阿含経の捏造 その1 三供養品に存在しない“三福道” 桐山氏は阿含経の三供養品にある三福道こそが、在家信者に説かれた成仏法であると主張しています(文献1)。三福道は阿含宗の二つある根本経典の一つで、在家信仰の拠り所であり、根拠です。この経典の重要性は「末世成仏本尊経」という名前を桐山氏がつけたことからもわかります(文献2)。 だが、阿含経には三福道など存在せず、三福道という言葉自体が桐山氏の捏造です。単に言葉を捏造しただけでなく、三善根の元々の意味とは正反対に用いています。 存在しない三福道の経典 桐山氏の主張を見てみます。文献1に掲載されているのが下記の二つの経典です。桐山氏は、三供養品には三福道と書いてある経典と(文献1の288~289ページ)、三善根と書いてある経典(文献1の290ページ)の二種類があると主張しています。それらが以下の経典です(資料1)。 資料1(文献1.『社会科学としての阿含仏教』) 次に漢訳経典を見てみましょう。以下に掲載した四枚の資料は、『國訳一切経』(文献3)にある三供養品のすべてです。三供養品とは十からなる経典群を指します。個々の経典には名前はなく、冒頭に「一」「二」・・・「十」といった番号をついているだけです。 三善根を説いた経典は、「二」(191頁)にあるのがわかります。一方、三福道を説いた経典はどうでしょうか。 資料2(文献3.『國訳一切経 阿含部 8』) 上の四枚の資料にある三供養品を見てもわかるように、三善根と書いてある経典はあるが(下の資料3)、三福道と書いてある経典はありません。 桐山氏は増一阿含経の三供養品であると指定しています(文献2の254頁)。上記の四枚の資料は増一阿含経の三供養品のすべてですから、この中に三福道があるはずです。しかし、ありません。いかにも似たような経典が二つあるかのように見せかけたのです。つまり、三善根という言葉をただ三福道に置き換えたのではなく、一つの経典をまるごと捏造したのです。 資料3(文献3.『國訳一切経 阿含部 8』) 経典への加筆 阿含経に実在する資料3の経典と、桐山氏が捏造した経典を比較すると、単に三善根を三福道と置き換えただけでなく、文言が追加され、捏造されているのがわかります。 漢訳経典の原文 「是を阿難、この三善根は窮尽す可からず。涅槃界に至ることを得と謂ふなり」 桐山氏によって捏造された経典 「是を阿難、この三福道は窮尽すべからず、須陀洹より阿那含に至り、五下分結を断ず。即ち涅槃界に至る三福道なり。」 桐山氏はかねてより大乗経典を偽経典として厳しく批判してきました。ところが、その桐山氏本人が経典捏造に手を染めたことになります。しかも、驚くべきことに、桐山氏は自らの経典捏造を堂々と本に書いています(資料4、文献2の255頁)。 また、この書き加えは意味においても矛盾しています。桐山氏は資料1の冒頭で、「涅槃界とは完全解脱の境地」と表題まで付けながら、経典に書き加えた文章では、須陀洹から阿那含までと、完全解脱ではない境涯と解釈しています。原文では、須陀洹から阿那含までなど説いておらず、涅槃界というのだから、阿羅漢しか説いていません。 桐山氏がこのような矛盾した書き加えをしたのは、三供養品が在家に説かれた経典であり、在家は須陀洹から阿那含までしか到達できないということの辻褄合わせをするためです。だが、この経典は涅槃界とあるのだから、明らかに出家のために説かれた経典です。 捏造を堂々と告白 桐山氏は経典に書き加えることが捏造であり、悪事であるという意識すらないことを示すのが次の一文です(文献2の255ページ)。 資料4(文献2.『末世成仏本尊経講義』) 上記で桐山氏は註解として、次のように記述しています。 福を受ける三つの道、方法、この場合の福とは霊性開眼して聖者になること。
一書には「三善根」「三福業」とあり。阿含宗は「三福道」をとる。
