が販売者であったのに、資料11では光和食品が販売者になっています。これは1973(昭和48)年4月16日に光和食品が桐山夫人を社長として設立されたからです。 資料6~11から、密教食の価格が短期間の間に次のように値上がりしたのがわかります。 1,500円・・・1972年前半(資料6) 2,200円・・・1972年8月頃(資料7) 2,800円・・・1973年1月頃(資料8) 3,500円・・・1973年4月の光和食品を設立以後(資料11) わずか一年ちょっとの間に、価格は倍以上になりました。1973年のオイルショックは10月以降ですから、物価上昇が理由ではありません。おそらく反応が良く、売れると踏んだので値段を上げたのでしょう。これを見ても桐山氏の、世間の皆さんのためにお分けした、などというのは嘘で、最初から収益を上げる商売が目的だったのです。 時間経過をまとめると次のようになります。 1971(昭和46)年 藤本氏が密教食のアイデアを桐山氏に持ち込む。 1972(昭和47)年 密教食発売
1,500円。 8月 『密教食物語』の初版発行。密教食2,200円に値上げ。 9月 金沢東ロータリークラブで講演。 1973(昭和48)年 1月 週刊新潮に批判記事が載る。密教食
2,800円に値上げ。 4月 桐山夫人を名目上の社長に光和食品設立。密教食
3,500円に値上げ。 では、密教食のもうけとはどのくらいあるのでしょう。その一部が15年後に明らかになりました。 8.密教食の原価は600~635円 1987年に密教食は薬事法違反で摘発されました。資料12はその時、朝日新聞に掲載された記事の一部で、当時の密教食の原価が掲載されています。 資料12.密教食の原価が暴露された新聞記事(文献9.朝日新聞) 原価は600~635円だというのです。 これは製造業者から光和食品への卸価格でしょう。これを当時、3,000~4,500円で売っていたのですから、まさに「薬九層倍」(原価が安いのに高く売りボロもうけをすること)です。 ただし、600~635円は1987年当時の原価ですから、これよりも15年も前の1972年にはもっと安かったはずです。原価がこのままだとしても約6倍、半値の300円だったとすれば、なんと原価の十倍以上の値段で売っていたことになります。ボロもうけです。 資料13.密教食は自然に広がったという桐山氏の弁(文献2.『密教食について』) 桐山氏は資料13で、 「一般の方々にお分けしようと思って作ったんではなくって・・」 「・・だんだん、だんだんと、一般に出てゆきまして・・・」 と自然に大反響が広がり「公開領布」に踏み切ったと、自分の善意のほどを強調しています。 しかし、密教食のアイデアと商品開発から講演会やテレビ出演まで藤本氏の企画であり、桐山氏はそれに乗って、まるで昔から密教食を食べていたかのように見せかけた、一種のヤラセです。鶴見次郎などというペンネームで宣伝用の冊子を作り、講演会を開いているのですから、周囲の要望というよりも、桐山氏が先頭に立って積極的に売り込みにしています。 これだけ露骨な金儲けをしながら、人々のためにお分けするかのような言葉は実に空々しく聞こえます。 資料14.週刊誌の記事でひどい目にあったという桐山氏の主張(文献10.自然食品まつり講演 p.55) 資料14では、桐山氏が『週刊新潮』(資料9)で書かれた記事で大被害を受けたとして、繰り返し、自分は金儲けのためにやっているのではないと反論しています。 だが、現実はただ密教食を売るだけでなく、FLCなどで販売権の売買までしていました。しかも、売れ始めると二年にわたり1,500円を3,500円まで値上げを繰り返し、原価の6倍以上もの値段で売っていたのです。こういう「坊主丸儲け」を絵に描いたような桐山氏が、金儲けのためではなく、人々の健康のためなどといくら言っても何の説得力もありません。 密教食は桐山氏が金を儲けるための商売であったことはあまりに明瞭です。 まとめ ・密教食は密教の供物から桐山氏が発見、開発し、密教食と名前を付けたという桐山氏の主張は嘘である。 ・密教食は発売前年、藤本氏が桐山氏に提案、開発、企画し、名前をつけたものである。 ・密教食が長年の密教修行から得られたという主張は嘘であり、発売の前年に商品として作り出されたものにすぎない。 ・桐山氏は周囲の要望で領布したかのような言い方をしているが、自ら宣伝用の冊子を作り、講演会を開き、積極的に売り込みをしていた。 ・売れ始めると密教食を再三にわたり値上げして、原価の6倍以上もの値段で売り、独占権を販売するなど、金儲けが目的で密教食を売り出したことは明らかである。 文献1.『密教占星術Ⅰ』桐山靖雄、平河出版社、1973年. 文献2.『密教食について』桐山靖雄、昭和47年9月26日、金沢東ロータリークラブに於ての講演筆録. 文献3.『阿含宗報』阿含宗出版部、2010年3月27日、290号. 文献4.『現代密教 天地開動術』藤本憲幸、実業之日本社、1991年. 文献5.『変身の原理』桐山靖雄、文一出版、1971年. 文献6.『密教食物語』(第一刷)、鶴見次郎、平河出版、1972年. 文献7.『密教食物語』(第二刷)、鶴見次郎、平河出版、1973年. 文献8.「いま宣伝中の密教食はインチキじゃないかという俗界人の試食記」、『週刊新潮』、1973年1月25日. 文献9.「健康食品を無許可販売 阿含宗管長ら書類送検」、『朝日新聞』朝刊、1987年6月2日. 文献10.自然食品まつり講演、『別冊アーガマ』、阿含宗総本山出版局、1981年. |