また、「自須陀洹至阿那含断五下分結」の十三句は、のちに述べる通りの理由により、同意の他の阿含経から取り入れた。 ここで、桐山氏は文言を他の経典から「取り入れた」と述べて、捏造したことを告白しています。桐山氏は経典に書き加えることが捏造という宗教的な犯罪であるという意識すらないようです。 三福道の元ネタ「三福業道」の捏造 資料4の記述にはさらに首をひねるような、三福道の由来が述べられています。 それは、「三善根」と「三福業」のうちから「三福道」を採用したという記述です。言うまでもなく「三善根」と「三福業」のうちから「三福道」を選ぶことはできません。一見、三福道を三福業と書き間違えた単純ミスのように見えますが、実はここに桐山氏の捏造の元ネタが隠されています。立宗前後に書かれた本には次のような記述があります(文献4の210~211頁)。 資料5(文献4.『人間改造の原理と方法』) 運をよくする修行法として「三福業道」なるものがあると記述しています。では、桐山氏のあげた長阿含経の衆集経の三福業道を見てみましょう(文献5、158ページ)。 資料6(文献5.『國訳一切経 阿含部 7』) 三福業について書かれているのは、1~2行目の次の文章です。 復た三法有り。謂く、「三福業」、「施業」と「平等業」と「思惟業」となり。 ここには桐山氏のいう「三福業道」などなく、「三福業」です。桐山氏は資料6(文献4)で、 どんな修行法か? 『三福業道』 と名付ける修行法である。 と書いていますが、これ自体が捏造です。衆集経には三福業はあっても、三福業道などという言葉はありません。三福業に道を付けることで、特別な修行法であるかのように見せかけたのでしょう。だが、三福業道は桐山氏の造語あり、捏造です。 桐山氏は、三福道ではなく三福業であることを百も承知だったから、「三善根」と「三福業」のうちから「三福道」を選んだなどと書いたのでしょう。 三福業 → 三福業道 → 三福道 と、まるで伝言ゲームのように捏造したことは明らかです。 意味の捏造 三福業が三福道の元ネタであることは意味をみてもわかります。桐山氏は三福業について次のように説明しています。(文献4、資料5) 仏陀は、運のわるい修行者のために、運をよくする修行法を説いているのである。 衆集経の三福業は資料6に示したたった一文です。三福業とは施、平等、思惟である、と説いているだけで、それらの解説すらもありません。ところが、桐山氏によれば、これが運をよくするための修行法であるというのです。桐山氏は施だけを取り上げて、様々な施しをすることで運をよくするだという意味不明の記述をしています(文献4の212~215ページ)。 仏教では運や運命など修行や信仰の対象ではありませんから、運に関する記述などもともと阿含経にあるはずもなく、衆集経にもありません。桐山氏は経典そのものを引用せず、運を良くする修行法がさもあるかのように見せかけたのです。 そして、十年ほど後に、仏に供養すれば運がよくなり解脱するという三福道として、修行法の捏造へと発展させました。 修行法の捏造 桐山氏によれば、三福道も三善根も意味は同じであり、仏に供養するとその見返りに徳を授けてもらい、その徳によって解脱するという考えです。しかし、仏教にはこのような教法は存在しません。三供養品にある三善根には桐山氏のいうような意味はないからです。 三供養品にある三善根とは、次のような意味です。 資料7(文献6.岩波仏教辞典の499ページ) 仏教の三善根とは貪・瞋・癡と呼ばれる根本煩悩をなくすことです。この三つの根本煩悩から解放されたら解脱者、ブッダです。つまり、三善根とは煩悩を断ち切るという仏教の目標や修行そのものを指す言葉です。どこにも仏に供養して解脱を得るなどという意味はありません。 三善根は煩悩を断ち切れという教えであり、一方、三福道は仏に供養してその見返りを得ようというのだから、欲望そのものです。両者は正反対の意味です。 桐山氏は、三善根ではインパクトが弱いので、三福道といういかにも御利益のありそうな名前にすげ替えたのです。 以上、三福道を用いた桐山氏の捏造は次のようにまとめられます。 ・三福道と書いてある別経典があるかのように経典を丸ごと捏造した。 ・阿含経に存在しない三福道という言葉を捏造した。 ・経典に文言を加筆して意味を歪めた。 ・出家に説かれた経典を在家に説かれたかのように偽った。 ・衆集経に三福業道という修行法があるかのように捏造した。 ・衆集経の三福業が運を良くする修行法であるかのように嘘を書いた。 ・三善根の本来の意味とは正反対の意味であるかのように歪めた。 文献1.『社会科学としての阿含仏教』桐山靖雄、平河出版社、1997年. 文献2.『末世成仏本尊経講義』桐山靖雄、平河出版社、1986年. 文献3.『國訳一切経 阿含部 8』大東出版社、昭和57年 文献4.『人間改造の原理と方法』桐山靖雄、平河出版社、1977年 文献5.『國訳一切経 阿含部 7』大東出版社、昭和57年 文献6.『岩波仏教辞典』岩波書店、1999年版 |